プロローグ

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 燃えていた。  生き物のようにうねる炎は四方の壁を這い、天井までもを焼き尽くそうとしている。陽が沈んだばかりだというのに、辺りはまるで朝焼けのように眩しく、ヴァルトルートを恐怖に駆り立てる。  業火のなかで一人取り残されたヴァルトルートは、宿屋の三階で布団にくるまり床に伏せていた。煙を吸うと苦しくなるので、布団を鼻と口に当てて逃げ場のない熱気からひたすら耐える。  出入り口はとっくに閉ざされている。ついさっき落ちてきた天井の瓦礫がドレス棚にぶつかり、倒れ込んだドレス棚が出入り口をふさいでしまったのだ。窓の外はただ広々とした景観を眺めることができるだけで、降りる屋根もないここからでは屋根伝いに逃げることも叶わない。 「……母上、クララ、マクシミリアン……ガーくん」  大切な人たちの名前を呟いた。死が迫った恐怖と取り残された悲しさ、燃えるような熱気と煙の苦しさから、涙がこぼれる。  明朝にはこの宿をたち、バッハマン地方へ向かう予定だった。  それが、どうしてこうなったのか。何者かがヴァルトルートの命を狙って放火した――その線が、濃いように思う。命を狙われるのは、皇族に生まれた者の定めだと母王も繰り返しヴァルトルートに言い聞かせてきた。特に妹のクララが生まれてからは、彼女を皇帝にと押す者たちが暴走気味であることも承知していたはず。 (なのに――!)  旅先だからと、油断していたのだろう。ヴァルトルートも、そしてヴァルトルートについてきた侍従たちも。  呼吸も苦しくなってきた。熱すぎて皮膚が痛む。身体のどこかが焼けているのかもしれないが、確認する気力も逃げる場所もない。 (僕は、このまま死ぬんだ。……結構、悲惨な最期かも)  生きたまま焼け死ぬのは、もっとも苦しい死に方だと聞いたことがある。皮膚を焼かれただけでは人間は即死できない。じわじわと生きたまま内臓を焼かれる苦しみは想像を絶するのだとか――だから、重い罪を犯した罪人は火あぶりにされるという。 (そんな苦しみを、味わうくらいなら)  ヴァルトルートは舌を軽く噛む。このまま舌を噛み切れば、出血多量で死ねるかもしれない。  朦朧とする意識のなかで、最期の時を決めたとき。 「――ぁ――っ!」  声が聞こえた。  宿屋を燃え尽くそうとする業火の音に混じって、確かに声が聞こえる。 (助けにきてくれた……?)  じっと期待を込めて扉を見つめる。 ――ドン!  壁が崩れる爆音がした。ついに宿屋が崩壊するのだ、と身構えた瞬間。崩れ落ちた壁の向こうから、人影が飛び込んできた。  全身から水を滴らせた少年はヴァルトルートの姿を見つけるなり、部屋に散乱している壁や天井の瓦礫を飛び越えながら駆け寄ってきて、布団ごと身体を抱きかかえる。 「もう、大丈夫。大丈夫だから」  少年は――結婚を約束した彼は、そう言って微笑んだ。頬は黒く煤でよごれ、簡素な上衣はあちこち焼け焦げて素肌が見えている。  誰が見てもボロボロの姿なのに、ヴァルトルートに向ける笑顔はとても眩しくて。 (……ガーくん)  死を覚悟した瞬間、愛する人が命がけで炎のなか飛び込んできてくれた。楽に死ぬことを考えていたヴァルトルートの心が、苦しいほどの感動を伴って上昇する。 「姫様、ご無事ですか!」 「お前、早く姫様を!」  どこからか、聞き覚えのある侍従たちの声がする。 (僕は、助かったんだ)  そうほっとした、刹那。
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