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2話 赤毛の少年 前編
その日、街はどこかいつもと違っていた。
なにが、と聞かれてもうまく答えられないくらい感覚的なものだったが、子供たちはこの感覚を頼りに今日までを生き抜いてきたのだから、直感を無下にはしない。
「なんだろう……。なんだと思う?シファー」
夕暮れ時、暗くなり始めた路地裏でナシムはシファーの後ろにぴったりとくっついて歩いていた。その声は潜められた小さなものだったが、シファーはしっ、と口元に指を当てて諌める。顔には勿論、指先に至るまで隙間なく泥が塗られていた。
街角の陰から辺りの様子を窺っていたシファーが慌てたように踵を返す。
ナシムとともに少し離れた街壁の綻びに身を滑り込ませると、遠くからバタバタと足音が聞こえた。街壁の中を慎重に移動して、小さな亀裂から外を窺い見る。ぼんやりと、松明の灯りが移動しているのがみえた。
夜の帳が降り始めたばかりの路地に響く怒号。
どこだ、探せ、逃すな、と聞こえてくる大人の男の声に、少年たちの身体が一瞬にして強張った。
(人攫いだ……!!)
吐息の悲鳴が漏れ出そうになる口を互いの手で塞ぎあって、ナシムとシファーは息を止めた。
松明の灯りが見えなくなり、怒号が聞こえるか聞こえないかというくらいまで遠かったとき、やっと二人は凝った息を吐き出した。
「逃げよう」
シファーの、それはもう小さく呟かれた声に、ナシムは首が捥げそうなほどに激しく縦に振る。
出入り口の綻びの付近を注意深く観察し、土壁から出た。
シファーが記憶を頼りに先導して、ナシムが後方を警戒しながら後に続く。できる限り壁の中を歩くようにした。大きな亀裂は避け、子供がぎりぎり通れるものだけを選んで。
曲がり角では何度も何度も耳を欹てて、辺りを見渡し、ひとかけらの音も立てないようにつま先を立てて通る。
時間をかけてじわじわと、遠ざかって行った。
いくつめか分からない街壁の亀裂にシファーがナシムを押し込む。
すぐに自身も中に身を滑らせようとして。
「ぃッ……!?」
短く、音の伴っていないナシムの悲鳴に慌てて亀裂に入った。
見慣れた小麦色の細い手首を見つけ、すぐに掴んでナシムを後ろ手に庇う。
ナシムが無事であることに心から安堵して、シファーは眼前の緑色の服を着た人間を睨みつけた。
その人は黄色の虹彩を持つ目をこれでもかとばかりに開いて、固まっていた。僅かな月明かりで見えた頭髪は赤く、短めに切りそろえられている。拾ってきたほとんど切れないナイフで乱雑に髪を切っているナシムたちと違い、明らかに育ちの良さそうな出で立ちの子供だ。
「今なにか聞こえなかったか?」
ずっと遠くに居ると思っていた大人の声が聞こえて、ナシムとシファーの肩が大袈裟なほどに跳ねた。
だが驚くさまを見せたのはそれだけで、たくましく生き抜いてきた孤児たちの行動はとても早かった。未だ硬直したままの赤毛の子供を二人掛かりで伏せさせ、自分たちも亀裂から距離をとって屈み込む。そして耳を澄ませる。
話し声はもう聞こえなかった。けれど小さくパチッと音が一度鳴ったのを彼らは聞き逃さない。大人の持つ松明の木が炙られて爆ぜた音だ。
人攫いは、近くにいる。
早鐘を打つ鼓動を必死で宥めながら、孤児たちは息を殺した。
暗闇に溶け込むように。
自らも陰そのものと成るかのように。
壁に張り付くように忍ぶ二人を見て、正気を取り戻した赤毛の子供も漏れ入る月の光からその手を隠した。
ざり、ざり、と砂が靴底で擦れる足音が近づき、子供達の緊張感が一気に高まる。ナシムは思わず生唾を飲み込みそうになって──我慢した。
入ってきた壁の亀裂から、白み掛かった月明かりとは違うぼんやりとした橙色の明かりが土壁の中を照らす。足音と進むそれは小さな綻びからも壁の中に入ってきて、闇に隠れる子供たちのすぐそばをゆっくりと舐めていった。
時に足音が止まり、明かりだけが大きく揺れる。立ち止まって周囲を照らして見回っているらしい。
早く行ってしまえと思う子供たちの心とは裏腹に、人攫いは時間をかけて路地を進んでいった。
