処暑廻り ---Tokyo2020---

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 向島の洋子の家に帰る時は、浅草で地下鉄を降りて、吾妻橋を渡ることがほとんどだ。  神谷バーを出たこの日のふたりも、すぐ脇の横断歩道を渡り、東武浅草駅の前を通り過ぎた。  赤い欄干のアーチ橋に差し掛かろうとした瞬間、員子はアッと声をあげ、体を丸めるようにして自分の見たものから目を背ける。 「……おかずちゃん? どうしたの?」 「イヤッ……、そ、そこ……。橋の上……!」  員子は顔を上げられないまま、震える手で指を差した。  傾斜の先、対岸には、金色オブジェが特徴的なアサヒビールの社屋や、近未来的な青白い光を放つスカイツリーが煌々と夜に輝いている。  が、員子が指すのは、それらではない。  電灯の照らし出す橋の上、何もないあたり。そこへ。先ほど。 「幽霊でもいた?」  心の声を聞き取ったかのように、洋子が言うので、思わず員子は恐怖を忘れて顔をあげてしまう。  どうしてわかったのだろうか。 「し、白い、人がたの影が、スウッと……橋を横切って、……欄干を越えて……、あっ、け、警察……消防……? だ、だれか」 「仕方ないわ、ここ、身投げの本場だもの」  取り乱す員子に、洋子はさらりと返した。 「え……?」 「おかずちゃんは落語とか聞かない? 聞かないわよね、なかなか。……そうなのよ」  納得できない表情をすれば、洋子は員子の手を引いて、川面が見下ろせる場所まで連れて行く。 「待って、いやじゃ、洋ちゃん、こわい、見たくない」 「大丈夫よ。何も見えないから。幽霊なんだもの。ほら」  おそる、おそる。背中を押された員子は、真っ黒な墨田川を見下ろした。  見たくもないけれど、見て見ぬ振りもできない。その逆説に引き裂かれる心地だった。  たっぷりとした水量の川面に、溺れている人の姿はなにも見えない。ここからは。  助けを求める声も、水音も聞こえない。  そもそも暗がりで、老化した目が役に立っていないだけではないかという不安があったが、洋子がこの出来事をあまりにあっさりと受け入れ、焦る様子も見せないので、そういうものかと思ってしまう。  本当に、生きた人のことであるならば、洋子はまっさきに最適な行動を取っている筈だから。 「……何も見えん」 「でしょう。……あ、あそこ見て、おかずちゃん。こないだ乗った船よ。おかずちゃんを迎えに行った時。私、あの時初めて豊洲なんて行ったわ。こちらに住んでても、行く機会がないと行かない場所だったから」  8月の最終日、員子が勤め先の商品部部長からもらったチケット、有明アリーナという場所で行われた車イスバスケットボールの予選を観戦し終わると、洋子が迎えに来てくれていた。  その時、浅草までの交通に彼女が使ったのが、水上バスだ。  高名な漫画家が設計したという平べったい船は、見慣れない、さながら宇宙船のような曲線的なかたちをしていた。未来へ行く船のようだ、と思ったことを覚えている。 「私、洋ちゃんと……船に乗ったことが、あったんじゃね。夢じゃなく」 「? そうよ、夢じゃないわ。乗ったわよ」 「あれじゃない」  欄干に手をかけ、岸に停泊したまま白い光を放つ船を見据える員子は、記憶を一瞬、取り戻している。  一瞬、目を離せば、忘れてしまう。それくらい何もかもが混然一体となってわけがわからない、密度のおかしな夜だった。  自身の記憶を探るように、首を横に振りながら、員子は言った。 「あんなきれいな船じゃなかった。場末のスナックみたいな椅子、薄汚れたガラス、やかましいモーター、潮のにおい、さび色の水面……あの話をしたのは、恋愛と友愛の違いを話したのは……私の地元の高速船じゃった。あなたも、……私も、若かった。若い頃のこと、だけど、小学生じゃ……ない。大人になっていた。大人になってから、私たちは会ったことがあったんじゃわ。ずっと、文通だけだと思っとったけど……一緒に暮らした。夏のことよ。何で忘れとったんじゃ……」 「思い出したの?」 「思い出した」 「どうして忘れてしまったの。おかずちゃん。