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夏ごころを残したままの青空を見上げると、額からつたってきた汗が目に沁みる。
員子はビーズ刺繍の手提げからタオルハンカチを出し、目元と顔周りを拭った。
じゅわじゅわというセミの大合唱に囲まれて、まるで調理なべの中に閉じ込められたような心地がする、と、直火で炙られるような直射日光のつよさに辟易しながら目を開ける。
――あれ、何だったかねぇ。
加齢の影響なのか、最近は、今の今まで気にかけていたはずのことを忘れてしまう。
かと思えば、若い頃のことを昨日のことのように鮮烈に思い出すこともある。整理整頓が悪い。
目の前にあるのは人と肩をぶつけずには歩けないような、ひどく混雑した仲見世通りだ。雷門から浅草寺までまっすぐ伸びる通りには、おかきや人形焼、箸や扇子などの土産物店が立ち並び、観光客でごった返している。
外国人も多ければ日本人も多い。と、髪の色や顔立ちを見る分にはそう思うけれど、中で揉まれている間は、知らない言語に取り囲まれて、さながら異邦人の心地だった。英語も、中国語も、韓国語も、その他も。員子は背が低いから、周囲の顔もよく見えず、意味を取れない言葉、嗅いだことのない汗のにおいに取り囲まれれば、戸惑うばかり。
遅めのバカンスの最中なのか。誰もかれも肩をそびやかして楽しそうだ。
溌剌と若く楽しそうな人波に押されて、員子は連れの姿を見失ってしまった。
再び雑踏に身を滑り込ませる勇気もなく、四つ角の自動販売機脇のコンクリート塀に座って、彼女が通りからひょっこり姿を現すのを待っている。
員子は汗を拭いたハンカチをしまうついでに、手提げから「スマホ」を取り出した。こういう時のための連絡手段なのだろうから、はぐれた連れに自分の居場所を伝えよう、と思ったのだが、ここはどこだと言えばわかってもらえるのか。朱色の門に、伝法院通、と書いてあるのを見つけ、その四文字をゆっくり打ち込んだはいいものの、その情報だけで見つけ出してもらえる気がせず、途方にくれてしまった。
――おじいさんだったら、イラじゃけぇ、もう帰るって言っとってかもしれん。
重たい溜息を吐きながら視界を上向けた時、員子は「お仲間」を、高い場所に見出した。左の道向かいの店舗の一階屋根に、色鮮やかな着物を着た等身大のお侍人形が、待ち人顔で座っている。歌舞伎の登場人物だろうか。浅草らしい、と員子は感心した。
――あんたぁ高いところにおるけぇ、見つけてもらいやすいねぇ。
うらやましく見つめていると、頭上から声が落ちて来た。
「おかずちゃん。見つけたわ」
いくつになっても変わらず、張りと芯のある声。しゃっきりと冷水に洗われた葉物野菜のような、瑞々しい立ち姿。着ているものは華美でない普段着だが、首に巻いた色鮮やかなスカーフが涼しげで、垢抜けている。
野暮ったい田舎女を連れ歩いてもらうのが申し訳なく思える……そんな彼女が、大勢の中から自分を見つけ出してくれ、鈍くささに嫌気がさしたようでもなく明るく笑ってくれるのを、員子は嬉しく感じてしまうのだった。
「洋ちゃん。悪かったねぇ、見失ってしもうて、どうしようかと思った」
「なんとなくおかずちゃんなら、あまり遠くに行かずこの辺りでじっとしている気がしたわ」
親しく交わったのは、五十年ほど前のほんの二十ヶ月ほどだというのに、血のつながった家族や三年前に食道がんで亡くなった夫よりも、対等に員子のことをわかっている、というような口ぶりに、胸の中がぽかぽかしてきてしまう。打ち棄てられた抜け殻と思っていた「おかずちゃん」――洋子の持っていたリカちゃん人形が大好きだった内気な小娘――が、古い友人に呼ばれた回数だけ、魂を吹き込まれてよみがえっていくようだ。
「どうしようかと思ったけぇ、救われたわぁ。洋ちゃん、何か買い物をしとってん?」