やがて松明の明かりが見えなくなり、足音が遠ざかって聞こえなくなっても、彼らはすぐには動かなかった。
充分過ぎるほど時間が経ってから、シファーが細く細く息を吐くのを合図に立ち上がる。暗闇の中を足音を立てないようにそっとにじり歩いて寄り合い、ナシムがほとんど吐息のような声でごめん、と謝った。
「ナシムは悪くない」
シファーもナシムの耳元まで口を寄せて、吐息で言った。
それから伏せたままの少年の傍に屈み込んで、立ち上がることができるか尋ねた。
赤毛の少年はその言葉に頷き、暗闇の中では見えていないかもしれないことに気付くと短く肯定の言葉を紡ぐ。突如現れた二人の真似をして、ほとんど吐息の声で。
衣摺れの音すら立てないようにとゆっくりゆっくり立ち上がる様子を、ナシムたちは慌てさせることなく見守る。
まだ近くに人攫いの仲間がいるかもしれないので油断は禁物だ。用心し過ぎるに越したことはない。
赤毛の少年がすぐにナシムたちの行動の意を解してくれたことは、彼らにとって非常にありがたかった。
「この先に隠れ家がある。静かに、ついてきて」
少年に含み聞かせるように言った後、確認するように眼差しを向けてくるシファーに、ナシムは僅かな月明かりに顔を照らさせながら大きく頷く。
綺麗に整えられた頭髪。暗闇の中でも分かる上質そうな衣服。砂埃の舞う路地の、それも土壁の中というあまりにも不釣り合いな場所に少年がいた理由は考えるに容易い。きっと人攫いに追われていたのは彼だろう。この辺りでは見たことのない出で立ちであることから、どこかから連れてこられたに違いなかった。
狭い壁の中を、赤毛の少年と出会う前よりもいくらか歩調を緩めてシファーが歩き出す。少年の肩にそっと手を触れて後に続くよう促してから、ナシムも後を追った。
月明かりを頼りに歩く二人の足取りは迷いなく、音一つすることがない。
意を決して少年も足を踏み出したが、どうしても砂を踏む音が鳴ってしまい、孤児たちの肩を驚きに跳ねさせてしまった。
もう一歩踏み出した足が、静寂な空間にざりっと音を立てたとき、泥だらけの顔が振り向いて少年の足元を素早く見遣った。
「靴だ!靴を脱げ!」
吐息のような声ながら早口で言われ、慌てて布で作られた靴を脱ぎ、その足を大地に乗せる。寒々しい夜の空気に晒された地面は冷たく、少年は足裏から体温を奪われて身震いをしたが、己を奮い立たせて歩みを進めた。
冷たさに手に持った靴を思わず握りしめてしまったが、足音が鳴らなくなったことに少年だけでなくシファーとナシムも安堵の息を漏らして、緊張した面持ちを緩めたのだった。
寝床としている拠点に辿り着いた頃には、子供たちの身体はすっかり冷え切ってしまっていた。
注意深く辺りに人影がないことを確認して入り口である綻びをくぐると、ナシムは糸が切れたようにへなへなと座り込んでしまった。顔を上げてみるとシファーもほとんど同様で、壁に凭れて大きく息を吐いているさまは力無い。
「つ、つかれた……」
「本当に……」
そう言う声はどこか明るさがあった。ただ程のいい土壁を選んだだけで綻びから吹き付ける夜風は寒く、とても良い住処とは言えなかったが、彼らにとってはここは住み慣れた我が家。帰ってきたという安心感からか、口元には笑みが浮かんでいる。
「あの……、きみ、大丈夫?」
お世辞にも部屋とも言い難い室内に足を踏み入れたと同時に蹲り、震えていた少年がナシムの声に顔を上げてぎこちなく笑った。
「安心したら、急に寒くなって……。ありがとう。お陰で助かった」
その声は少し低く、ナシムには大人びて聞こえたのだった。
「ここはね、えっと、周りに建物がない分、街の中より寒いんだ……。でも、何もないから滅多に人も来ないよ。だから、安全」
土壁の残骸が点在するだけの場所。月明かりが強く、天井から漏れ入った光が充分に手元や互いの顔を照らしてくれるのもナシムとシファーが気に入った点だった。
月の仄青い光も相俟って、褐色の顔色を尚悪くさせている赤毛の少年に、ナシムは一枚しかない麻布を差し出した。
「これしかないから……、寒くても我慢してね」
「これしか、って……。お前たちはどうするんだ?」
