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プロローグ
それは、生まれて二度目の恋だった。
瞬きさえ眺望できるほどに美しい星々が見下ろす、真夜中の街路。
果実を入れる木箱に汚い荒布を敷いただけの粗末な椅子に、十二歳になる少年は座っていた。肩に擦れるほどの艶やかな漆黒の髪に、同色の清んだ瞳。ほっと息をつきたくなるような整った顔立ちは、歳のわりに随分と大人びている。
少女は正面から彼を見上げ、伺うように口をひらいた。
「僕をお嫁さんにしてくれる?」
「俺でいいの?」
穏やかな笑みを浮かべていた少年の表情が、驚きを張り付けたものになる。
そのさまを見やり、少女は満面の笑みで頷いた。
「うん。ガーくんのお嫁さんがいい」
「でも俺、十二歳だよ。姫様は六歳で俺のまだ半分しか生きてないんだ。六歳も歳が離れてるのは大きいと思うな」
「成長したら関係なくなるよ。僕はまだ六歳だけど、すぐに大人の女の人になるんだ。だから、そのときはガーくんのお嫁さんになりたい」
「ああ、今すぐって意味じゃないんだね」
「今は……駄目。母上が、きっと許さないから」
しゅんと俯いて、少女――ヴァルトルートは少年の隣にちょこんと座った。荒布はドレス越しでもがさがさと肌に触れて痛かったが、甘えるように少年に凭れればこの場所が至上の楽園のように思えてくる。
ヴァルトルートは、そっと目を閉じた。
こうして、夜の街で静かに過ごすのは生まれて初めてだ。
皇女であるヴァルトルートは王城で暮らしてきた。いつだって護衛という名の見張りが傍にいて、一人になれる場所といえば厠くらいのものだ。
そんなヴァルトルートが今、バッハマン地方に視察へ向かう途中に立ち寄った宿屋を抜け出して、齢十二歳の少年とデートしているのだから気分が高揚するのも当然である。
「……どうして、俺なの?」
ヴァルトルートは、閉じていた瞼をあげる。見上げれば、少年が優しい目でヴァルトルートを見つめていた。幼さの残る少年の手が伸びてきて、ヴァルトルートの髪を梳く。
「姫様と俺は身分が違う。それに、昨日あったばかりじゃないか。……姫様は軽率すぎるよ。今だって、俺はこうして姫様を外に連れ出して、どこかにさらってしまうかもしれないのに」
「本当の人さらいなら、そんな忠告は言わないと思うよ。悪い人は、すごくいい人だから。笑顔で近づいてきて、僕の望むままのことをしてくれて、最後に甘い言葉でたぶらかすんだ。これまでの悪い人は、みんなそうだった」
途端に、少年の眉が寄り悲しげな顔になる。ヴァルトルートは慌てて首を横にふり、笑顔をつくった。
「ガーくんも優しいけど、そういうのとは違うよ。僕、ガーくんのこと好きだから」
「……姫様」
少年は悲しげな表情のままだったが、眇められた瞳には暖かなぬくもりを宿していた。身体の向きを変えてヴァルトルートを抱きしめ、彼女の小さな顔を自分の胸に押し当てる。
(……好き)
ヴァルトルートは、少年に抱きしめられて猫のように目を眇める。人のぬくもりがこんなに心地よいものだなんて、優しいものだなんて、知らなかった。
皇女として暮らす日々は鬱屈で、我侭はもちろん、本音さえ言うことができない。冷然たる皇帝になるためには、毅然な振る舞いを求められ、弱みになるような態度は決して見せられないのだ。
多くの者にかしづかれ、けれどもヴァルトルートは一人だった。
だから――旅先で出会った、この身分分け隔てなく接してくれる少年に好意をもったのだ。
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