あて所に尋ねあたりません、か?

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 ファンレターを書くのが趣味だった時期がある。  俺はヒップホップが好きで、だけどそれを誰かに知られるのが嫌で、誰にも言わなかった。でも、好きだという気持ちはいつもあふれそうで、それでファンレターを送った。  新譜が出るたびに、いや新譜が出なくても、好きだという気持ちを何度も熱心に送った。  返信を期待していたわけではなかった。  だけど、あるアーティストからは、普段の粗暴な印象とはかけ離れた、とても丁寧なメッセージカードが送られてきた。直筆のサイン付きだった。  たった一通だけ返ってきたそれは、俺の宝物だった。  これはそう、俺の宝物についての話だ。  好きだと熱心に書き送って、返ってきたただ一通の返事の話。  そのアーティストを、クラスメイトの誰も知らないことは明らかだった。  だからメッセージカードのことを誰にも言うつもりなんてなかったのに、ただひとり、彼だけは自慢してしまった。  今思えば、それが運の尽きだったのかもしれない。 「なぁ、だから頼むよ」 「ラブレターを書いてたわけじゃない」 「同じようなもんだろ」 「全然違う」 「頼むって」 「ラブレターなんて書けるわけないって言ってるだろ」  俺が何を言っても、信一郎はろくに聞く耳を持たなかった。 「頼むよ、他にいないんだ」  そうなのだ。この友人は、よりによって俺にラブレターを代筆しろと言ってきている。 「お前、字きれいだし……」 「しかも手書きかよ」  信一郎は、小学生の頃からの友人で、中学に入った今も付き合いが続いている。一番の、というかほぼ唯一の友人だった。  俺の好きな音楽の事なんて、もちろん全然わかっていない。ただ俺が、返ってきたメッセージカードを自慢したことを覚えていて、手紙なら得意だろうと言ってきているのだ。  確かに文章は割と得意だ。国語の成績もいい。  でもだからといって、信一郎のラブレターを書くなんてまっぴらだった。 「手書きがいいだろ、やっぱりぬくもりが伝わるっていうか……」  悪びれもせずに信一郎は言う。 「俺のぬくもりが伝わってどうすんだ。大体どうにかして、LINEを聞いてこいよ」 「それができたら苦労しないって」  なぜ今頃、文通なのか。  信一郎は先月、剣道の大会に出場した。惜しくも全国大会への出場は逃したけれど、うちの学校では1番の活躍だった。  剣道はモテには不利な競技だと思う。顔が見えないからだ。  信一郎が、今頃サッカーでも野球でも、そういうスポーツをやっていたら、とんでもなくモテただろうになと思う。運動神経がいいし、体力があるから粘りもきく。それに、ここぞというときの彼の集中力は、傍で見ていてもぞくりとする。  硬い、こわばった横顔を見るのが俺は好きだった。  それでも、信一郎のかっこいいところは、俺だけが知っていれば良いのだと思っていた。  「やばい、連絡先もらっちゃった」と言って信一郎が見せてきたのは、可愛らしい便箋の一枚だった。  書かれていたのは、住所と名前。  なぜこのご時世に、LINEではないのか。わざわざ他校の生徒に連絡先を教えるのに、住所はないと思う。 「やっぱりお前騙されてるんじゃないか……?」 「どんなふうにだよ」 「なんかこう……オレオレ詐欺みたいな」 「どうやって?」  住所だけでは、向こうから連絡してくる手段もない。うまく説明できずに俺は黙るしかない。 「こっちから送ったら、その住所を悪用されるとか……」 「そんなことするつもりなら、その場で住所聞くだろ。俺はすぐ答えただろうし」  確かにそうだ。人を疑うことを知らなくてまっすぐな信一郎に、そんなまわりくどいことをする必要はない。  でも、彼女はそのことがわからなかったのかもしれない。 「なぁ、頼むよ。俺の国語の成績知ってるだろ」  慎一郎は、どのくらい知っているのだろう。俺が彼の頼みに弱いことに。 「変に取り繕わないほうがいいんじゃないか」 「別に取り繕ったっていいだろ」  信一郎は両手を合わせてくる。  