プロローグ

1/1
1198人が本棚に入れています
本棚に追加
/467ページ

プロローグ

 小さな指が踊るように、すべっていく。  グランドピアノの白い鍵盤は、子供の指にはひどく重く感じられたはずだった。  なのに、あの子はまるでそんなことを感じさせない滑らかなテンポで、それを弾いている。  開け放たれたままの、教室の窓。  風を孕んだ白いカーテンが膨らんで、その向こう側に夕陽の朱色が滲んでいる。  私たちの通っていた小学校の木造校舎は、とても古くて、独特の匂いがしていた。  今でもはっきり、その匂いを覚えている。  あの日。  どこからか耳に届いていた放課後のサッカー部の掛け声は、いつのまにか遠くなっていって、気付くと私はあの子の指と、声を、必死に追いかけていた。 『ミ、ミ、レ····で、ここでこの黒い斜めのところを押して』 『····黒いの、良く分かんない。これ?』 『違う。これ。音が違う』 『これ?』 『そう。ほら、―――この音。覚えた?』  長椅子を半分に分けあって座っている。    すぐそばで、あの子が笑っている。  鍵盤から、ポロンポロンポロン、と繊細な音が溢れて、浮かんで、溶けていった。  連打される度に、黒いクジラのような形をしたグランドピアノが、まるで空気の泡のように、華やかな光の粒を撒き散らしていくのが見えた。  何度も、何度も。  次から、次へと。  私はゆっくりと、顔を上げる。  隣に座るあの子がいったいどんな顔をして、それを紡いでいるのかを見ようとして。 『じゃあ、最初から。もう一回』  その瞬間、何の断りもなく、ふわりと手の甲に被さるように、温もりが重なって、私の息は止まった。    『―――指がずれてる。ちゃんと集中しないと、一緒に弾けないよ』  ふぅ·····っと、抑えられない小さな息が自らの口からこぼれて、それと同時に突然胸が苦しくなって。  あの日、確かに私は、生まれて初めて感じる特別な感情の存在を知ったのだ。  
/467ページ

最初のコメントを投稿しよう!