「そう。買い終わったらおかずちゃんがいなくなってるものだから、焦った。私、思い立ったらすぐに動いてしまうタチだから、お友だちにもよく怒られるのよ」
「私は逆。トロい、長い、まだよう決めんのか、って、おじいさんによぉ怒られたわ。……ああ。私ももうおみやげ、買っといたほうがいいんかねぇ」
「職場に?」
「そう。長い休みをもらってしもうたけぇ。帰りはこの道、もう通らんでしょう?」
「二天門から馬道通りに出たら、もう少しは歩きやすいと思うんだけどね」
「ううん、どうしようかねえ……」
周囲にうんざりされがちなのは、買い物の時の思い切りの悪さだけではなく、その前段階からだ。行くか、行かないか、買うか、買わないか。員子が選択肢のひとつひとつを入念に検討している間に、他の人はとっくに決め、行動を終えていることが多い。苦言を呈されれば、その時は員子も反省するのだが、焦ると余計に時間がかかるので、どうにもできないのだった。
――皆、どうやってササッと決めとってんじゃろう。
今も、おみやげ選びという重荷をさっさと下ろしたい気持ち、荷物を物理的に増やしてしまうことへの懸念、炎天下をまた引き返して体力を消耗する怖さが逡巡して、決めきれない。更に「せっかくはるばる来たのだから」と観光地を案内してくれる洋子の好意、仲見世を抜けるだけで息切れしている老体の体力のなさ、「次、はない」と強がる己の強情まで加わって、どうしていいかわからず泣きたいほどだ。
そんな員子を見透かすように、洋子は持っていた袋を持ち上げてみせた。
「今お茶請けに買った人形焼き、うちにいる間に味見して、おいしかったら明日東京駅で買えばいいわよ。こんなに暑いと傷むかもわからないから、ギリギリがいいわ、荷物になるし」
「でも……うまく店まで辿り着けるか……」
「大丈夫よ。送って行ってあげるし」
そこまでめいわくをかけるのも気が引ける。とは言うものの、正直、員子は、肩の荷がおりた気がした。若い人から年寄りまでいる職場に、皆が気に入りそうなものを選んで買って行くのも、東京駅で速足の人にぶつからずに改札を探すのも、自分の身に余る大仕事だ、と感じていたのだ。
それらを軽々とこなしていそうな洋子は、本当にすごいな、と思う。
思えば洋子は、転校生として員子の地元の小学校に現れた時から才気というものがあり、人を惹き付ける話術をものにしていた。
そこに円熟した知性まで加わって、もはや無敵だろう、と思う。
同い年だが、その完成振りを、うらやましいとも思わない。人間の器が違うのだ。
「ありがとう、洋ちゃん。なんと言ったら良いか……お宅に長いこと泊めてもらうだけでも、悪いのに、お世話になりっぱなしで……」
「そんなの、私が受けたお世話に比べたら、何でもない。やっとおかずちゃんがこっちに遊びに来てくれて……まだ何もしてあげられないのに、明日帰るなんて。あっという間ね」
「ずっと年賀状で誘ってくれとったもんね。いつも嬉しかったわぁ、ほんと」
「もう。だったら、もっと、早く来て」
洋子はかわいらしくふくれてみせる。
来い、というのは、誰とでも仲良くなれる洋子の――社交辞令とは思わなかったが、自分自身のささやかな願望のために時間やお金を使うということは誰からも習っていないし、するべきではない、と思っている員子は、夫や子どもたちを置いて、自宅を離れるふんぎりがなかなかつけられなかった。
そんな自分にとって、洋子からの年賀状は、員子を想像上の旅行へいざなってくれる、数少ない娯楽だったのだ。数行の近況に思いをめぐらせ、テレビや雑誌で東京の特集が組まれれば、洋子のことを思い出した。
よく観光地として取り上げられる浅草も、そのせいか、初めての気がしないのだった。
「来たかったんだけど、なかなかねえ。機会がのうて」
