第二章

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 彼が後宮に入ったのは、五年前だ。ヴァルトルートは十三歳で、あのときはジャンが後宮入りすることに関して、あまり深く考えてはいなかった。  けれど、ここで一生を終えなければならないというのはやはり酷だろう。ジャンの実家は男爵位だが、生活が困窮しているわけでもない。ヴァルトルートの記憶によれば、夫婦仲のよいとても暖かな家庭だったはずだ。 「ねぇ、ジャン。ジャンがもしここを出たいのなら……」 「出ませんよ」  彼は強調するように答えた。思わず肩ごしに仰ぎ見る。 「ここにいてくれるの?」 「いますよー。だってワタシ、野心に燃えてますからね」 「野心、って。でも、後宮内での出世なんて、僕の夫になるか夫になった者の侍従長になるかしかないじゃないか。ジャンはもうアルノルトの侍従長だし……あ、文官になるのはどう?」  後宮をでて一般国試を受け、文官として国政に携わるほうがよほど出世できるだろう。  そう思ったヴァルトルートに、ジャンが首を横にふる。 「この貴族社会のなかで、爵位のない文官や武官は侮られるだけなんです。あなたに仕える侍従もすべて、貴族の娘でしょう? しょせん、爵位のない者がどれだけ頑張ろうと、限界があるんですよ」  どこか悲しげにそう告げるジャンは、次の瞬間には瞳をきらりと輝かせていた。 「でも! ワタシは出世しますよ。アルノルト様が皇婿になられた暁には、マクシミリアン様のように後宮を出て中央塔で生活されるでしょう? そしたら当然、ワタシも身辺のお世話をするために一緒に行きます。……そしたらどうなると思います?」 「……どうなるの?」 「モテる」 「は?」 「モテるんです」  力強く言い張りながらヴァルトルートの肩を揉んでいた手を放し、ジャンは拳を握りしめた。 「ヴァルは侍従の世界の話はあまり知らないでしょうけど。今って、中央塔で暮らす皇族ってすべて女性じゃないですか? そして、仕える従者も侍女も、全員が女。規則ではないですけど、そうなってるはずです」 「まぁ、うん。僕の侍従は全員女性だね」 「そんな彼女らは、密かに皇婿の侍従に憧れを抱いてるんですよ! なぜならば、中央塔で暮らす男は、皇婿とその侍従だけだからです」 「……」 「ワタシは結構男前ですし、背も高い。物腰はやわらかいし、何よりヴァルの幼馴染という誰もが羨む立場にある。きっとモテますよ。すごくモテますよ! ……そしたらワタシは、爵位が高くて人柄に優れた女性を選び、結婚します」  ヴァルトルートつきの侍従もすべて貴族の娘。そんな彼女らからモテたい、と思うのもわからなくないが――まさか、ジャンがこんな野心に燃えていたなんて。  驚きを通りすぎて、少し呆れてしまう。 「で、でもさ。ジャンはカッコいいんだし、何もそんな先まで待たなくても、今後宮を出てもじゅうぶんモテると思うよ?」 「何言ってるんです。後宮を出たらワタシ、実家に帰らないといけないじゃないですか。うち男爵位ですよ。領地もない普通の一般家庭なんですから、王城に滞在する費用も工面できませんし」 「……な、なるほど。わかったよ。きみが伴侶を見つけたときは、後宮のあるじとして結婚の許可をあげよう」 「ありがとうございます」  もし後宮が窮屈だと思っているなら、ヴァルトルートの権限でここから出してあげようと思ったが。ジャンなりに目標があるようなので、このままそっとしておこう。  ジャンが再び肩を揉み始めた。その痛みと心地よさに、すっと目を細める。 「それにしても、ヴァルがこうして昼間っから後宮にきてくれるのは二度目ですね。前はすぐに戻ってしまいましたけど、今日はこうしてアルノルト様の剣舞もご覧になってくださる。いやぁ、後宮が華やぎますよ」 「……うん。むしろ、一週間もこれなくて悪かったよ。もっと早く来る予定だったんだけど、時間がなかなか取れなくて」 「皇女の仕事ってそんなに忙しいんですか?」 「おもに上がってきた書類に判を押すだけ、だけど。最終決定を下すという意味で、確認が必要な個所も多いから、そこが手間なのと。あとは、僕が主体で進めている城下の地下工事の案件がわりと大変。ほかには、大臣たちが相談を持ち込むことがあるから、そっちにも時間を割いて」 「……大変なんですね、すごく」  ジャンはうーんと唸るようにため息をつく。 「じゃあ、夜に来てくださいっていうのは、やっぱり無理ですかねぇ」 「執務が深夜に終わるから、出来ればそのまま寝てしまいたいんだ。……前みたいに、夜に来たほうがいい?」 「前みたいに、といいますか。できれば朝までぐっすりとこちらで過ごしていただきたいというのが、本心です。アルノルト様ともご成婚していただいて」
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