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57話 黒ずくめのナシム
個室から出てきたナシムは、黒ずくめであった。
頭から輪郭に沿うように巻かれた黒布はナシムの柔らかな黒髪を隠し、細い首を隠し、耳までも隠れている。 たっぷりとした同色の衣服は床に触れるか触れないかくらいの丈の長さで、足先すら見えない。
化粧の施された顔と指先だけが露出した姿はあまり色気を感じなかった。
「聖堂女の姿とは……。神の信者でありながら男を愛する俺への当てつけか?」
「よし、よくやったマリカ」
さして気にしていない様子で言うアザリムと親指を立てているシファーに彼女はぶんぶんと首を振っている。
「ち、違います。肩や喉を隠して一目ではナシムとわからないような服を、と思ったらこのような姿に……」
イルムと宰相、侍従長はなるほどといった風に頷きあっていた。
「へ、変じゃない?」
まだ鏡を見ていないナシムがぺたぺたと自分の肩やら腹やら胸やらを触っている。
化粧によってばさばさに強調された睫毛を触ろうとしてマリカに止められた。
「む」
ナシムの胸が膨らんでいるのに気がついたアザリムの手が伸びる。
「…………」
「…………」
「硬いな。なにが入っているんだ」
さも当然のようにそれを揉む王子に何人かは呆れを隠せないでいた。
「……ぼくだからいいけれど、女性にそんなことしちゃだめだよ。アザリム」
これにはナシムも流石に一言申さずにはいられなかったようである。
たっぷりとした黒い服で目立ってはいなかったが、アザリムに掴まれているそれは存外大きい。
マリカの耳元に白い手を当てて口を寄せたシファーはまた余計なことを言うのである。
「なぁ。俺は女心ってやつがよくわからないけど、好きな男を自分より巨乳にして悲しくならないのか?」
「ほっといてよ!ハラルが落ちないように布でぐるぐる巻きにしたらそうなっちゃったのよ!」
胸を腕で隠したマリカに宰相とイルムが同情するような視線を送っている。
「ああ、ハラルを……」
「せめてパルの実にしておけば……」
何気に酷いことを言う連中であった。
「シ、シファー!女性にそういうこといっちゃいけないよ。む、胸をじろじろ見たりするのは失礼だと思う」
どうやらこの中で一番の紳士はナシムであったらしい。
「ナ、ナシム……」
マリカは感動している。流石は私が惚れた男、と表情が物語っていた。
「はいはい。役目を終えたらさっさと帰った帰った。夜が明ける前に宮殿を出ないと侍従がわんさかやってくるぞ」
乱暴に押しのけられたマリカの目に険が浮かぶ。
さっきからこのうつくしくも腹立たしい男には言われ放題だ。そろそろ彼女も反撃したいところである。
「そうね。そろそろおいとまさせていただきたいわ。よろしくお願いするわね、美丈夫シファーさま?」
ぽん、と小麦色の細くて女らしい手を法衣において、マリカはうつくしすぎる魔術部隊長ににーっこりと微笑んでやった。
「そうですわよね、殿下」
「ああ。頼んだぞ。シファー」
「……は?」
愕然とするシファーに、一同はそっと頭を下げたのであった。
何名かは愉快そうに、何名かは申し訳なさそうに。そして、宰相は胃を押さえながら。
「それじゃあ、イルムさん。行ってきます」
ゆっくり話せなかったけれど会えてよかったと顔立ちがよく似ている二人は握手を交わした。
「気をつけてね。ナシム」
髪を切りととのえられ、ナシムがいつも着せられている淡い色合いの上品な衣を着せられたイルムは眼鏡がなければどこからどう見てもナシム本人にしか見えない。
「宰相さま。行ってまいります」
「尊いお方の命運はあなたさまが握っているも同じ。ご武運を」
片膝をついて頭を垂れられると少々寂しい気持ちになってしまう。