「だからオリンピックさまさまですよ。あ、もうパラリンピックか。始まってみるとあっという間」
「明後日が閉会式じゃろう。私はそこまでおらんけど」
「なんというか……なんと言えばいいのかしら。ああ、終わるのね、なんにしても」
もったりとした沈黙が、ふたりの間に落ちる。
終わるというのはそれだけで、ほうっておいても詩情が溢れるような言葉であって、万感の思いが迫るようでもあったし、実は互いに何も考えていないようでもあった。少なくとも員子は、暑さでぼうっとしている。
だから、差し出された手も、員子は戸惑いをもって見つめることしかできなかった。
――手だけは、洋ちゃんも年相応かもしれん。
などと、心の中でだけ、本音を漏らしてしまってから、はっとする。
これは何だろう。握れ、ということだろうか。
「ね、おかずちゃん、こんなところで根が生えてしまっても、干上がるばかりでいけないわ。移動しましょう」
うながされ、ためらう。
何十年、ぶりだろう。員子にとって。そうしたいという意思をもって、人の体に触れるのは。
たとえ、家族を含めても。
お世話でなく。ケアでなく。
そうして、確かな意思を持ってさわり返された記憶すら、定かでなく。
無理にしなくてもいい、という局面で。そうしたい、という、気持ちを下敷きにして?
「……見る人に、笑われんかねぇ。ばあさん二人で」
石橋を、叩いた。それがどのくらい壊れやすいものなのか、確かめたくて。
洋子は小動もしなかった。
「なんの、ほほえましいじゃない。孫がいる者同士、杖代わりなんて。麗しい友情、それも半世紀熟成ものよ。どこに出しても恥ずかしくないわ」
「……ふふっ。そりゃあ、…………、ああ、でも人が多いけえ、はぐれんように……、せんとねぇ……」
泡盛の品評をするような洋子の言い方が、妙に面白くて、員子は相好を崩してしまう。
もちろんそれで手心を加えることなく、立て直して、いかようにも、何回でも、更に橋を叩くことはできた。
しかし、受け身で受け取ってしまえる誘惑の方が、はるかに甘い香りで員子を呼ぶのだ。
――洋ちゃんと。手を。つなぐ。
ふわりと、心が液体に浮かぶように。
浮遊感。不安定に揺れる。
のぼせているのだ、と遅れて感じる。ぼうっとすれば、思考は点となって散る。
凝り固まった意思が、つい、うっかり、ほだされることはないことを知っている。
己という舟を係留するロープの強度に不安はない。これまでに迎えた嵐の数は、伊達ではないのだから。
不注意を装うにしろ、言い訳をつけるにしろ、想像力を殺すにしろ、それを外すなら、別だけれど。
ほどいてしまえば、流れにはもう、逆らえない。
友人の手をつなぐことが何の罪か。そうも思うけれど、感情の澱の濁りを見て、他人が下す判決がわからないから、隠すのだ。
何もかも欺瞞、嘘であったと。決めるのは他人だ。
こんにちさまに、恥じることのない人生を。
員子は、洋子の顔を見上げた。
――この善き人の好意を振り払うのだって、罪だろう。
軽率に。
員子はおそるおそる、洋子の手を取る。
それはひんやりしていて、汗とは違う柔らかな潤いがあった。
表向きはほのぼのと、内面はじゅくじゅくと、浅草寺に歩いて向かい、何度もTVで見た、常香炉の煙に近付く。
頭と、あとどこをよくしてもらえばいいだろうか。
員子は毒を飲み込む心地で、細く息を吸い込み、体の内側へ煙を入れる。その時――。
おそらくは父母と思しき人の片手ずつをブランコの把手のようにしてぶらさがった半ズボンの少年が、こちらへ向かって来ながら、ひどく間延びした声を出した。
「なつやすみぃ、おわらなければ、いいのにぃ」
じゅわじゅわじゅわじゅわ。寺のセミがからりと揚がっていく。ほうっておいたら焦げそうなくらい、永劫に放置されている、……なべに。そんな錯覚に駆られながら、油切れの悪い天ぷらのような我が身を引きずって、境内まで歩いて行った。
ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。
ホテルがない、と、そういう話であったのだ。
員子は去年、何かを買って得た権利で、懸賞に応募した。――実はよく詳細を覚えておらず、店員から言われるままにキャンペーンハガキを書いたのか、副賞につられたものかとんとわからないのだが、当たったのは東京2020パラリンピックのペア観戦チケット、9月4日午前の陸上。場所は元国立競技場のオリンピックスタジアム。権利は当人限り、譲渡不可。
「惜しいけれど行かれんねぇ、もうおじいさんもいないし、子どもらぁに譲れたらよかったんじゃけど」
パート先のお昼休憩で話題にしたところ、次の日、商品部の部長室に呼び出された。
「懸賞に当たったんですって? 俺の持ってるチケットもさしあげましょうか。残ってるのが8月31日の1枚だけなんですけど、遅い盆休みってことで、9月7日の月曜に出勤してくれればいいですから。観光もいいですよ、いいとこですよ東京。俺の後輩たちの雄姿、俺の代わりに応援して来てやってくださいよ。頼みます!」
行く、とは一言も言っていない員子だが、目を輝かせた息子くらいの年齢の商品部部長に、それを伝えるのは難しかった。
夏は会社の繁忙期で、員子のような定年を過ぎた再雇用の倉庫番はともかく、管理職の彼は休めないらしい。
昔、車イスバスケットボールの全日本チームにいたことがあるらしい商品部部長は、古巣の話ができるのがとても楽しみらしく、張り切って、その日のうちには人事部長に、員子の夏休みを申請してくれたのだった。流石の行動力は、若い社員に「オフェンスに定評のある剛腕部長」と、バスケットボール用語であだ名されるだけのことはあるようだ。
義理人情が背中を押した。
改めて現実的に行くことを考えて、最初に頭に浮かんだのは、達筆な楷書のブルーインクの文字だった。
東京都墨田区向島――。東京には、洋子がいる。
員子はペンを取り、東京行きの件を手紙で伝えた。陸上の方がペアチケットだったので、興味がおありでしたら一緒に行っていただけないでしょうか、と伝えると、二週間足らずで、ぜひ、と連絡があった。それだけならまだ、ひどい負担をかけることもなかったのだが――。
オリンピック・パラリンピック時期、ホテルが取れない、あっても高騰していてとても手が出ない、という問題が新聞やテレビで騒がれるようになり、行動の遅い員子が慌てて旅行代理店を訪ねた時には、とっくにどうにもならなくなっていた。
員子はこれも天命と諦めようとしたのだが、洋子は何度も説得の手紙を送って来て、結局、向島の彼女の自宅に、六日間も、ご厄介になってしまうことになったのだった。
ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。
お参りを済ませたら頃よい時間になったので、前から行こうと計画していた酒場に向かった。
台東区浅草一丁目一番一号。吾妻橋のたもとの「神谷バー」は、夕方にもかかわらず盛況だ。
なんとか大きな相席テーブルに並びの席をふたつ見つけて、体を滑り込ませる。
注文は、昭和の百貨店の大食堂を思わせるショウウインドウのサンプルを見ながら、入口横のカウンターで食券を買う前払い方式だったが、飲み物ひとつ決めるにもまごつく員子を見兼ねて、洋子が代わりに頼んでくれた。
席で食券をもいだウェイトレスの女性が、ややして飲み物を運んでくる。
洋子の目の前には、「バイオレットフィズ」という、その名の通り青みを帯びたスミレ色の美しいカクテルが。員子の目の前には、店の名物らしい「デンキブラン」のサワーが置かれた。
員子が普段飲酒しないことを知っている洋子が勧めたものだ。外見はオレンジソーダといった感で、てっぺんの飾りにまっかなチェリーと、くるりと巻いたオレンジの輪切りがついている。
