頑張ったね、ってもう届かない君へ。

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一時間くらいゲームをしただろうか。 本当に突然だった。 両親の寝室の扉が乱暴に開けられる音がシンとしていた家の中に響く。 母が寝坊したと、慌てているのだろうかと思って、時間を確認したけれど別にそんなに慌てる時間ではない。 家の中に慌ただしい足音と小声で何か話す声が響く。 何か急ぎの電話だろうか。 小さな音が聞こえ、扉の方に目を向けると、床と扉の隙間から僅かに光が漏れて見えた。 階段の所の電気が付けられたことに気づく。 まだ、起こしに来るには早い時間なのに。 スリッパのパタパタとした音が、どんどん部屋に近づいてくる。普段は私にもっと静かに歩けと怒る癖に、と思いながら、なんだか、胸が痛くなった。 ああ、そういえば。 遥香から電話が来る前にもこんな風に、胸がザワついていた。 なんだか、嫌な感じ。 「朱里!!」 乱暴に部屋の扉が開けられる。 パジャマでまだおそらく櫛も通していないのだろう、髪も跳ねたままの母が部屋に飛び込んできて、返事をする前に、朱里、朱里、と声を震わせた母にキツく抱き締められた。 「な、何…」 少し身体をひねり、母の顔を見た。 カーテンの下から零れた太陽の僅かな光で、明るくなった部屋。 間近でみた母の顔は今まで見たこともないほど、青ざめていて、ひどく狼狽した様子に私は。 この瞬間、本当に何となく。 なんの根拠もない、感覚的なものだけれど、遥香の事だ、と思った。 そして、それがいい報せでは無いこと。 なんとなく予想がついてしまった。 はずれればいい、こんな予想。 緩められた腕、肩に手を置いたまま、母がまっすぐ、私の目を見つめた。 「朱里、落ち着いて、聞いてね、」 (母さん、母さんが落ち着いてよ) カチ、カチと秒針の音が響く。 口の中が、カラカラに乾いて、身体から血の気が引いていく。 「あの子が、居なくなったって...」 (居なく、なった) 言葉がそのまま、頭の中で反復される。 「遥香ちゃんが!家から居なくなったって!」 (ねえ、遥香、私、早く帰れっていったじゃん) 遥香の家族はすでに警察に行方不明届けを出しただとか、何か知らないかだとか母が聞いてくる。 嫌な予想はよく当たる。 何か知らないかと聞かれても。 私は、何も知らない。 電話のことを伝えるべきだろうか、と一瞬だけ思った。 伝えるべきなのだろう、遥香は行方不明なのだから。 発見に繋がるなら、話すべきなんだ。 (けれど…) 私は、ゆっくりと首を振った。 「な、にも、知らない」 口が乾いて、上手く言葉が、出てこない。 母の、目にはそれが酷くショックを受けているように見えたようで、「そう、ごめんなさいね、母さん取り乱しちゃって……きっと、きっと大丈夫よ」 幼子にする様にポンポンと背中を数回叩き、もう一度ギュッと抱き締めて、母は入ってきた時とは裏腹にとても静かに部屋から出ていった。 こんな時なのに思考回路は、驚くほどハッキリしていた。 長い付き合いの友人が居なくなったのにこんな気持ちでいいのか、私は酷く薄情なやつだ。 頭の中はグルグルと、稼働し続けている。 公衆電話から電話をかけてきたのは、きっと何か理由があった。何も告げず遥香が居なくなったのは、なにか理由があった。 誰でもなく、私に頑張るから褒めて欲しいと言ったのは遥香にしか分からない何かがあった。 遥香にしか分からない…。 私が口を噤むことは許されないことかもしれない。 情報の隠匿?難しいことは分からないけれど、話す気にはなれなかった。 「ねえ、遥香。…私誰にも話さないからね」 数時間後、解体工事が入る予定だったビルの下で遥香は、見つかった。 私が好きな、暖かい手はすっかり冷たくなって。 サラサラとした黒い髪は血がついて固くなって。 他にもいろいろ傷だらけだったらしい。 当然だけれど、私は遥香の遺体と対面することは叶わなかった。 全て、遥香のお母さんが泣きじゃくりながら伝えてくれた情報だ。 見つけたのは、偶然通りかかった人で、その人が警察と救急車を呼んでくれたのだけれど、転落時に地面に頭を強く打ちつけていたらしく、病院に運ばれた時には、既に事切れていたそうだ。 