「マリカ。お化粧ありがとう」
「もう出発するの?眠らなくて大丈夫?」
「うん。街に眠れる場所があるから大丈夫。心配しないで」
「それならこれを持っていって。目の下が黒くなったらそこだけ布で擦ればとれるわ」
マリカは懐から、手のひらにおさまる大きさの小鏡を渡してくれた。
「侍従長さま。ぼく、きっと第二王子殿下を助けだしてきます」
「どうか、よろしくお願いいたします。ナシムさま」
深々と立礼され、ナシムは力強く返事をしたのであった。
「……えっと、その、シファー。が、頑張って……?」
「……ナシムこそ。無理は、するなよ」
無理をしている顔でシファーは言う。色仕掛け戦法が相当いやなのであろう。
「俺が教えた体術、覚えてる?」
「う、うん。その、とりあえず急所を狙えってやつだよね……?」
「そう。難しく考えないで。危険だと思ったらとにかく相手をひるませて逃げるんだ。たとえ……」
第二王子を置いてでも、とシファーは耳打ちする。
彼にとってなによりも大切なのはナシムであり、ナシムよりも優先する命などないのである。
「ぼく、第二王子殿下をおたすけしたい。殿下をつれて必ず帰ってくるよ。約束」
ナシムはそっとシファーの耳飾りに触れた。
シファーが稲妻の魔術を使う魔物と戦うべく出立したあの日、彼はナシムに誓って耳飾りに祈ってくれた。必ず帰ってくると。
今度はナシムが誓い、祈る番。
「シファーに誓って、耳飾りに祈るよ。ぼくは殿下と一緒にここに戻ってくる」
目を閉じて誓いを立てるナシムの手を自身の耳飾りごと握りしめて、シファーは愛おしそうに目を細めたのであった。
「弟を、頼む」
「任せて。アザリム」
シファーの耳飾りから手を離したナシムをアザリムは柔らかく抱き寄せた。
危険な役目をあたえてすまない、とかたい声音が降ってくる。
「いいよ。アザリムの大切な家族だもの」
アザリムの唇がナシムの額に触れ、身体が離される。
「シファー、外の近衛兵の目をそらしてくれ」
そうシファーに頼んだアザリムの声はもう戯けてもふざけても笑ってもいない。
ひたすらに真剣なものだった。
「……わかった。ナシムの覚悟に敬讃を。俺も心を砕こう」
静かな声を放ったシファーが夜空色の髪を揺らして扉の向こうへ消えていく。
ナシムは今、二年ぶりに宮殿の外へ赴こうとしていた。
「いってきます」
現王ムアザムの第二王子、イクリム・ビン・ムアザム・アル・ムディーァシャムス救出の任のために。
* * *
夜風は冷たく、外は暗かった。
燭にてらされていない夜闇はほんとうに久しぶりで、ナシムの目は慣れるまでにとても時間がかかってしまった。
今宵は月なき夜。
闇をてらす仄白い明かりはないが、見上げれば宝石を砕いて散りばめたような満天の星空がそこにはある。
紺の空を流れる星々の大河だ。
(シファーの髪の色だ……)
明り採りのために開けられた穴から空を見つめ、ナシムは砂埃だらけの掛け布を手に取った。
三年間放置されたそれは繊維がむせてしまっている。
書官であったときにちゃんとこの場所の手入れをしておけばよかったな、とすこし後悔した。
長い裾をたくし上げて屈んだナシムは自身が横になる部分の砂埃を丁寧に取りのぞき、頭の布が乱れないようにそっと寝転がった。
空間の隅で僅かに星の光を反射するものがある。あの位置にあるのは確か香水瓶だ。
薄紅色のそれは、まだ少年だったアザリムが持ち込んだもの。
あの時は大変だった。鼻が壊れるかと思うほどの臭害を思い出して、ナシムはくすりと笑う。
(懐かしいなぁ……)
あの頃のナシムはひどく痩せっぽっちで、シファーはまだ髪が長くなかった。アザリムの身体も大きくはなかったあの頃。
彼らが無邪気に生きていた、少年の頃。
