3話 赤毛の少年 後編

1/1
425人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ

3話 赤毛の少年 後編

「……ナシム。俺、臭いかな」  明朝、起き出してすぐに泥を塗り直しながら言うシファーにナシムは首を傾げた。  アザリムはナシムの手によってかけ直された麻布に(くる)まってまだ眠っている。 「ぼくは気になったことないよ……?」  近づいて鼻を寄せてみるが、特にいつもと変わった匂いはしなかった。 「昨晩、あいつに匂うって言われた」  表情を硬くしたシファーと、眠りこけているアザリムを見比べて、ナシムは温和そうな顔の眉尻を下げた。 (あぁ……、気にしてるなぁ……)  ナシムの前でしかその姿を見せることはないが、シファーは案外繊細なところがある。少なくともナシムはそう思う。  先日、パルに揶揄された時もそうだった。色毛であるがために、昼間は目立つことができない自分を責めていた。 「えっと……、彼はいつも身綺麗にしてるみたいだし、どうしても……、ぼくたちは臭うのかもしれない。でも、ぼくはシファーが臭いなんて思ったことないよ。本当だよ」  疑うように藍色の瞳を細めるシファーに、ナシムは語尾を強めた。  遠慮していると思われているのだろうか。だとしたら心外だとナシムは思う。  共に生きて幾年も経つ。親の顔すら知らない二人が、寄り添い、支え合って今日に至るまで隠し事ひとつナシムはしたことが無かった。する必要も無かった。 「シファーが匂うならぼくも匂ってると思う……。シファー、ぼくは臭い?」  泥を塗る手を止めて、シファーもナシムの素肌に鼻を寄せた。それから何度か鼻を鳴らして匂いを嗅いだあと、大きく首を横に振る。 「それなら、シファーも臭くない。ね、ぼくを、信じて」  手首をそっと握り込まれ、黒曜石のような目で覗き込まれると、シファーはそれ以上何も言えなかった。  それからナシムも泥を塗り直すのを手伝った。  乾いた泥土を剥がし、小麦色の手のひらにおいて、そこに汲み置いたあまりきれいとはいえない水を垂らし泥に戻して白い肌に塗っていく。アザリムがいつ起きてきてもいいように、少し剥がしては塗ることを繰り返した。  滑らかな白い肌が現れては、瞬く間に泥に隠されていく。  このうつくしい肌を隠すことなく生きることができたらいいのに、とナシムはいつも考えていた。  それから暫くが経ち、顔、腕、足と、全身を塗り終えてもアザリムは起きてはこなかった。 「……そろそろ、起こしたほうが、いいかな?」  別段起きなくてはいけないわけではないが、とても寝苦しそうだ。  顰められた寝顔をそっと窺い見て、ナシムが揺り起こす。  少しの呻き声のあと、あつい、と一言呟かれて、睫毛に縁取られた黄色い瞳がぼんやりと開かれた。  太陽が昇り始めれば、すぐさま気温が上がっていくこの土地では朝とはいえアザリムの今の服装は些か厚着だ。汗ばんだ手で麻布を避け、砂で汚れてしまった鮮やかな緑色の上着を脱いで襟元を寛げると、首筋を汗が一筋流れ落ちていく。 「水……」  ほぼ無意識のように呟かれた言葉に、ナシムは困ったような顔をしてシファーを振り仰いだ。水は土を泥にするための、とても飲めるものではないものが少しあるだけだったからである。  彼らが飲み水を手にするためは川に行かなくてはならない。この街唯一の大きな大きな川に。  上流は生活しやすく工面されており、水を汲むのも容易いときくが、そこは金を持った人々が暮らす集合地帯で見張りの目が厳しい。小汚い孤児など足を踏み入れることもできない。  ナシムやシファーのような者は、整備も何もされていない、流れの急な下流へ行かなくてはならなかった。  足を滑らせた最後、大人は疎か荷馬車をも呑み込んでしまう激流は、子供などいとも簡単に攫っていく。  事実、何人もの孤児たちが水を汲もうとして命を落としていた。 「水は、今切らしてるんだ」  そう言うシファーも、喉が渇いていた。 昨日から何も口に入れていない。  こんな時の為のとっておきが、部屋の隅においてある。 「ナシム。ハラルを食べよう」  ナシムは顔を輝かせた。甘酸っぱくて美味しく、水分が豊富な果実であるハラルはご馳走中のご馳走だ。  手に取ったハラルは皮が萎びて皺々になってしまっていたが、剥いてみると中の薄皮に包まれた実は瑞々しいままだった。  三つに分けて、シファーとアザリムに渡し、薄皮を剥いて口をつける。ず、と小さな音を立てて果汁を吸ったかと思うと、細い首の喉仏が上下に動いた。  