第二章

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 女帝はまだ四十五歳だ。ヴァルトルートが十八を迎えたからといって、皇帝位交代はまだ先の話だと思っていたのに。  かつて国中を飛び回っていた女帝が、最近は日帰りで行ける近隣の視察にしか向かわなくなっていたのも、そんな事情があったからなのだろう。  ヴァルトルートは唇を噛む。もっと気を配っていれば、女帝が抱えている病気についても気づけたはずなのに。  いや、果たしてそうだろうか。ヴェルトルートは、仕事以外でレーマンに会うことは殆どない。お互いに多忙で、ここ数年は顔を合わせることは極端に少なかった。  だからこそ、レーマンも僅かな対面の間は皇帝然としていられたのだろう。 「それで、病名はなんだ。癌か」 「不治の病でございます」 「……不治の病?」  随分と曖昧な表現だ。眉を潜めて、ベラから初老の侍医へ視線を移す。 「どういうことだ」 「は。長年医者をしてまいりましたが、陛下のように複数の病状が現れる病を存じません。症状が多すぎるゆえ、あらゆる病気が重なったものであると、判断したのですが」 「なら、それぞれの病に対する治療を行えばいい」 「もちろん、対処しております。ですが、一向に回復に向かわれず……もしやこれは、不治の病ではないかと、あらゆる医学書を改めて調べ直しました。そこに、陛下と同様の病状を見つけました次第でございます」  ひたすら平伏して、侍医はそう告げる。  ヴァルトルートは、いつの間にか力んでいた身体から力を抜いた。 「なんだ、よくやったな。では、それを元に治療を進めればいいじゃないか」 「……治療法はございません」 「……なに?」 「医学書に乗っていた症例は、とある小国の国王でした。その王もまた、レーマン陛下と同様の症状の末に、お亡くなりになられ――原因治療法共に、不明、と」 「そんな馬鹿なことがあるか!」  思わず声を張りあげてから、ぎりっと奥歯を食いしばる。 「このまま母上が弱っていくのをじっと見ていろっていうの? 母上は、この国の女帝なんだ。母上にしかできないことが、たくさんある。……なのに」 「殿下、レーマン陛下はすべてご存じなのです」  ベラが、そっと語りかけるように言う。 「ご自身の病状を承知のうえで、日々を生きておられます。そして、いつか自分が倒れることもわかっておられました。……そして、自分が倒れたときには、自分の病気についてヴァルトルート殿下にお伝えするようにと、そう申し付かっておりました」  ベラの声が震えている。見渡せば、控えている侍女も、侍医も、悔しさや涙を堪えるように悲愴な顔をしていた。  ヴァルトルートは言葉もでず、ただ唇を震わせた。  母王の死が現実のものになろうとしている気配を感じ、両手で自らの身体を抱きしめる。  そのとき、勢いよく扉が開いて白銀の髪をなびかせた少女が飛び込んできた。 「お母様!」  クララは真っ直ぐに女帝の元へ行くと、その顔を覗き込んだ。そして枕元にしがみつくと、わんわん声をあげて泣き始めた。  それをヴァルトルートは痛ましい思いで見つめる。  レーマン女帝は、ヴァルトルートにとって母である前に「皇帝」だった。いつだって女帝の顔を崩さなかったし、母として接してもらえた覚えはほとんどない。  けれど。  クララに対しては、女帝も母の顔を見せていた、ように思う。  女帝と皇婿、そしてクララの三人で庭園を散歩している姿を、中央塔の窓から眺めたことがあった。あのときの女帝は紛れもない母親の顔をしており、ヴァルトルートはそんな女帝に少なからず幻滅した覚えがある。  女帝でありながらもどこか油断している様子に、女帝としての自覚が欠落しているように見えて幻滅した。そう当時は思ったが、今思えばただの嫉妬だったのだろう。  ヴァルトルートとクララは違う。  同じ皇女でありながら、女帝の認識は別物なのだ。 「お母様、お母様っ。どうして、ご病気になってしまったのっ」  クララの悲愴な声が、辛かった。  大丈夫だよ、と安心させてやりたいが、気休めだけの言葉を告げるのは気が引ける。  ヴァルトルートは耳をふさぐように顔を反らし、胸中で息を吐きだした。 (僕がクララにしてやれることは、なにもない)  辛いが、いつまでもここにいるわけにはいかない。  女帝が倒れたとなれば、その仕事はヴァルトルートに回ってくるのだ。執務室に戻ってやらねばならないことが山ほどある。  部屋に戻るためにグリットを振り返った。
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