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【十三歳現在・過去 嗤う男】
祖父はまた、『たたら』に火を入れた。
朝早く、日が昇るのと同時に『炯屋』の中は、煌煌と赤くなった。千松家と大柄家、大篭家の老職人たちが、飛び散る火の粉の中、忙しそうに動いている。その回りを取り囲む柱には、イエス様とマリア様がゆらゆらと照らされていた。
ふと、南の柱の影に人が見えた。
私より年上ではあるが、若い男だ。赤い炎によって浮かび上がった顔は真剣そのもので、燃え盛る『たたら』を見つめている。その体も、やはり炎によって赤く浮かび上がっている。
取材の人だろうか。現在では『たたら』は珍しいものらしく、雑誌記者や学生が時々訊ねてくることもある。しかし、男の目はその人達の目ではない。何かが、取材の人達と違うと、私の頭が言っている。もしかしたら、『たたら』を継ぐ人なのかもしれない。とすると、八つの家の誰かだ。後継者はいないと智広兄さんは言っていたが、きちんといるではないか。
男に声をかけようと、近づいていこうとしたその時、祖母が慌しく『炯屋』に飛び込んできた。
「今度は、大柄の美祢子が救急車で運ばれたっけよ!」
祖父の返事は、『たたら』にかかりっきりであるためなのか、そっけないものだった。同じく三人の老職人たちも、ただただ炎を見つめている。
まるで、『呪い』を見て見ぬ振りをしているようだ。
「ちげえでば!事故かもしれんすけ、もうちょっとしてから電話で訊かいん」
「んだすけ、こげな続けて―――」
祖母は立て続けに起こった『呪い』にショックを受けたらしく、半分泣きそうになりながら力なく『炯屋』を後にした。それと同時に、南の柱にいた男も素早く出ていった。
出て行く時に、男と、ふと目が合った。
何がそんなに楽しいのか、その目は笑っていた。
この町にいると、何かがおかしい。この科学の時代に『呪い』なんて、どうかしていると思う。智広兄さんだって、もう大学生にもなるのに『呪い』を信じているようだ。私だって半信半疑なのに。学校に行けば、占いや怪談をする時もあるけれど、皆それが何の根拠もないものだと、気づき始めている。
それなのに、ここでは『呪い』は現実に人に危害を加えるものとして存在しているのだ。私自身が体験している。権威のある学者から信じるなと言われても、私は信じるしかない。少なくともこの傷が癒えるまでは。
きっと、美祢子という人も『呪い』にかかって、あの行為を実行したのだ。
私は部屋に戻ると、素早く教科書とノートをトートバックに入れた。祖母に朝食を用意してもらい、ご飯を飲み込むと、昨日と同じように自転車で県境を越えた。
夏の太陽はすでに高く、私を焦らせる。
土佐の家に着いて、日差しから逃げるように玄関に駆け込む。おばさんがにこやかに出迎えてくれて、私は智広兄さんの部屋に行った。
「こんにちは」
「やあ、よく来たね」
挨拶も適当に、私は教科書とノートを取り出して机に置いた。今朝のことを、早く忘れたい。その一心だった。
智広兄さんが、もう一つ椅子を持ってきて、約束通り親切に教えてくれた。布津の家にはクーラーがないから暑くて勉強をする気になれなかったが、涼しい空気が常に漂うこの部屋ではとてもはかどった。それに、歳が近い人がいるから気分が楽だ。
先程の男の話をしようと思ったが、やめた。あの目を思い出すのは、怖い。
一番面倒な数学と理科の宿題を手早く終わらせると、もう昼になっていた。
「下に降りてきなさい、ご飯よ」と、おばさんの声が上がってきたので、私たちは一階に降り、台所のテーブルに座った。そうめんが涼しそうにガラスの器に泳いでいる。その隣の大皿にトマトの輪切りとポテトサラダがあった。
「大したものじゃないけど、どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
二人で同時に合掌をして、日本の夏独特の騒音を立て始めた。
田舎の食事はいい。街で暮らしている主婦の特徴なのか、母が手抜きをしてスーパーの惣菜を買ってくるので、油っこい物や味の濃い物が食卓に並ぶことが多い。その味に慣れてしまったために、手作りのものも同じような味付けになってしまう。しかし、田舎に来ると、素朴な味ばかりで舌が落ち着く。おやつがキュウリの丸かじりというのも、楽しい限りだ。