心の底から幸せそうにハラルを食べるナシムを、アザリムはじっと見つめる。 「水分も食べ物もこれしかない。そのつもりで、食べてくれ」  アザリムにそう念押しすると、シファーも指先の泥を服で拭って自分のハラルを食べ始めた。果汁を吸って口内を潤し、ほんの少し果実を齧っては何度も何度も噛んで食べる。こうすることで実際の量よりもたくさん食べた気になれるのだった。  アザリムはまだナシムを見るばかりで、ハラルに口をつけようとはしない。 「ハラルは食べたことがあるか?」 「ああ。ある」  食べ方が分からないのかと思ったが、そうではないらしい。  手の中の果物を眺め、やっと、二人と同じように薄皮を剥き始めた。真似をして、甘酸っぱい果汁を飲み、果肉を噛み締めている。 「このハラルは、どこで?」  ぽつりと漏らされたアザリムの問いに、シファーとナシムの食べる手が止まる。暫く沈黙が広がった(のち)、シファーが溜息を吐くように言った。 「盗んだんだよ。果物商から」  今度はアザリムの手が止まる番だった。  だが彼はそれについては何も言わず、ただ一言、そうかとだけ呟いた。  気まずい雰囲気のまま三人がハラルを食べ終わった頃、物が少ない空間の中に土のついた四角いものがあることにアザリムは気がついた。 「本……?お前たち、本が読めるのか?」  読み書きができるものは滅多にいない。貴族や一部の中流階級の嗜みではあったが、この国は平民までもが勉学に勤しめるほど裕福ではなかった。  触っても?と許可を求め、シファーが頷くとアザリムは本を手に取った。柔らかみのある褐色の指が表紙を撫で、頁を捲りだす。 「半分くらいは読めている、と思う。だけど合っているのか自信がない部分がかなり多いかな」  ぼくも。と遠慮がちに小さく手をあげるナシム。  茶色の装丁が施されたその本は、麻布と同じくシファーが夜に出かけて見つけてきた。まだナシムたちが名前を持たない頃のことだ。 「独学か……!すごいな!」  目を丸くして素直に賞賛を口にするアザリムの指が、また一つ頁を捲る。さらり、と紙が擦れる音が鳴った。 「探検記だな。実際の記録なのか、空想のものなのかまでは分からないけど……」 「……読める、の?」 「読める。特別難しい言い回しもないし、読みやすい本だ」  彼自身がしたものと全く同じ問いにアザリムが即答すると、シファーが身を乗り出してアザリムへの距離を一気に詰めた。まだ水気を大いに含んでいるベタベタの泥まみれの顔にぎょっとする。 「教えてくれ!頼む」  この泥だらけの少年は、文字を学ぶことこそが、いつかこの生活から抜け出す糸口になるのではないかと日頃から思っていた。  そうそう読み書きができる民がいない中で、文字を覚えることができたなら、それはきっと武器になるはずだ、と。  本を拾えたまでは良かったが、現実は厳しかった。何しろ仲間たちは誰一人として文字がわからないのである。  ナシムと共に本を眺め、法則性を見つけては推測を重ね、時折入る挿絵を手掛かりに意味を当てはめていくのは、骨の折れる作業であった。 「あ、ああ。いいけど……。どうしてお前はそんな泥だらけなんだ?」 「いろいろあってね」  最後はぶっきらぼうに答えたその声には、暗に『訊かれても答えない』といった意味が含まれていた。  白い肌のことをナシム以外に明かすつもりは毛頭ないのである。 「ああ、やったな、ナシム。いい拾い物をした!」  今朝の落ち込みは何処へやら、喜びをあらわにするシファー。物、というその言葉が指すものは、勿論人であるアザリムのことだ。  首だけで振り向いて笑顔を見せるシファーに対し、ナシムはまた眉尻を下げていた。 「ぼくも文字が知れるのは嬉しい。けど、シファー、明るいうちに水を汲みに行かなきゃ……」  早速……、とばかりに本を覗き込んだシファーの服をナシムが引っ張る。  もう食べるものも何もなくなってしまったので、水だけは体力があるうちに確保しておかなくてはならない。水分を欲してふらふらになった身体であの川に行くのは、命を捨てに行くようなものだからだ。  足元が見えない夜に行くのも無謀極まりないため、シファーもこの時ばかりは昼間に姿を晒すことを余儀なくされる。川辺に誰も居なくなったときが、二人が水を汲める機会なのだった。  最も、そんな危険な場所に赴くのは上流に行くことのできない貧困したものたちだけなので、いつも人がいることは滅多にない。 「そうだな……。アザリム、後で頼めるか?」  