孫が喜びそうな見た目だと思ったが、飲んでみると甘いばかりではなくすっきりとした味わいで、どこか薬草のような複雑な余韻を残していく。養命酒ではないのだが、ああした感じで、体がぽかぽかする。滋養がありそうだ。
「……これ、おいしいわぁ」
「よかった。おかずちゃん、ブンゴウが好きだったでしょう」
ブンゴウ、がすぐに漢字変換できず、員子はきょとんとした。
もう一度、今度はゆっくりと、洋子が言う。
「文豪。あなた、よく小説を読んで、よほど好きなのねえと私、感心していたのよ。浅草に溜まっていた文豪たちが、好んで飲んでいたお酒だと言うわ、『デンキブラン』」
員子は懐かしさで、まあ、と、背中をそらしてしまった。
最初は洋子の話にまったく心当たりがなく、それもそのはず、この頃は老眼が進んで、まったく小説など読まなくなっていたし、そもそも好きというほどには、愛好していた記憶もない。
子どもが小学校にあがる前くらいだろうか、公民館に小さな図書室があって、そこで絵本や児童書のついでに、二冊、三冊、大人用の本を端から借りて読んでいた。テレビがつまらない午后や寝付けない夜の暇つぶしにちょうどよかったのだ。お金もかからないし、場所も取らない。家族が呼べば、いつでも中断できて、文句も言わない。作家の好みはなく、あるものを読むに過ぎなかったし、読み終わってしまえば内容はそれきり忘れてしまった。
でも、そうだ。
地元の小学校に転校生として現れ、二年しないうちにまた転校して行った洋子とは、細々とではあるものの、ずっと文通を続けていたのだが、「読んだ本の話」というのは、話題としてなかなか優秀だった。誰に対しても角が立たないし、いらぬ話をして、余計な心配をかけることもない。それだけで便箋の枚数がかさむので、相手に対してそっけなくもならない。員子は口下手かつ筆下手で、交友関係も狭く、変わり映えのない日常が続く中で話題が見つけられない時も多々あったから、公民館の本にはずいぶんと助けてもらった気がする。
まさかそのせいで、よほどの小説好き、と洋子に思われているなどとは、員子は思いもよらなかったが。人からの見え方はわからないものだ、と実感する。
自分の手元に、下書きの便箋などは残していないものだから、何十通にも及ぶ手紙の中で、洋子に何を書いて送ったものか、今となってはまったく記憶にない。
「私はね、洋ちゃんが色々と作家さんの話をするもんじゃけ、それで、読んでみようかねぇって読んだ本もあるように思うとるがね」
「私が?」
「ほぉら、まるで覚えとらんのよ。自分の書いたことに関しては、お互い」
「本当ね。おかずちゃんからもらった手紙なら、何度も読み返して、そらで言えそうだけど」
洋子の言葉に、「私もじゃ」と員子はどうしてかそれだけのことが言えずに、呑み込んだ。
ブルーブラックの楷書を、何度取り出して眺めたか。彼女らしい、機知にとんだ英明な言葉の数々は、自分のただの殴り書きと等価で交換していいものとは思えず、彼女にばかり負担を――損をさせている、という気持ちは、募るばかりだった。
それでも、郵便受けに、東京都墨田区向島……から始まる送り主の封書を見つけた日には胸が弾んで、その日が特別な一日になり、家事を終えて封を切れる時間になるのを待ちわびていたものだから……。
嬉しかったのだ。自分と同じように、洋子も手紙を読み返してくれた、その価値があると思ってくれたことが。
「おかずちゃんといっしょに神谷バーに来たかったの。ようやくよ。ありがとうね、付き合ってくれて」
「そんなの。こっちこそ……」
サワーに手を伸ばし、胸からあがってきた上気を喉元で溶かして再度、呑み下す。
正体不明の酩酊の味がした。
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