(ああ、そうか。第二王子殿下はあの時のアザリムと同じ年齢なんだ)
気がつけば王都にきてから六年も経ってしまっている。王子兄弟の年の差も六つ。
色々なことが変わってしまうわけだ。
まだ見ぬ弟王子の姿を想像しながらナシムはむせた掛け布に身をくるんで目を閉じた。
病におかされ、死を待つ身だと宣告された憐れな王子。
偶然にも兄と同じ齢で攫われてしまった不運な少年。
その御身の無事を切に願って。
あたたかな寝台に慣れてしまったナシムの身体には夜の寒さが身にしみた。
身を横たえた床は硬くて、とても冷たい。
けれど、とてもとても懐かしくて心はあたたかかった。
* * *
太陽が昇るとともに目覚め、マリカにもらった小鏡で身だしなみを整えたナシム。
彼は侍従長が持たせてくれた干し果物の入った角パンを噛みしめて食べ、思い出の香水をひと吹きして懐かしい住処をあとにした。
神の教えを説く女の姿をしたナシムに信仰深い民が何人か声をかけてくると、ナシムは困ってしまった。声を出しては男だと気付かれてしまうのではないかと思われたからだ。
とりあえず食事をする前のように胸に拳をあてて頭をたれてみる。
すると信者たちも同じように神に祈りを捧げて黙り込んだので、ナシムはほっとした。対応としては間違っていなかったようである。
(あ、ご寄付……。お金を持ってこれればよかったな)
書官であった頃はたまに街に赴ける機会があれば聖堂院に褒賞を寄付していたナシム。
彼は物欲がなく、食事は金を払わなくても城でまかなわれたので使い途がなかったのだ。
かつての自分たちのように飢えに苦しむ孤児たちが救われるといいなとナシムは思う。イズスの街にいるツェリたちは元気だろうか。
(宮殿に帰ったらぼくのお金を寄付してもらえるように頼んでみようっと)
宰相に教えられた路をナシムは黒い裾を風にはためかせながら歩く。
王都の南東。そこにカルゼブの屋敷があるのだ。
宴は昼には始まっていて三日三晩続けられるという。
参加資格は不明。
貴族や官吏だけかと思いきや、道行く者でも招かれるときがあるらしい。
見た目の問題ではないかというのがシファーの推測であった。
マリカはよく頑張ってくれた。小鏡で確認したナシムの顔は愛らしい女性のように見える。
睫毛は黒々として長く、大きさを増した黒曜石の目は緊張を宿して微かに光っていた。小麦色の頬はほんのりと薄紅色になっていて、くりくりとした目と相俟ってすこしばかり幼い印象を与えている。パンを食べた時にはげてしまった口紅はどうしようもなかったので、指でなじませておいた。
香水の甘い香りをまとったナシムはどこからどう見ても女性だ。我ながらちょっと可愛いのではと思わないでもない。
残る問題は声である。
ナシムは道行く人が途切れたときに小声で女性らしい声を意識して出してみた。
気持ちが悪かった。
(で、できるだけ喋らないようにしよう……)
そう心に決めたナシムの眼前に見えたのは贅を尽くした少々悪趣味な屋敷。
赤と金、それに宝石と思われるぎらつきで彩られたその建物はナシムが今まで見てきた建造物と随分趣きが違っていた。外つ国の様式であろうか。
朱塗りの大きな門扉はこの国の手のかかった建造物に多い幾何学文様がない。
門番は一人。見るからに怠惰そうな男だ。
眠そうに欠伸をしている。
貴族と思われる見るからに金持ちそうな男たちをちらっと一瞥しただけで簡単に門を通している有様だ。周囲を警戒している様子もない。
男女混合の集団の後ろにくっついていくと、それはもうあっさり入れてしまった。
拍子抜けもいいところである。
攫われた第二王子は本当にここにいるのだろうか。警備もなってないこんな場所に。
悪者というのはもっとずる賢くて策略をめぐらせるものではないのだろうかと、冒険物語を好んで読んだナシムは思う。
