第一章

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 それはなぜか。原因は不明。王城つきの侍医も、ヴァルトルートの身体に関しては病状さえ掴めていなかった。 ――表向きは 「よし、と」  ヴァルトルートは気合を入れて頬をたたくと、鏡を元の場所にしまって「仕事部屋」を出た。衣装部屋を改造した仕事部屋は、ヴァルトルートの個人部屋の最奥に位置するこじんまりとした小部屋だった。  そのまま真っ直ぐ寝室に向かい、天蓋つきの寝台のなかに入って身を丸める。冷たい布団のなかは、初夏のこの季節には心地が良かった。  頭まで布団をかぶり、いつも持ち歩いている小型時計をじっと見つめる。金メッキ塗装された指輪ほどの大きさの小型時計は、ヴァルトルートの「親友」だ。いつも一緒で、寂しいときや嬉しいときに、気持ちを分かち合える大切な相手。  名前を「ガー」という。  ヴァルトルートは愛しさがこもった瞳で、じっとガーを見つめた。ややのち、見つめているだけでは我慢できなくなり、時計をぐりぐりと撫でまわして、裏返してふぅっと息を吹きかけ、最期にちゅーと吸い付くようなキスをする。 (ああ、なんて素敵な身体なんだろ。ずっと撫でていたい)  もう一回、とメナカイト製のひんやり冷たい時計の身体に唇を近づけた。 (時計の声が、聞こえたらいいのに)  そう思ったヴァルトルートだったが、すぐにその考えを捨てる。時計もヴァルトルートの周囲にいるかしましい貴族令嬢たちや、従順な従僕のようになっては嫌だ。  やはり時計は無口なまま、そっとヴァルトルートの傍にいてもらおう。 「今日の仕事が終わったら、研磨剤入りの布で磨いてあげるからね。金メッキの部分は、羽毛で洗ってあげる。それから、それから――」 ふと、扉を叩く音が聞こえた。 「姫様、エーフィです。朝ですよ、起きてください」  侍従長のエーフィが起こしにくるのは、毎朝の日課である。 (来たか)  もぞ、と布団から顔をだし、「はーい」と返事をしかけて口を噤む。 (そうだった、一度目は聞き流すんだった)  なぜならば、“たった今起きた”ことを印象付けるためである。 ヴァルトルートが衣裳部屋を改造して、趣味の「仕事部屋」にしたことは周知のことだ。だが、そんな部屋に早朝からこもり、あらゆる時計に話しかけては独り言を繰り返すヴァルトルートの「癒しの時間」を知られるわけにはいかない。  時計に話しかける――それが「おかしい」ことだと、ヴァルトルート自身も理解していた。けれど、止められない。ヴァルトルートは時計が好きだし、愛する時計たちとだけ過ごす早朝の時間は、ヴァルトルートの唯一の気分転換であり癒しの時間なのだ。  止められないのだから、やることは一つ。  そんな奇行を、隠し通すことだ。皇女たるもの、弱みを見せてはいけない。弱点が醜聞に繋がることは必須。例え気心の知れた侍従相手であっても、誰を介して悪評が流れるかわからないのだ。  だからヴァルトルートは、自分が「時計に話しかける癖のあるちょっと変な娘」であることを隠している。
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