そんなに彼女のことが好きになったのだろうか。俺はなかなか、信一郎の顔を見れなかった。  俺の方がずっと前から好きなはずなのに。  でも当然、口にはできない。 「頼むよ、礼はちゃんとするから」  でもいつかはこんな日が来ることも、わかっていたような気がする。  かわいらしい女の子あるいは美人なお姉さま誰でもいいけれど、やってきた女が彼を奪っていくのだ。  俺の方がずっと前から好きでも、何にもならない。  だって、これは言えない気持ちだから。 俺はひっそりとため息をつく。 「わかったよ」    信一郎は、なぜだか手書きにこだわっていた。確かにその方が印象は良いだろう。  だがもし付き合うようになったときに、筆跡が違っていることを不審に思われたりはしないだろうか。例えば婚姻届を出す時とか。  俺は小さく自嘲する。  さすがに考えすぎだろう。彼女がどこに住んでいる人間なのかは知らない。だがうちの学校ではないだろう。  住所を渡してきたのはただ一時の気の迷いで、信一郎の事などもう忘れているかもしれない。  とりあえず、無難な手紙を書いてやればいいだろう。  彼女に好印象を持っていて、もっと知りたいということ。  できればLINEで連絡を取り合いたいこと。  あまり長すぎず、シンプルな文章にとどめた。それを信一郎に渡し、投函してもらった。  返事はなかった。  信一郎は、しばらくの間はテンションが高かった。 「まぁそのうち来るよ」  そんなふうに言って余裕を見せていた。 「彼女も忙しいかもしれないし」  でもそのうちに、目に見えて落ち込んでいった。  来ない手紙を待つ苦しさは、わかるような気がした。期待した分だけ、好きな分だけ、返事が来ないのに待ち続けるのは辛い。 「気にすんなよ」  こんなとき俺は彼を、どう慰めていいかわからなかった。  信一郎は、普段は相変わらず部活に打ち込んでいる。だけどいつも底抜けに明るかった表情に、影を感じるようになった。 「たまたま忙しい時期かもしれないし、郵便事故ってこともある」 「郵便事故?」 「届かなかったかもしれないってことだ」 「届かない……」 「いや、可能性は低いけど!」  俺がなんといっても、信一郎には届いていないみたいだった。 「だいたいの手紙はちゃんと届くんだよ。大丈夫だって」  彼は目に見えて調子が悪くなり、部活での成績も落ちた。授業中、ぼうっとしていて先生に指されてもまともな回答をしなくて、教室中に笑われていた。  俺は何だかいたたまれなかった。  俺の手紙がそれほど悪かったとは思えないけれど、責任の一端はある気がした。 「なぁ……俺、あの住所、行ってみようかな」  ある日、下校途中に信一郎は言った。 「えっ」 「このままもんもんとしてるより、直接聞いたほうがよくないかな」 「いや、それは……」  住所は同じ県内ではあるが、ほとんど端と端なので一時間以上はかかる。  小遣いで行けない距離というわけではないし、スマホで住所を確認しておけば、家にまで行くことはできるかもしれない。  でも、返事をよこしていない女の子だ。  突然に訪ねても、きっと冷たくされるのが関の山だろう。  それに俺は、ひとつの仮説を持っていた。あまり考えないようにしていた可能性だったけれど、もしかしたら彼女は他の子から嫌がらせとして、住所を渡せと言われたのかもしれない。そういう可能性だって十分にある。  もしそんな子のところに、信一郎が行ったらどうなるか。  だけど、その説は話せなかった。  彼は無邪気に、その女の子を慕っている。  まだ、手紙を待っている。 「それはさすがにやめとけよ……ちゃんと、手紙で約束なりしてからの方がいい」 「そうか……そうだよな」  俺はだんだん、見たこともない彼女に腹が立ってくる。どうして返事を書かないのか。本当に、嫌がらせだったのか。  いっそ俺の方が、彼女の家に押しかけてやりたいとも思う。  信一郎と別れて部屋に一人になってからも、ぐるぐると考えてしまっていた。 