快く了承したアザリムが手伝いを申し出たが、不慣れだと危険だ、と言われてしまった。 「わかった。じゃあその間に少し出掛けたいな。俺に店のある場所を教えてくれないか。帰りはちゃんとこの場所が誰にも分からないように気をつけるから」  色毛の子供が今ではほとんど見かけないことを伝え、充分に人目には気をつけるようにとナシムとシファーはしつこい程に何度も言った。シファーもまた色毛であるため、陽の高いうちはあまり目立たないようにしていることも同時に告げる。 「昨日の人攫いはまだお前を探しているに違いない。下手な行動だけは、絶対にするなよ」 「約束する」  二人の孤児はアザリムがどこから来たのかも訊かず、ただただ身を案じてくれている。そのことに。彼は感激を覚えていた。  泥だらけの指が地面に描く簡単な地図を頭に叩き込み、場所場所の注意点も教えてもらうと、水を汲むための道具を手にしたナシムたちと一緒に拠点を出た。  教えられたばかりの道順を歩いて、アザリムは露天商が店を出す街中へ向かう。  打ち捨てられた土壁ばかりだった風景が、徐々に街並みへと変わっていく有様を眺めながら、ほんの少しの果実を嬉しそうに食べていた小麦色の少年に思いを馳せた。  食べ物に飢えたことがなかったアザリムにとっては衝撃的な光景だった。特別に高価でもなんでもないハラルを大切に大切にとっておいて、食べたのは指で摘めるほどだけ。  なんと貧しいのだろう。  アザリムの知る孤児はもっと肉付きが良く、溌剌としていた。オアシスで水遊びをして笑っている様子を何度も見たことがある。  水を汲むのにすら危険が伴うのだという、この街の孤児とは大違いだ。  同じ国であるというのに、こうも違うものなのかと、愕然とした気持ちでアザリムはナシムを見ていたのだった。  シファーの心配をよそに、街は閑散としていた。  ぽつんと一軒だけ離れた場所にある果物商の天幕を見て、確かにこれなら盗みやすそうだとアザリムは思う。  退屈そうに頬杖をついている商人に声を掛けると、気怠げに視線を寄越した。が、アザリムの一目でわかるほど仕立ての良い服を見た途端、すぐに居住まいを正して猫なで声を出したのであった。 「これはこれは、果物をお探しで?お目が高い!うちのパルの実はどこよりよく熟れて甘いと評判なんですよ!」  唾を飛ばしながら早口で捲し立て、手を揉む商人に、アザリムは一瞬たじろぎそうになる。 「ひとつ、いくらだ」 「当店自慢のパルの実は銅貨三枚でふたつ、こっちのどこよりも瑞々しいハラルはひとつ二枚いただいてやす。それから……」  ひとつひとつ価格を説明する商人に、アザリムは懐から銀の硬貨を取り出してみせた。  商魂たくましく商い文句を紡ごうとしていた口が、時を止められたように動かなくなる。間抜けにも口が開いたままの男にそれを渡して、アザリムは言う。 「干し物を多めにそれで買えるだけ……、いや、銅貨十枚分を残した分を買いたい」  商人は手の中の銀貨を見下ろして、アザリムを見、もう一度確かめるように銀貨を見た。  一枚で銅貨百枚分の価値がある銀貨が、間違いなく自分の手にあると遅れて実感したらしい。慌てて懐に仕舞ったかと思うと何故かきょろきょろと辺りを見回した。 「あのう、失礼ですがあなた様はお貴族様かなにかで?」 「さる方の従者でな。露天商の食べ物を口にしてみたいとの仰せだ」 「はぁーっ、果物がお好きなお方で?」  頰に艶が浮くほど満面の笑みで果物を見繕う商人の言葉に、アザリムは果汁を吸って堪らなそうに笑んでいたナシムの顔を思い浮かべていた。 「ああ……。それはもう。特にハラルがお好みでな」  果物を待つ間に銅貨十枚をもらい、他の露店へ行ってその金でパンを買う。  戻ってきたアザリムが腕にパンを抱えているのを見た果物商人が、麻袋をくれた。少年が持てるぎりぎりの量の果物が詰められた大きな麻布の袋も、それも、使い込まれているのが一目でわかるものだった。商人の私物に違いない。 「いいのか?」  とてもありがたかったが、申し訳なさを感じてアザリムが問うと、いいんですよぉ、とはじける笑顔を見せて商人は言った。 「気に入っていただけましたらまた是非うちで!定期的なお屋敷までのお届けも、大量の仕入れも喜んでさせてもらいやす!」  素直に礼を言って帰路へ着く少年を、商魂たくましい男は揉み手をしながら見送った。  そして隙間だらけになった果物台を、満足気に見遣ったのであった。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!