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「熊谷さん、やっぱり天羽さんと仲良くなってるじゃん」
いつの間にか山下の隣に吉本が移動してきていた。グラスには透明な何かが入っている。
「仲良くなろうとしてるとこだよ。吉本さん、何飲んでるの?」
「えーっと、八海山? は飲み終わって、これ何だっけ?」
「そんなんなら飲み放題の適当なやつでいいじゃん~」
「おほほほ、おいしいのが好きなのよー」
「会社のお金だとなおさらですよね!」
「そ、山下さん分かってる!」
天羽がなかなか帰ってこないのが気になる。いい年して、まさかトイレで倒れたとかないよな。
気になり出すとどうにも落ち着かなくなってきたけれど、会話は盛り上がっている。
日本酒談議が始まったところで熊谷は腰を浮かせた。
「ちょっとトイレ......」
「はーい、いっといれ~」
お決まりのギャグに見送られ、熊谷は店の奥に向かった。暗い通路の奥、トイレの手前に椅子があり、誰かが座っている。くったりしているからすぐにわからなかったけれど、天羽だった。
「大丈夫ですか? 飲み過ぎましたね」
「いえいえ、ちょっと休んでるだけ......」
とろとろと緩む瞼が今にも寝てしまいそうな気配を醸し出している。
「そんな風にしてると山下さんにお持ち帰りされちゃいますよ」
冗談めかして言うと、目を細めて少し考えてから熊谷を見上げた。
「お持ち帰り? ふふふ、僕が女の子にお持ち帰りされるんですか? やだなぁ。どうせ持ち帰られるなら別の人がいいや」
酔っているせいか言葉の輪郭も緩んでいる。ダウンライトに自分を見上げる天羽の濡れた瞳が光って見える。吸い込まれそうな黒目だった。きれいだなぁ、と見ていると天羽も目を逸らすことなく熊谷を見ていた。
なんだろう、この皮膚がひりつくような感じ。思わず唾を飲んでいた自分に驚いた。
身じろぎした熊谷に向かって、天羽の唇が動いた。あまりに小さな声で何も聞こえない。
「え、何ですか?」
顔を近づけると、ほのかにムスクの混じった香水のラストノートが熊谷の鼻をくすぐった。気怠そうに天羽は首を傾げた。キスをするような角度で再び目が合った。
本当は何も言わなかったのかもしれない。それとも、わざと聞こえないように言ったのだろうか。
トクン、トクンと脈動が同調したような気がする。距離を縮めたのはどちらからでもなかった、と思う。
気が付けば唇が触れていた。触れるだけのキスよりももう少しこなれた、ゆったりと愛情を確認するような優しいキスだった。緩く合わさった唇を、自然と舌で割っていた。性欲にたきつけられて焦ることのない、柔らかい口づけ。
目が閉じられてしまったせいで、天羽の瞳が見えないのが残念だった。
こんなキスできるんだから、女に慣れてないなんてありえないだろ。
宴会の喧騒は遠ざかり、ただただ唇に縁どられた生暖かい咥内をお互いに確認する。少しずつ下半身に血液が集まって行く感じがした。
手のひらで頬を包み、唇を軽く吸うと二人だけにしか聞こえない小さな水音がする。我を忘れて二人だけの静かな交歓にのめりこんでいく。
「......んっ」
指先が耳に触れた瞬間、天羽が声を漏らした。その瞬間、熊谷は現実に引き戻された。
何してるんだ、俺は。そこに残る気持ちを振り切るように、いったん離した唇でもう一度触れるだけのキスをした。こんなところでこれ以上しちゃだめだ。いや、それ以前に相手は天羽さんだ。
引力を断ち切るように顔を引く。かすかに食んだ唇が名残惜しく離れると、天羽はゆっくりと目を開いた。
「天羽さんが倒れてるんじゃないかと思って……大丈夫そうですね」
締まらない言い訳が届いているのかいないのか、ぼんやりとした瞳はまだ揺らいでいる。視線の先にいるのは自分なのに、更にその向こうを見られているみたいだ。そう気づいた。
さっきのキスに驚きや嫌悪感がなかった。なのに天羽は自分を見てすらいない。一人で混乱していることにいたたまれなくなった。
全部、天羽さんが酔っているせいだ。
「......俺、トイレに来たんでした」
目を逸らして脇をすり抜け、トイレに身体を滑り込ませた。気持ちが落ち着かない。
とりあえず用を足して、時間を掛けて手を洗った。洗面台の周りはすでにびしゃびしゃに濡れている。ペーパータオルを多めにとってざっと拭き、顔を上げた。そこにいたのは、衝動と困惑の入り交じった思春期のような表情をした自分だった。なんなんだよ、一体……。
ゆっくりと息を吐く。ここは居酒屋で、今は会社の飲み会だ。天羽さんは酔っ払ってて、俺はトイレに来ただけ。どうにか言葉に落とし込んで頭の中を整えた。
トイレを出ると、通路にはもう誰もいなかった。
席に戻りつつフロアを見渡すと、天羽は管理部門のテーブルに引っ張り込まれて話をしていた。
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