「あーダメだ」  信一郎のために、彼女のストーカーになっても仕方がない。  俺は、もし返事が返ってくるとしたらどんなものだろうかと想像し始める。  最初だから、まだお互い手探りだろう。ちょっと冷たく感じられるくらいかもしれない。だが彼女も、まだどこまで自分のことを伝えていいか分かっていないだけなのだ。  手紙をもらえてうれしいこと。  学校が忙しくて、なかなか返信をできなかったお詫び。  LINEは家の都合で使えないないこと。  とても親が厳しいので、電話は難しいこと。  それでも信一郎のファンで、応援していると伝えたかったこと。  頭の中で考えてみるだけのつもりだった。だけどいつの間にか、それらの言葉は俺の頭の中で膨れ上がっていった。あまりにリアルな空想だった。  とにかく吐き出してしまおう。そんなつもりで、俺はパソコンに向かう。  書き上がった手紙は、自分で見てもなかなかいい出来だった。  顔の知らない彼女の気持ちを思う。どうして信一郎に、住所を渡したのか。落ち着いた感じの美人だったと信一郎は言っていた。応える気がないのなら、半端に気を持たせるようなことをしないでほしい。  信一郎も信一郎だ。そんなに、彼女の顔が気に入ったのだろうか。たいした話もしていないくせに。  内向的な俺と、社交的な彼とはもともと、正反対のタイプだった。  小学校の集団下校の時に、家の方向が同じだった。遊ぶようになったきっかけはそれだけだった。  俺は小さいころから、人とは少し違った音楽を聴くのが好きだった。ヒップホップの知識なんかひけらかして、今思えばイヤミな子供だったと思う。  信一郎はからりとしたタイプで、友達も多かった。だけど俺を馬鹿にするようなこともなくて、いろいろ知っていてすごいなぁと素直に感嘆の眼差しを向けてくれた。  本当に、いいやつなのだ。  俺は気がつくと、そのよくできた手紙を、父親のプリンタで印刷していた。  そうして、母親がいつもストックしているシンプルな白い封筒に入れた。  女子中学生が使うには地味すぎるだろうか。だが、わざわざ封筒を買ってくるよりも、この方がなんとなくリアルな気がした。  リアル。俺は、慎一郎を騙そうとしているんだろうか。  俺はほとんど、操られるように手紙を投函した。 「博正!! なぁ、いいこと教えてやろうか。来たんだよ! 返事!!」  信一郎の喜びようは、想像以上だった。  彼の持つ白い封筒を見て、俺は必死に表情を取り繕わなければならなかった。 「やっぱり忙しかったんだってー、そんでもって、お嬢様なんだなー。確かにそんな感じだった!」  その姿を見て、俺は自分が過ちを犯したことを悟った。  この先も、絶対に信一郎には言い出せない。  それが俺が書いたものであって、彼女はどんな理由があるにせよ、何の反応も示していないなんて。 「博正? なんだよ、俺だけハッピーだからって妬くなよ」 「……よかったな」 「拗ねるなって」  死んでも言えない。  俺が言葉少なな理由を、信一郎は美人からの手紙にやきもちを焼いているのだと思ったみたいだった。  もしそうだったらどれほどよかっただろう。  ただでさえ、俺は信一郎に口には出せない気持ちを抱いている。でもそのことに、罪の意識を覚えた事はなかった。言葉にするつもりもなかったからだ。 ”だいたいの手紙はちゃんと届くんだよ。大丈夫だって”  届かない手紙だってある。本当の俺の思いは、彼には伝えられない。  これから先、俺は彼のそばにいる限り、自分がしたことを意識してしまうだろう。  どれほど後悔しても、もう出した手紙をなかったことにはできなかった。  それに、信一郎の次の行動は、目に見えていた。  信一郎は両手を合わせて言った。 「なぁ頼む、もう一通書いてくれ。頼むよ」  自分で手紙を書き、さらにそれに対する返信を書く。信一郎の手紙は手書きで、彼女からの返信はパソコンで。  俺は何をやっているのだろう。  悪い夢みたいな気がしてくる。でも、一通一通の手紙には手を抜かなかった。  信一郎を喜ばせたかった。彼は、明らかに彼女に恋愛感情を抱いている。