(第二王子殿下のご病気を治すためにカルゼブさまがなにかしてくれているとか?それなら疚しいことなんてないし……)
なにより家族だものね。叔父さんだもの。とのほほんとした思考をするナシム。
この場にシファーがいたならば即座に否定されるであろう。甥を暗々のうちに拐かす時点で充分に疚しいのだ。
いかにも贅の限りを尽くしました、といわんばかりの廊下を周りの人々に紛れて歩きながらナシムは周囲をつぶさに観察した。
宮殿にも金がふんだんに使われていたが、こんなにも嫌味たらしく思ったことはない。なぜカルゼブの屋敷はこんなにも胸がむかむかとしてくるのだろう。
ごてごてしい煌めきを放つ鳥を象った置物を眺めるふりをして、ナシムは立ち止まった。
人がいなくなった頃を見計らい通路を逸れていく。
カルゼブがイクリム第二王子を攫った理由は解らないが、きっと彼は奥にいる。そうナシムは考えていた。
なぜなら物語の中の囚われ人はいつも奥まった場所にいたからである。龍に囚われた姫は塔のてっぺんに、化け亀に攫われし姫は城の最奥に。残念ながら王子が攫われた物語は読んだことがなかったが。
(アザリムは自力で逃げてきたしなぁ……)
壁に張り付いて、ナシムは角の向こうの気配を探った。化粧で濃くなった睫毛がばさり、と揺れる。
孤児だった頃に身体に染み込んだ生きるための術を呼び起こす。
息を殺せ。足音を立てるな。
目を閉じてそう念じながら息を細く吐くと、ナシムの身体をぴりぴりとした緊張感が覆った。
彼の本能はあの頃の動きを忘れていなかった。履物を脱ぎ、ハラルで重たい胸の中に入れると足の指先を曲げ、音を立てずに歩いていく。
気配を感じれば、物陰へ。
この屋敷は隠れる場所に困らなかった。随所随所に大きな像が置かれているのだ。もちろん、ぎらぎらと宝石が散りばめられたものである。
すっかり昔の感覚を取り戻したナシムは、徐々に速度を上げていった。
奥へ。奥へ。
手摺に金と紅玉があしらわれた階段を足音を立てぬまま跳ぶように上がる。
裾をたくし上げて裸足で駆けるナシムの瞳は煌めいてみえた。
五感が研ぎ澄まされていくようであった。『きっと、ぼくにはできる。殿下を見つけられる』とどこからともなく自信が湧き上がってくる。
角で身を忍ばせ、召使いと思われる女がいなくなるのを待ってから、いくつも扉が並ぶ廊下を走り出したその時であった。
「俺の好みがおらんっ!!」
突如響いた男のがなり声にナシムの心臓が大きく跳ねた。
声を出してしまいそうになった口を慌てて塞ぎ、踵を返す。こんな時に限って像がない。
早く角まで戻らなければ。
「まぁそう憤慨なさるな。下に集まった者共から好きなものを選んできたらよいであろう?」
「先に見てきたわ!俺は穢れなき乙女の酌でしか酒を飲みとうない!どいつも擦れた使い古しの匂いしかせんなんだ!」
ナシムの背後で両開きの扉が開く。
喚く男たちが廊下に出てくる既のところで階段まで逃げてきたナシムであったが、彼は冷や汗を流して化粧に彩られた表情を強張らせていた。
(ど、どどどどうしよう……!)
階段の下から人の気配がする。とんとんと上がってくる足音もだ。
身を隠せそうなものはなかった。見つかってしまうのは時間の問題だ。
ナシムは覚悟を決めて不自然に膨らんだ懐から靴を取り出すと素早く履いて、弛んだ衣服を整えた。
今のナシムは女だ。そして、神の教えを人々に知らせる聖堂女。
強く自分にそう暗示する。
そうして、ここはどこかしらー、迷っちゃったわー、といった雰囲気を出しながらきょろきょろとあたりを見回してその時を待った。
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