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プロローグ
小さな指が踊るように、すべっていく。
グランドピアノの白い鍵盤は、子供の指にはひどく重く感じられたはずだった。
なのに、あの子はまるでそんなことを感じさせない滑らかなテンポで、それを弾いている。
開け放たれたままの、教室の窓。
風を孕んだ白いカーテンが膨らんで、その向こう側に夕陽の朱色が滲んでいる。
私たちの通っていた小学校の木造校舎は、とても古くて、独特の匂いがしていた。
今でもはっきり、その匂いを覚えている。
あの日。
どこからか耳に届いていた放課後のサッカー部の掛け声は、いつのまにか遠くなっていって、気付くと私はあの子の指と、声を、必死に追いかけていた。
『ミ、ミ、レ····で、ここでこの黒い斜めのところを押して』
『····黒いの、良く分かんない。これ?』
『違う。これ。音が違う』
『これ?』
『そう。ほら、―――この音。覚えた?』
長椅子を半分に分けあって座っている。
すぐそばで、あの子が笑っている。
鍵盤から、ポロンポロンポロン、と繊細な音が溢れて、浮かんで、溶けていった。
連打される度に、黒いクジラのような形をしたグランドピアノが、まるで空気の泡のように、華やかな光の粒を撒き散らしていくのが見えた。
何度も、何度も。
次から、次へと。
私はゆっくりと、顔を上げる。
隣に座るあの子がいったいどんな顔をして、それを紡いでいるのかを見ようとして。
『じゃあ、最初から。もう一回』
その瞬間、何の断りもなく、ふわりと手の甲に被さるように、温もりが重なって、私の息は止まった。
『―――指がずれてる。ちゃんと集中しないと、一緒に弾けないよ』
ふぅ·····っと、抑えられない小さな息が自らの口からこぼれて、それと同時に突然胸が苦しくなって。
あの日、確かに私は、生まれて初めて感じる特別な感情の存在を知ったのだ。
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