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good omen
カップを片手に席に戻ると、入力作業をしていた営業事務の山下がコーヒーの匂いに顔を上げた。手に持ったマグカップを目ざとく見つけて指さしてくる。
「そのカップ、天羽さんのじゃん」
「山下さん、よく分かったね。コーヒーをたかっちゃった」
「えー! びっくり、そういうことしなさそうな人なのに。熊さんは相手が誰でも懐に飛び込んでくよね」
「それが仕事ですから」
「やだぁ、悪い男だねぇ。でも私も天羽さんと仲良くなってみたいな。あの人、きれいだしいい匂いするよね」
熊谷はさっきの天羽を思い出してみた。すっきりとした目鼻立ち、落ち着いた雰囲気。暑苦しいと自負している自分の顔とは対照的でうらやましい。いや、自分の顔が嫌いというわけではないけれど、こう、理想というか……めちゃくちゃ好みの顔じゃないか? 好み、というか好きなタイプの顔だ。
ふわふわとしていた感情に、輪郭が胸の中で形を持ち始める。同時に、引っかかっていた何かがするりと解けた気がした。
「なーんか気になっていたのはそれかな。近くで見る機会が少なかったから気付かなかったけど、綺麗な顔してるな、あの人」
「でしょ? こっからじゃほぼ部屋の反対側だからあんまり見えないけどさ」
しかし、遠くから見ても目を引く気がする。なぜだろう、バランス? スタイル? 着こなし?
さっき見たシャツとスラックス姿を頭の中で再現してみた。細部まで手入れが行き届いそうな整然さがあった。シャツの裾を出したままにするとか、絶対なさそうだな。匂いは、コーヒーの匂いしかしなかった気がする。
「写真撮らせてもらって壁紙にしたら?」
「えー、それ変態じゃん。おねだり上手な熊さんが撮ってきてよ」
「俺も嫌われたくないから無理」
適当に返事をしながら、席に着いてパソコンを開いた。
画面を見ながら、持ち手を指に引っかけてカップを持ち上げる。
ぽってりと艶やかに光る釉薬のかかった部分に唇をつけて一口飲んだ。鼻と口に香りが広がった。嫌みのない苦さが舌を撫でて、すっとひいてゆく。
手元に目をやると口の当たる箇所以外は土の質感を残した不思議なデザインのカップだった。陶芸に造詣のない熊谷にも、大量生産品でないことは分かる。
つか、これ、天羽さんがいつも口付けてるところだよな。あの容赦ない対応する口で『意外とドジなんですね』と言われた瞬間、吹き出しそうになった。コーヒーを持っていたから、どうにかこらえることができただけだ。
あまり話す機会はなかったけれど、会議で同席した時に天羽はずっと指先でボールペンを弄っていた。そういえばさっきも、短く整えられた爪が縁取る指先が、ミルのあちこちを撫でていた。
そういう脆弱性をはらんだアンバランスさがある。でもそれだけじゃない。表情や動きにどこか躊躇いがあるのだ。言いたい事を我慢しているようなあの視線も。
カップを傾けて残った液体を口に流し込む。つるりとした縁に唇が触れると、濃厚なキスをしているような錯覚すらする。
さっき掴んだ手の温かさを思い出した。その途端、やわらかい果実を押しつぶすように、熊谷の心の中に甘いものがじわりと溢れた。
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