私は忘れたことなんて一度もなかったわ。あんなにお世話になったこと」  喋りながら、員子は愕然としてしまっている。  頭の中のことは、どうしてこんなに当てにならない、と、年を取って記憶力の低下に苦しんだことは一度や二度ではないけれど、これほどに感じたことはない。  どうして忘れてしまったのだろう。  手紙のやり取りの些細な部分は、いくらでも思い出せるのに。  ――ということは、員子も洋子も、その辺りのことを、一切したためはしなかったのだ。  そして、話しぶりから、覚えている方の洋子も、その話題をずっと持ち出しはしなかった。  どうして。 「おかずちゃん。私はあなたに救われたのよ。結婚した男……最初の夫が大酒飲みに変わって、ギャンブルに狂って、毎日殴られていた時、あなたは私を呼びつけて、嫁ぎ先の離れに私をかくまってくれた。二週間も」 「……私は……電話かけてきた洋ちゃんの様子がおかしゅうて、あのままじゃ死んでしまうと、そう思って。……じゃけど、呼びつけたのは不便なところで……不自由させただけじゃった。家事だって畑仕事だって、お客さんなのに、やらせてしもうたし」 「それは居候の身分で当たり前のことだわ。あなたのお姑さんもお舅さんも、親切にしてくれたし、旦那さんも心が広くて」 「…………」 「感謝しかないわ」  洋子の言葉に、員子は苦い味を思い出した顔になった。  ――確かに員子は、自分のできる限りで、洋子を救おうとした。  しかし、それは完璧ではなかった。  嫁の自分は、嫁ぎ先で一番立場が弱かったし、食事やふろの順番は最後、冷えた余りものを台所で食べる生活に、洋子を付き合わせてしまった。  島の旧家で、ばかみたいに広い家だったので、余っている部屋を貸す分には何の支障もなかったが、それでも舅や姑はこっそり員子に「結構な友情じゃ」と嫌味を言ったし、おそらくその何度かは洋子に聞かれていただろう。  見目のよい洋子に対して、員子の伴侶が近所の衆と下衆な軽口を叩くのだって、もしかしたら彼女は気付いていたかもしれない。  そんな待遇が、自分はともかく、都会人の才気ある彼女には絶対にふさわしくない、と、頭ではわかっていたのに、どうすることもできなかった。  自分がもっといい生活をしていたら。  そういう女が友人であったなら、彼女はもっと、救われたかもしれないのに。  大昔のように、女がしいたげられるばかりをがまんするしかない、という地域など、減ってきているというのは、TVなどを見たらわかることだ。  厭、と言えなくて、都会の人のように環境を変えていけない自分たちが、苦い感情を味わうのは仕方のない「普通」かもしれないけれど、だけど洋子にはそんなもの、やはり、似合わない。  そう思うと、見栄っぱりかもしれないが、やはりものすごく悔しくてたまらなかった。  ――もっといい人が、彼女を助けてくれたら。  ――私が、一番仲良い友達なんかでなければ。  地元港でとれた雑魚のはらわたのように苦い後悔は、未だに、員子の中に残っている。  もっとも、そんな環境の中でも、洋子は員子の婚家の人々に明るく平等に取り入って、うまいこと気に入られてはいたのだ。  まめまめしく家のことも手伝ってくれたし、町内会の宴会のお酌まで如才なくしてやっていたくらいなので、当然のことだろう。  員子より、よほど、家事の手際もよかった。  彼女が「そろそろ東京に帰る」と告げた時、みな揃ってさびしがったくらいで、やはり彼女は自分以外の目にも、特別光って見える人間なのだ、と、眩しく思ったものだ。  洋子を新幹線の駅まで見送っていく名目で、員子も一日家事から解放された。  神谷バーで見た白昼夢は、その時の――高速船で、嫁ぎ先の島を離れる時の、記憶だ。 「……ごめんねぇ。ごめん……」 「ねえ、どうして、おかずちゃん。私は感謝しているのに、ずっと、申し訳なさそうにするの? 当時からそうだわ。私は、恩返しができたらと思うくらい、感謝していたのに」 「……そう思われるのが、いやだったんかもしれん。あなたをお世話したなんて、……あんな不完全で、それで恩だなんて言えんわ。