ビルの屋上に入った警察が財布を見つけて、その中の学生証の情報で身元は判明し、行方不明届けも出されていたから、すぐに遥香の家に連絡が来た。 連絡を貰い、遺体を確認し、取り乱した遥香の家族のそばに私と私の母がずっと居た。 遥香の居ない遥香の家に居た。 幼い頃から何回か遊びに来たことがあるけれど、そういえば、昔から二人で遊ぶ時は私の家か、外ばかりだったから、遥香の家に来たのは数える程かもしれないと、今更気づいた。 家の中には遥香のお母さんの泣き声がずっと、ずっと響いていた。私の母と遥香のお父さんが泣き続ける遥香のお母さんに声をかけ続ける。私はその声から逃げるように遥香の弟くんと、遥香の部屋で二人で、ただそこにある、遥香がいないという現実と向き合っていた。 私は泣けなかったし、弟くんも泣かない。 弟くんの気持ちは私では汲み取りきれないけれど、この子は遥香に懐いていた。 きっと、私では計りきれないくらい、涙も出ないくらい、悲しいのだろう。 遥香と三人でコンビニでお菓子を買いに行ったり、たまに話をしたりすることはあったけれど、二人きりは初めてだなぁ、と思った。それだけじゃない。 遥香とは長い付き合いだけれど、今思い返せば、遥香のお母さんやお父さんとはほとんど話したことがない。 両親同士がやり取りがある程度だった。 沈黙が続く中で、「姉ちゃん、辛かったのかな」とたった一言だけ、そういった弟くんの言葉に私は何も言えなかった。 私の中の遥香はいつも笑っていたから。 私の知る遥香は誰もが羨むような完璧な……、あれ…私は、遥香のなにを知っていたのだろう? ねえ、遥香。なんで、私に褒めて欲しいなんて言ったの? その答えは二度と聞けないのだ。 遥香は私の憧れで幼なじみだったけれど、どこか遠い存在だった。 それでも、手を伸ばせば遥香は握り返してくれた。ちょっと待ってといえば、しょうがないなぁと、待っていてくれた。 なのに、本当に遠いところに行ってしまったのだ、もう、遥香は待っていてくれないと、改めて思ったら、頬を一粒だけ温かいものが伝った。 本当にたった一粒。 飛び降り自殺というのが、遥香の最後だった。自殺という結果になったのは、財布の中に、「ごめんね」というメモが一枚残っていたから、らしい。 何度か警察が学校に来ていた。 その中で、私は遥香の親しい友人として面談室に呼ばれ、前日、何か遥香に変わったことはなかったかと、聞かれる。 「いつも通りでした」 私はそう答えた。 嘘はついていない。前日は変わったことなんて、何一つなかったのだから。 ほんの数分のやり取りの後、私は教室に帰されて、クラスメイトたちから何したの??と聞かれるけれど、「遥香のことだったよ」と、一言告げれば、そっか、とみんな気まずそうにパラパラと散っていった。 家庭環境も、友人関係も良好だった、優等生の突然の自死。 死の真相は誰にも語られることはなかった。と言うよりも、誰も、遥香の自殺の理由には辿り着けなかったのだ。 ごめんねが誰に向けられたものなのかも、迷宮入り。 ただ、遥香が自分で飛び降りたという事実だけが存在する。 あのごめんねは、私に向けてかな、と実は少しだけ思っている。 「迷惑かけるかもしれないから、ごめんね」 頭のいい遥香は自分の死後、私が警察に何らかの聞き取りを受けることを、予想していたのではないか。 「…ごめんねなんて、別にいいのに。」 今まで、私の方が遥香に沢山迷惑かけたんだから、これでチャラね、と心の中で私は遥香に話しかけた。 誰も知らない、遥香との最後の会話。 遥香の行動は絶対に褒められる様なことではない。 もし、私があの電話で何かに気づけていれば。 内容も聞かず、頑張れって、応援するなんて言わなければ。 なにか、なにか変わっていたかもしれない。 もしも、なんていくらでも出てくる。 けれど、現実。遥香はもう居ないのだ。 死んで、しまったのだ。 遥香は、電話の後。 自分の足でビルの階段を一歩一歩登り、財布を置いて、下を見て震えていたかもしれない。 誰にも言えないことを抱えて。 きっと苦しんでいた。 だから、飛んだのだ、空を。 その瞬間、遥香は抱えていた何かから解き放たれることができたのだろうか。 (そういえば、遥香は空が好きだったなぁ) 空が好きだった彼女は早朝の空に消えた。
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