彼女だって、わざわざ住所を知らせてくるくらいなんだから、それなりに好意があると考えた方がいいだろう。……設定上は。  ――試合で見たときから、好きでした。  そう書いたとき、踏み越えてはいけない一線を越えてしまった気がした。  俺はいくらでも、言葉を生み出すことができた。  彼のどんなところをかっこいいと思っているか。魅力的か。どんな表情や、癖が好きか。髪や目や、彼のあらゆるところを、俺は尽きない言葉で褒められた。  ……さすがに、気持ちが悪いだろう。  はっと我に返って言葉を削る。  結局、ごく最小限の言葉にとどめた手紙を投函した。  信一郎を好きになったのは、いつのことだっただろう。小学校の高学年の時、クラスが離れていた時だろうか。俺と信一郎は、何度もクラスが一緒になったり、離れたりした。  普段教室で付き合う友人は、全然別のタイプが多い。  テレビのバラエティ番組かアニメが好きな信一郎とは、話題だって合わない。  そのうちに集団下校はなくなったし、関係が途切れてもおかしくはなかった。  でも、俺たちの関係は続いた。信一郎が部活に打ち込むようになっても、俺が塾に通うようになっても。  どちらが多く誘うというわけじゃなく、どちらからともなく連絡をする。そんな風にして。  俺はいつからか、彼のことが好きになっていた。  きっかけなんてわからない。ただ本当に、そばにい続けたら、自然と好きになってしまっていたのだ。  ――好きです。  ――会いたい。  もうやめよう、やめようと思いながら、手紙の代筆は続いていた。もういい加減に自分で書けといっても、信一郎は俺を頼り続けた。  信一郎をがっかりさせたくなかった。日々信一郎と会う時間は減っていた。だが、手紙の相談をするときには絶対に会うことができる。それもあって、俺は手紙を書き続けていた。  だが文通が続けば、当然に彼女と会おうという話にもなる。だがそれを、俺はかわし続けていた。実際に彼女が信一郎に会いに来ることはない。  ふと不思議になる。  彼女への手紙は、信一郎が投函している。  もし答えるつもりがなくても、そんなに手紙が届き続けたら、彼女は不審に思ったりしないのだろうか。最悪、警察に相談されてもおかしくない。  もし実在しない住所なら、信一郎のところに手紙は戻ってきているはずだ。だが、信一郎はそんなそぶりを見せない。  だから彼女のところに、手紙は届いているはずだった。  中学三年生になって、俺たちはまたクラスが離れた。  俺は母の方針で、県内有数の進学校を受験する予定だった。絶対に行きたいところというわけではなかったけれど、どうせならば目指してみたい気持ちもあった。  俺は塾で今まで以上に忙しくなり、信一郎と会う時間は減った。  手紙の代筆に時間を取られるのも、ばかばかしくなってきていた。どれだけ心を込めて書いても、彼に伝わるわけがない。  それが俺の、心からの気持ちだと。  たまに学校で見る信一郎は、他の誰かと楽しそうに話している。それはクラスの女子生徒だったりもする。  ライバルは住所を渡してきた彼女だけじゃない。どこにだっているのだ。彼女ができるのも時間の問題だろう。むしろ遅すぎたくらいだ。  ――もう手紙は送れません。  いい加減に、不毛なことを終わりにするつもりで俺は書いた。  そもそも、俺が信一郎にこだわること自体が不毛なのだ。  高校はおそらく別々になるだろう。そのうちに彼には彼女ができる。  言わないつもりの気持ちだった。 「うぅ……」  最後の手紙を書きながら初めて泣いた。  ――初恋でした。本当に、本当に好きでした。好きにならせてくれて、出会ってくれて、ありがとう。さようなら。  信一郎とはしばらく会わない日が続き、最後の手紙の反応を見ることもかなわなかった。  その方がたぶんよいだろうとも思っていた。もし、彼が落ち込んでいたらきっとまた手紙を書いてしまう。いつまでもそんなことを続けていても仕方がない。  模試や講習に追われ、そのうちに受験の日が来て、俺は無事に第一志望に合格した。  信一郎は近所の公立高校に受かったと母から聞いた。  