姑なんか、死ぬまで私に恩着せがましく、あの時ああしてやったじゃろ、こんなに嫁に親切な婚家はない、感謝せんか、……みたいになっとった。私はあんな態度、絶対に洋ちゃんに取りたくなかった。イヤな人たち。私はあなたの夫だったり、親だったり、そういうものじゃないんよ。……あのことがある前とあった後で、何も変わりたくなかった。あなたをただ慕って、自分の気持ちが重すぎるようにならんように……。なかったことだ、と思うんが、一番いい気がしたんよ。幸い、洋ちゃんは殴る蹴るの旦那と、離婚してくれたし。その後結婚した旦那さんは、いい人そうじゃったし」 「そうよ。あなたが呼んでくれて、あの人と離れて、ようやく今のままじゃいけない、と冷静になれたんだから。決心できたのは、あなたのおかげ。……だけど、まあ、あんなドン底状態を見られて、バツが悪かったのはあるけれど、私も」 「洋ちゃんは、気にする必要ないんよ。これは私の問題……じゃった」 「そう、そして、私の問題でもあったわけ。……意地っ張りだったわね。お互いに」  欄干にもたれ、川面を見下ろしながら、ずっとできなかった話を、ぽつりぽつり告げ合う。  破れかぶれ、その時のありもので間に合わせた完璧ではない関係の反省を、互いにし合うと、もはやどんな話だって、今ならば、とりつくろわずにできる気がした。 「……そういえば、さっき、私のスマホに来た、変な通知。あれはなんじゃったんじゃろう。どう思う? 洋ちゃん」 「……さあ……なんとも。イタズラにしては、皆に来ているようだったけれど」 「皆の押したボタンで、多数決で……決めるんじゃろか。投票みたいに」 「そうじゃない?」 「でも、携帯電話を持っていない洋ちゃんは、何もできないわけでしょ」 「……、そうね……」 「今頃、どこかで集計しとるんじゃろうか……」 〔夏休みを終わらせますか?〕 〔はい〕〔いいえ〕  ふぁんふぁんという通知の後、開いた窓には、短い質問文と、それに答えるためのふたつのボタンだけが浮かんでいた。  指を一秒、ディスプレイに載せるだけで、問いかけは消失した。  大がかりなイタズラの可能性もあったが、しかしそうではない、と員子の勘が告げていた。  混濁の中に浮かんだり沈んだりするうたかた、混線する記憶の中で、確かに〔夏休み〕は繰り返されているのだ、と思うことがいくつもある。  既視感が、日常のあちこちを侵食する。  東京のどこへ行っても、何を口に入れても、何だかどこかで覚えがあるような気がする。  その食い違いを、「TVか何かで見たのだ」とごまかしごまかしやってきたが、――確かに夏休みは終わらないまま、何度も繰り返されているのだ。  どうせ、自分の選択には限りと偏りがあって、繰り返したところで、似たようなことしかできないのだ、だから覚えのあることばかりになる、と。  自分の体感に基づいた仮説を員子が話すと、洋子はなるほど、と、あきれたように呟いた。 「誰が大変って、……まあ私なんかはいいけれど、日がな遊んでいるだけだから……。大変なのはオリンピックやらパラリンピックの選手ね。実行委員会とか、警備員の人たちもそうだけど。こんな熱い最中に、人生賭けて力振り絞って、その結果が、何度も何度もやり直しになるなんて、たまったもんじゃないわ」 「……でも、ほら、結果に心残りがある人もおるかもしれんわ。一度きりの大勝負なんて。そういう人は、やり直しに意義は唱えんかもしれん」  そういう人たちの総意で、もしかしたら、こんな事態になったのかもしれない。  そんなふうにも、員子は一瞬、思ってしまっていたが。 「そりゃ、金メダルの人以外は、一位になるまでやり直したいでしょうよ。……だけど、ひとりとか一チーム以外は、どのみち不満なのよ。勝負というのは。多数決で、合意できて終わることとは思わないわ」 「どこかで、やっぱりだめかぁと、納得せんじゃろうか……?」 「どこかで、納得するものなのかしらね……。記憶が蓄積されるものなら、厭になった人がストライキでも起こしそうだけれど」 「働きづくめの人は、働きづくめじゃもんなぁ……」  そんな大事なことを――大事だからこそみんなの意見で決めるべきなのかもしれないが、まるで国民投票のようだ、と思えば、数年前からTVで騒がれていた、イギリスのEU離脱問題が思い出された。  