良いことだけを考えていると、やっと気分が落ち着いてきた。智広兄さんと、好きなミュージシャンの話で盛り上る。
私たちが勢いに任せてそうめんをすすっていると、おばさんは箸をつけずにエプロンを外し、パタパタとスリッパを鳴らして台所から出ていこうとした。
「あれ?母さん、食べないの?」
智広兄さんが呼び止めると、おばさんが振り向いた。
「うん。母さん、ちょっと大柄さんの所に出かけてくるから。食べ終わったら、洗わなくてもいいから片付けといてね」
「了解」
そう答えると、おばさんは急ぎ足で奥のほうに行ってしまった。智広兄さんは視線を天井に上げたまま、そうめんをすすった。
私はまた今朝のことを思い出して気持ちが悪くなり、箸の動きを止めた。
「大柄の家って・・・・もしかして、美祢子さんっていう人の?」
智広兄さんは、平気そうな顔でトマトを一切れ口に放りこんだ。
「そうだ。この町の人口密度は低いし、八つの家は妙に団結が強くてね。そういう情報はあっという間に町中に届く。深刻なことに、今年は『呪い』の当たり年らしいね。美祢子って、僕の一つ下なんだけど、夜中に風呂に入って、自分を茹でるように風呂釜をずっと炊きっぱなしに―――」
「もういい!もういいから・・・」
智広兄さんは私の声に驚いたようで、咳き込んだ。麦茶を飲んで、食道を落ち着かせると、短く息を吐いた。
「悪い。ええっと、昨日どこまで話したっけ?」
「・・・八つの家の話」
「ああ、そうか。とにかく、僕らの家はこの地では特別扱いだった。反対にそうじゃなかった人達もいる。次はこの人達の歴史なんだが、まず食事を済ませてしまおう。あまり、楽しい話じゃないからね」
食べ終わった後、食器を流しに押し込むと、茶の間に移動した。私も智広兄さんも、まだ手に包帯が巻かれていて、水は使えない。私は、お風呂に入る時は手足をラップでぐるぐる巻きにされ、情けないことに祖母に髪も体も洗ってもらっていた。痛みはじっとしていればそれほどでもないが、食器洗いまでは出来なかった。
智広兄さんは、サイドボードの上からキーホルダのついた鍵を手に取った。
「ちょっと、外に出てこようか?これから、殉教者の墓参りにでも行こう」
「そんな所、あるの?」
「あるよ。つい最近、キリシタン殉教公園なんてものも出来たしな。林や草むらに隠れているけど、キリシタンの史跡は多いよ」
二人で家を出る。智広兄さんは、母屋の隣にある車庫のシャッターを開けた。カビ臭い匂いと湿気を含んだ熱気が吐き出されて、思わず顔をしかめた。
智広兄さんは、車の隣にあった黒いバイクに鍵を差し込むとエンジンをかけずに引きずり出した。太陽に照らされると、黒いバイクは美しい流線から光を放った。
「これ、智広兄さんの?」
「そう。僕の相棒だ。これで実家まで帰ってきたんだ。ほら、メットかぶって。暑いけど、我慢しろよ」
放り投げられたメルメットを受け取ると、私は力任せに頭を突っ込んだ。頭だけ、サウナのように熱い。
智広兄さんはバイクにまたがると、私に乗るように指図した。
「智広兄さんは、ヘルメット被らないの?」
「一つしかないからな」
「ずるーい!暑いよ、これ」
「我慢しろって。事故ったら、危ないだろ?」
文句を言いながらバイクの後部座席に乗ると、「男に嫌われるぞ」とヘルメットをコンと軽く叩かれた。
次の瞬間、田舎に似つかわしくない爆音が辺りに轟く。怖くなって、智広兄さんにしがみついた。
「離すなよ」
大声で言われて、私は黙って頷いた。
バイクは走り出し、私が自転車で来た道を逆走した。ぶつかってくる風が痛い。智広兄さんの腕はまだ完全には治っていないのだから、もっと痛いはずだ。私の手足の先も、共振するように痛み出す。そして、背中は夏の太陽の所為で焼けるように熱い。
私たちが生き残り、どうして他の人達が殺されていくのか。
そういう理不尽なことはこの世界に溢れているけれど、それを直に感じ取るという行為は滅多にない。私は今から、それを確認しに行く。
一体、私たちに何が起こったのだろうか?
