第二章

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 きた、と思った。  ヴァルトルートは正直、この手の話題から逃げている。  少なくともヴァルトルートは、アルノルトに限らず、後宮にいる男の誰とも褥と共にしたくない。子どもが産めない身体だというのに、目的のない情事をして体力を無駄に使いたくないのだ。  エーフィは、愛を育む行為だという。  けれど、到底そうは思えない。ヴァルトルートが嫡女である限り、そういった行為に求められるのは跡継ぎなのだから。  つまり、ヴァルトルートにとって褥を共にする行為は「時間と体力の無駄」なのだ。少なくとも、ヴァルトルートはそう考えている。 「まぁ、考えておくよ」  逃げの一言を口にしたとき。 「おい、お前たち!」  叫ぶような怒声が響いて、ヴァルトルートは顔をあげた。  アルノルトの剣舞を見ていた見物客から、驚いたようなざわめきが広がる。 「完全に俺を見てないだろっ!」 「見―てーるーよー」 「嘘つけ! めちゃくちゃジャンとしゃべってるだろーが!」  ヴァルトルートは軽く手を振ってみせる。  アルノルトはどうやら律儀に剣舞をすべて終わらせたらしく、汗を流しながらこちらに向かって歩いてくる。 「お前のために、この俺が披露してやったんだ。ちゃんと見てろ!」 「見てたってば。アルノルトは剣術が得意なんだってね。剣舞も、すごくカッコよかったよ」  びく、とアルノルトの身体が強張った。暑さのためか、頬をじんわりと赤くして視線を彷徨わせる。 「え……本当か。ど、どのあたりが……?」 「そうだなぁ。えっと……空に向かって剣を突き立てたところとか」 「ああ、あれは天に上る龍神に見立てて――」 (本当にあったんだ、そんな場面)  大半を見ていなかった身として適当に告げてしまったが、意気揚々と説明を始めたアルノルトを思うととても申し訳ない気分になる。 「あはははは、アルノルト様が幸せそうでなによりです」 「……ごめんよ、アルノルト。この暑さのなか、剣舞観賞はちょっとしんどかったよ」  本人に聞こえないように呟くヴァルトルートの頬にも、すでに滝のような汗が流れていた。 「ではそろそろ室内に移動しましょうか。紅茶と菓子をご用意しましょう」 「そうだね。そろそろ室内に入りたいし」  ふふ、とヴァルトルートは微笑んだ。ジャンがいて、アルノルトがいて、自分がいる。皆が笑って、何気ない話をして――こんな穏やかな幸せがあるのならば、もっと後宮に足しげく通ってもいいかもしれない。  幸せだ、と素直に思った。  仕事部屋にこもる心休めとはまた違う、幸福な時間。 「……あれ」  血相を変えてこちらに走ってくる男がいる。着込んでいる紺色の燕尾服からして、後宮の前に立つ衛兵だろう。彼らは後宮から男が逃げ出さないか見張ると同時に、緊急時には後宮内に足を踏み入れる許可を得ている。 (なにかあったな)  ヴァルトルートはドレスの裾をはためかせながら立ち上がり、自らも衛兵の元へ歩みを進める。  ジャンやアルノルトの従者たちからも離れて、衛兵にそっと顔を寄せた。 「どうした」 「女帝陛下が、お倒れになられました!」  簡潔に告げられた言葉の意味を、一瞬では理解できなかった。  衛兵の強張った顔を見つめているうちに、じわじわと事の重大さが身に染みてくる。 (母上、が。……倒れた?)  ヴァルトルートはすぐさま中央塔へ戻る旨を告げ、後宮をあとにした。  ***
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