彼に顔を合わせそうな機会を、俺は全力で避け続けていた。  それから次に彼に会ったのは、卒業式の日だった。 「あ、お前! おめでとう、博正……!!」 「ああ。お前もよかったな」 「なぁ、博正、卒業式の後なんだけど」 「それ」  信一郎のブレザーには、ボタンが一つも残っていなかった。 「ああ、部活の奴らがふざけて取ってたんだよ」  そうなのかもしれない。でも、胸が詰まった。  もう彼と親しく過ごせる時期は終わったのだ。 「別に、言い訳しなくていい。俺も彼女できたし」  とっさにそう口にしていた。 「え……?」  信一郎は、まるで町中に一人放り出された子供みたいに、不安げな目を揺らした。 「お互い楽しもうぜ、高校生活」 「あ、ああ……」  よほど彼女という言葉が意外だったのだろうか。みるみる信一郎のテンションは下がっていた。  ざまぁみろ、と俺は思う。  彼女なんて本当はいない。だけど彼にそれがバレることはないだろう。これから通うのは別々の学校だ。  彼とはもう、会わないのだから。  ・ ・ ・ 「おお、お前変わってないな」 「お前こそ、スーツ似合わねぇな」  黒いスーツとしゃれたワンピースを着た若者たちがひしめいている。  ネットで必死に、ご祝辞の包み方を調べた。どんな服を着ていくべきかも。髪の毛をセットしたりしなくていい分、女の子よりは楽かもしれなかった。  それは、俺が初めて出席する同級生の結婚式だった。  中学時代の同級生だ。彼とは中学の頃にはさほど親しくなかったが、たまたま大学でも同じ学校になり、よく話すようになった。  まだ大学三年生ながら、彼は年上の彼女と結婚をすることになったのだった。  信一郎の事は忘れていなかった。だが、俺の中では一応のキリがついたことだった。 「おめでとうー!」 「幸せになれよ!」  俺に彼女ができる、という事はなかった。  俺は多分、男が好きなのだと思う。だけど、信一郎より好きになれる相手は、高校にも大学にもどこにもいなかった。  信一郎からは、高校に入っても、大学に入っても、思い出したように遊ぼうと言う連絡が来ていたけれど、全て断っていた。  初恋にちゃんとケリをつければ、前に進めるのだと思っていた。だけど俺の心の大事な部分はあの日、手紙で信一郎のもとに送ってしまったまま、戻らない。  今日結婚する男と、信一郎が親しかったかどうかは覚えていなかった。だけど、もしかしたらという懸念はあった。  信一郎は顔が広かった。  二次会の会場で彼を見かけたとき、すぐにわかった。最後に会ってから五年ほどが過ぎている。だけど一瞬で目が吸い寄せられた。 「博正!」  だが、向こうからも見返されるとは思わなかった。  俺は曖昧に、久しぶりだなとだけぶっきらぼうに言う。慎一郎は昔と同じく、人懐っこかった。俺がつれない返事をし続けていたのも気にする様子もない。  会えて嬉しかったけれど、同時に気まずかった。  もう終わらせたつもりの片思いだ。今日は、純粋に友人の結婚式を祝いたかった。俺はその場でも、彼を避けた。  スーツを着ている彼は、昔と同じかそれ以上にかっこよかった。  俺はバカだ。相変わらず。  どんどん酒に手を出し、知らない男や知らない女とたくさん話した。気がつくと二次会は終わって、三次会に行くということだった。こうなったらとことんまで飲みたかった。だが、ふいにぐいと脇から腕を引かれた。 「ちょっと来い、話がある」  信一郎は、真剣な顔をしていた。 「これ」  連れてこられたのは、落ちついた雰囲気のバーだった。慣れない大人びた店で、俺は居心地が悪かった。  信一郎がテーブルの上に置いたのは、何通もの真っ白い封筒だった。一瞬で酔いが覚める。 「お前……なんでこんなもん持ってきてるんだよ」  宛先には、女性の名前が書いてある。  だがそれだけではなく、郵便局のハンコが押してあった。  ”あて所に尋ねあたりません”  その意味が、すぐにはよくわからなかった。 「彼女への手紙さ、すぐに宛先不明で戻ってきたんだ」  俺は言葉を失う。 