日本に住んでいる自分たちは、いったい何から、離脱しようとしているのだろうか。  ――それに……。 「スマホ」を持っていない人たちには、どうやって希望を聞いて回るのだろう、と、員子は本当に些細なことが気になって仕方なく、どうしようもなかった。 「なつやすみぃ、おわらなければ、いいのにぃ」  浅草寺ですれ違った、あの少年はどうしているだろうか。  携帯電話を持たされているような年頃ではない。手をつないでいた両親は持っているだろうが、ボタンを押す際、親はあの子の言葉を思い出し、参考にしただろうか。  員子自身、ボタンを押す際、息子や娘、孫たちに相談してみよう、という腹はなかった。  目の前にいる洋子にすら、どう言っていいかわからなかった。  相談すれば、〔はい〕と〔いいえ〕どちらのボタンを押したのか相手に伝える必要がある。  どちらを押しても、性格上、それが正しい選択、と思うことはできない以上、選ばないという選択肢があるならそうしたかったくらいだ。  それで親しい人に嫌われるくらいなら、意見など聞いてもらわなくて構わない。  ――大体、どうせ、私の意見なんか聞き入れたりせんのでしょう……? 「あの時、船でした会話を覚えてる?」 「……さっき、思い出した」 「安定した恋愛と安定した友愛の違い、――私、わかった気がする、おかずちゃん。それは下心の有無とか、性欲の混入ではないと思ったの。違うのは終わりの性質よ。……死に際を見せるかどうか。それが違うの。そう思わない?」  静かな声だった。ひんやりと、その棘は、員子の胸を刺した。  はっと顔を上げる。目の前を、色鮮やかなスカーフがたなびいた。  欄干の上や下には、先ほどと同じ、いくつもの白い影がうずくまっていたが、員子の心に恐怖心が生まれる隙間は、今は、生まれなかった。  滞在中、スカーフやタオルや、何かしらが巻かれていた洋子の、首元ががら空きになっている。  あごの下には大きな、肌色の古傷があった。 「見せてよ」  員子は涙声になりながら言った。  ああ、やはり彼女は、夏休みを何度やり直そうと関係ない場所で、とっくに――。 「洋ちゃんに何があったのか……言ってくれないとわからんじゃない。二度目の旦那さんは暴力もふるわないいい人だって、子どもも孫もかわいいって……言っとったじゃない。なんで。なんでそんな、何も言わずに、おらんく、なるのよ……いつの間にか、なっとるのよ……私が東京行きを決断せんかったら、ずっと知らずにおるところだったん?」 「…………」 「手紙に、肝心なことは何ひとつ書きやせんで。あんたぁのこと、強い人じゃと思ったけど、私が知る中で一番そうじゃけど、いけずじゃわ。私は洋ちゃんのこと、何も教えてもらえんかった」 「……知っているじゃない、おかずちゃん。私が人に言いたいこと、言いたくないこと、あなたは全部知ってる。……それが私よ。稲葉洋子のすべて。それ以外の、言わないことは塵芥、知る必要のないことだわ、誰も」 「洋ちゃん、」 「あなたは特別な、私のともだち」  涙があふれ、員子は思わず目を閉じた。  液体が沁みて、当分まぶたを開けられず、開けた時。  そこに洋子の姿はなかった。  橋の欄干に、結わえ付けられたスカーフだけが揺れていた。  白い影は、橋の上のそこかしこでうずくまったまま、泡のような声でさざめく。 「まだ大丈夫よ」 「やり直せるから大丈夫よ」 「もう一度」 「もう一度」 「オリンピックが終わるまでは大丈夫」 「終わらないから大丈夫」  ――でもだって。夏休みの前には、戻れないのに。  観光客と光で溢れ生活感のない浅草と、古びて暗い住宅地の狭間に架けられた橋の上で。  員子は風に吹きすさぶスカーフの端を握りながら、暗い川面を、ひとり、覗き込む。  ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。  夏休みは、終わらない。
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