見渡してみても、防寒に使えそうなものはなにひとつない。布らしい布といえば、少年が手にしているそれと、ナシムとシファーが身につけている擦り切れ、ほつれた今にも破れてしまいそうな衣服だけだ。
乾いた泥を纏うシファーの着ているものは肘のあたりまで袖があったが、見るからに生地が薄そうで、ナシムに至っては袖すらなかった。痩せ細った小麦色の腕をそっと摩っている。
「ぼくたちはくっついて眠るから……」
「返す」
ナシムが皆まで言う前に少年は麻布を突き出した。
彼は激しい羞恥を感じていた。
自分の纏っている衣服の半分も布を纏っていない少年が寒くないわけがないのに、一枚しかない掛け布を譲ってくれるという。それに比べて、たっぷりと袖が手首まであり、裾の長い上着まで着て、手に靴まで持っているくせにみっともなく寒さに震える少年。
恥ずかしくないわけがなかった。
「いや、でも……」
突き返す赤毛の少年と渡そうとするナシムの間で麻布が忙しなく往復する。
いつまでも決着がつきそうにない譲り合いに、シファーは溜め息をついて麻布を奪い取り、あっと言う間に二人に巻きつけてしまった。
「二人とも痩せ我慢をするんじゃない。こうすればもっと暖かいから」
布に巻かれた二人が、あまりにも同じような呆然とした表情で見上げてくるものだから、シファーは小さく吹き出してしまう。
「シファーは?」
「お前は?」
挙句の果てに同時に同じことを聞いてくる二人。顔を見合わせてきょとんとしてから、赤毛の少年が土まみれの少年を見て、お前シファーっていうのか。と呟いている。
「俺はいいよ。適当に隅で寝る……うわっ!」
あらかた予想した通りの言葉がシファーの口から紡がれた瞬間、ナシムと少年は麻布を広げて飛びかかった。
「おい、なにす……!布が汚れるだろ!」
「痩せ我慢するんじゃない!だろ?」
シファーを二人で囲い込み、少年が言われた言葉をそのまま返した。
「汚れても、後ではたけば大丈夫だよ」
少年の前で泥土を取るわけにはいかないシファーにナシムが言った。
シファーを中心に、三人が身を寄せて麻布に包まる。すこし布が足りなかったが、互いに触れている面は充分に暖かかった。
「なぁ、シファー。それと……、えっと……」
「ナシムだよ。ぼくは、ナシム」
「そうか、ナシム。俺はアザリム。ありがとうな。二人は恩人だ。俺一人では逃げ切れなかったかもしれない」
麻布に口元を埋もれさせてアザリムが言った。
「あいつら、お前みたいな色毛の子供を狙うんだ。孤児以外も連れて行くのは、知らなかったけど」
シファーの言ったみなしご、という言葉をアザリムは口の中で転がす。
「お前たちは、孤児なのか?」
「そうは見えない?」
不思議なことを言う奴だ、とシファーは思った。
日々をなんとか生き抜いているといった体がありありとわかる、貧しい見た目をしていることをシファーは自覚している。ナシムも同様だろう。
孤児以外の何にみえるというのか。
「俺が知ってる孤児とは随分違っていたから……、ごめん、なんでもないんだ。忘れてくれ」
ぽつぽつと取り留めのないことを話すうちに、二人は気がつけば互いの声しか聞こえないことに気がついた。
シファーが横を見遣れば、ナシムは立てた膝に乗せた腕に顔を沈めるようにして、すーすーと寝息を立てている。
「俺たちもそろそろ寝よう」
一度麻布を解き、ナシムを横たえてやって、一番薄着な彼を挟み込むようにシファーとアザリムも横になった。三人で使うには小さい麻布に収まるよう身を寄せると、とてもとても窮屈だったが、なんとか寝れないこともない。
次第に、二人の瞼も落ちていこうとする。
「なぁ、シファー……」
「……ん」
「ずっと思ってたんだが、お前、すごい匂いがするな……」
「…………蹴り出されたいのか」
碌に行水もできない孤児に、あんまりだとシファーは思った。
いや、ごめん、悪い意味じゃなくて……。と続けられた言葉はそれ以上続くことはなく、静かな寝息が空気を震わせ、溶けていった。
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