「な……」  それは、ありえると思っていた可能性のひとつだった。実在する住所だったら、届き続ける手紙を不審に思われる。  だが、文通は続いた。  だから彼女は、意図的に信一郎のことを無視しているのだと思っていた。  そうじゃなければ、手紙は信一郎のもとに戻ってきていたはずだから、彼が何か言うはずだ。 「なんで……!」  まさか、信一郎が何も言わないなんて思わなかった。  あのとき、返信が来ない、と彼は落ち込んでいた。一言も、手紙が返ってきてしまったのだとは言わなかった。 「たぶん、いたずらだったんだろうな。同じ部活のやつか何かが、俺が浮かれるのを見たくてやったんだろ。恥ずかしくて、なかなか言えなかった」  信一郎の話し方は冷静だった。  彼はこんなに、落ち着いた印象を持っていただろうか。見慣れないスーツを着た彼は、まるで知らない男みたいに思える。 「……でも返事が来た」  彼の言うことが本当なら、知っていたことになる。  一通目からずっと。  自分が彼女に送ったラブレターのその返信が、本当は来ないことを。 「なんで……!!」  来ないはずの返信は、それでも来た。ならそれは誰が書いたものだと、信一郎は思ったのか。  同じ部活の誰かがふざけて書いたのだったら、きっとちぐはぐな内容になる。  ちゃんと、送った手紙に対応する返信が来たのだとしたら、それを書いた人間はただ一人しかいない。  怒りやら羞恥やらで頭がいっぱいになって、俺は席を立つ。慌てたように信一郎が何か言ったけれど、もう耳に入ってこなかった。  確かに彼女を騙って手紙を送ったのは悪かった。  だが、わかっていてずっと黙っていた信一郎もひどい。涙があふれてくる。 「おい、待てよ……!」  笑っていたのだろうか。ばかばかしい、一人芝居を続ける俺を。  慌てた様子で信一郎が追いついてきて腕をつかんだけれど、強引に振り払った。 「博正!!」 「俺の事、笑ってたのか」 「違う」 「本当はもっと早く、伝えるつもりだった。中学を卒業する前に」  何度振り払っても、また腕を捕まれた。信一郎の方が力は強い。  今も剣道をやっているのだろうか。まるで知らない。振り返ると、大学生になった信一郎が立っていた。  やっとのことで、けりをつけたと思ったのに。 「お前の手紙が、あまりに良くて、もっとずっと読んでたくて、言えなかった」  彼は真剣な目をしていた。  俺が、好きになったあの目だった。 「これ」  信一郎がひとつの封筒を差し出してくる。淡いクリーム色をした、今まで見たことのない封筒だった。  差出人も何も書かれていないし、切手も貼られていない。 「なんだよ」 「本当はもっと早く、返事を書きたかったんだ」  彼には、本当の気持ちなど伝えられないと思っていた。だから、彼女の名前を騙って精一杯の気持ちを込めて手紙を書いた。  楽しかった。手紙の上では自由だった。普段なら絶対に言えない、彼への気持ちをぶちまけた。  繰り返し伝え続けた。  ――好きです。  俺は差し出された封筒を受け取る。この後に及んで、信一郎は何がしたいのだろう。訳がわからなかった。  開いた白い封筒には、たった一枚だけカードが入っていた。 ”俺もずっと好きです”  言いたかったけれど、言ったら終わると思っていた。一方通行の思いだと。  ――初恋でした。本当に、本当に好きでした。 「遅くなってごめん」  涙があふれてくる。勢いあまってカードをぐしゃぐしゃにしないようにしようとしたのに、手が震えてどうしていいかわからなかった。  さらにあろうことか、信一郎が俺を抱きしめてくるので、また涙があふれてとまらなくなった。  あの頃、好きだという気持ちを何度も熱心に送った。それが自分の気持ちとして、彼に届くなんてことないと思っていた。 ”だいたいの手紙はちゃんと届くんだよ。大丈夫だって”  これは、俺の宝物についての話だ。  好きだと熱心に書き送って、返ってきた、ただ一通の特別な返事の話。
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