それは、私の歴史を紐解くことでもあるのだ。智広兄さんは、すでに自分で確認している。自分を傷つけるという行為が、どのような過程でなされたものなのか。
怖いけど、知りたい。
バイクに乗るのは始めてで、怖くて目をずっと閉じていた。時間の感覚が徐々に薄れていく。
曖昧な空間の中にいると、急にぶつかってくる風が弱まった。そして、完全に止まる。
「着いたぞ」
声と同時にエンジン音も止まった。私は目を開けて、ヘルメットを取った。
「ここは?」
「東和町の『三経塚(さんきょうつか)』。ここもそうだけど、この地域一帯が隠れキリシタンの里だなんて、最近までわからなかったんだ。ここでは自分たちが信仰している神様を『はやり神様』と言ってね、誤魔化していたんだ。そのうち本当に廃れてきた。『三経塚』も謎だった。しかし、昭和二十九年にとある旧家から古文書が発見されて、ここがキリシタンの墓だってことがわかったんだよ」
歩いて行くと、回りを低い木々で囲まれた小高い空間に、ぽつりと二本の松に囲まれた石造りの十字架が見えてきた。その手前に、白い標記が建っている。
「どうして、『三経塚』って呼ぶの?」
「一七一〇年頃に、海無沢(うみなしさわ)で百二十人のキリシタンが処刑された。その遺体を三等分して経文と共に、海無沢、朴の沢(ぼくのさわ)、老の沢(ろうのさわ)の三ヶ所に埋められた塚だから、『三経塚』」
「百二十人・・・」
「そう。その前にも、もっと殺されている。この海無沢の処刑を期に、キリシタンの数は減っていく。もう、信仰し疲れたのだろうね」
智広兄さんは無表情にそう言って、風で乱れた髪をかき上げた。そして、自分の腕を擦った。その手が少しばかり震えているように見えた。
「僕らの行為は・・・拷問方法に似ているんだ」
拷問―――。
私たちは殺されたキリシタンに呪われている。私たちの先祖が処刑されなかった分、彼らが拷問を加えているの?
子に、孫に、その子孫に、永劫に―――。
「ひっ・・・!」
自分の立っている地が、怖い。この下に埋まっている人々に、足を捕まれそうだ。早く帰りたい。仙台に帰りたい。
「だ、大丈夫なの!?私たち、お墓を下にして立っていても!」
「・・・さてね。しかし、彼らより下に行くにしても、僕らはまだ若すぎる。仕方ないよ」
「だって、『呪い』が・・・!」
私は後退りして、その場を離れた。呪いとわかった以上は、もう二度とあの自虐的行為を繰り返したくはない。
同じ立場にいるはずの智広兄さんは、それでも落ち着いていた。
「大丈夫だよ。どうも『呪い』は一回きりらしい。それも、発生年齢が若い頃だという共通点以外は、方法も重傷度も人によって様々なんだ。僕らは儀式を済ませた。こんなのまだ軽いほうだ」
「軽いほうって・・・」
「君のお祖父さんの右目、あれはお祖父さん自ら潰したんだ。そう、僕の父から聞いた」
「な・・・!」
「だから言ったろう?僕らは軽いほうだ。キリシタンの拷問には、死に至るものもある」
もう、よくわからなかった。頭の中が真っ暗で、眩暈がした。朦朧とした暑さの中で、私は必死に現実にしがみついていた。智広兄さんの皮膚のように。
怯える私の隣で、智広兄さんは十字を切った。
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