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近付いたことが、そもそも失敗だったのかもしれない。
まばらに人の行き交う構内。
ピアノのそばに歩み寄った私は、気づくと指を伸ばしていた。
冷たい感触に、触れる。
誘惑に耐えかねて。
――――ポロン。
たちまち、心の奥で、何かが零れたような感覚が生まれた。
ラの音だ。
きちんと調律されている、正確な音。
“古いピアノの再利用“
確かに、近づいてからよく見てみれば、そのグランドピアノはかなり使い古されていたようで、そこかしこにたくさんの傷があった。
たくさんの誰かが、ずっと、このピアノを弾いていたのだ。
その様子を想像しながら、みるみるうちに自分の心が柔らかく緩んでいくのを感じた、ちょうどその時。
「―――すみません、お客様」
突然、誰かの声がした。
振り向くと、そこには人の良さそうな初老の駅員が立っている。
まずい。
触っちゃダメだったのか。
「ピアノの演奏時間は、午前9時から午後10時までなんです。―――申し訳ありませんが、今日はもう」
「あ、―――すみません」
彼の言わんとすることを察して、私はぱっとピアノから離れた。
確かに、よく見るとグランドピアノの上には、駅員が口にした演奏時間を示すポップが置かれている。
「すみません·····気づかなくて」
「いえいえ。こちらこそ。せっかく弾いてくださったのに、申し訳ないことをしました。いつもは、午後10時を過ぎたらパーティションで締め切るんですが、今日はたまたま、係の者が忘れてしまっていたようで」
駅員はそう言いながら申し訳なさそうに頭を下げて、優しい声で訊ねてきた。
「お仕事帰りですか?遅くまで、大変ですね」
「いえ。駅員さんこそ、お疲れ様です!」
「····良かったら、また別の日に、弾きにきてやってください。しばらくはここに置いてる予定なんです。―――ピアノも、弾かれてないと、結構寂しそうにしていますから」
私は思わず、肩にかけたバッグの持ち手を握りしめていた。
「―――はい。ありがとうございます」
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