425人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
58話 企み
「お前!そこでなにをしている!」
粗方予想していた通りの言葉であったが、いざ激しい口調で面と向かって言われると肩が跳ねてしまうナシムであった。彼はあまり肝が据わっていない男なのである。
頭に思い浮かべていた台詞を放つべく、心を落ち着けてナシムはひたと男たちを見据えて、口を開いた。
「わわわたくちはっ、か、神の教えを説くべくここにぃっ!」
吃った上に盛大に噛んでしまい、声が裏返る。
ナシムは恥ずかしさのあまり死んでしまいたくなった。
「そ、その、ここに……、神の、教えを……」
「……はあ?」
屋敷の従者か召使いと思われる男も呆れたような顔をしていた。
なにやら残念なものを見るような眼差しを向けられると更に恥ずかしくなってしまって、ナシムは頬紅以上に顔を赤くして俯いてしまう。
「ほお?聖堂女か」
先ほどまで声を荒げていた男がナシムの顎に手をかけ、顔を上げさせた。
「まだ若いな?そのうえ、とても……、初心そうだのう」
うっそりと笑ったその男は口調の割には若かった。
壮年半ばといったところであろうか。
「この者に酌をさせる。ほれ、こっちこい」
手首を強く掴まれ、ナシムはどきりとする。
あわあわとしているうちにあっという間に扉の向こうに連れていかれてしまった。
大きな角卓が設えられたその部屋で椅子に座っている男は四人。ナシムの手を引っ張ってきた男を合わせれば五人である。
中央、一番の上席に座するは赤毛の髪をもち、黄色の瞳をいやらしく濁らせた小太りの男。王弟カルゼブだ。
「ハジュマどの。これまた妙な女を選んで参りましたな」
杯を傾けて中の液体を飲む貴族然とした男がいやみたらしく鼻を鳴らして言った。
その隣には瓶を持って立つ女性がいるのであるが、なにやら目の焦点が定まっていないようにナシムには見えた。
彼女だけではない。
他の二人の貴族の傍に立つ者も、カルゼブに寄りかかるように荒い息をついている男もそうだった。その男が纏うは法衣。城の官吏である魔術師がなぜこんなところにいるのだろう。
「ふん。お前に理解してもらおうとも思わん。女よ、注げ」
ハジュマと呼ばれた男の言う『女』が自分のことであると、ナシムはすぐには気が付けなかった。
濃緑の硝子で作られた瓶を無理やり持たされ、初めて自分に指示されているのだと気付く。
「は、はいっ……!」
またも裏返ってしまった声は多少目を瞑れば女性のように聞こえなくもなかった。
杯にとぷとぷと濃い赤紫の液体を注ぐとあがる、男たちの笑い声。
自分はなにかおかしなことをしたのだろうかとナシムは不安げに瞳を揺らした。
「神の教えを説く女が禁忌を自ら注ぐとは!これは傑作だ!」
堪らないといった体で声をあげて笑い出した貴族の言葉にナシムははっとして自らの手にある瓶を見つめたのであった。
この国の神を信仰する者は酒を禁じられている。聖堂女が葡萄酒を酌するなど、とんでもないことだ。
「こ、これはっ……!知らなくて……!」
卓に瓶を置いて後ずさるナシムの姿に場はまたも笑いの渦に包まれた。
「はっはっは!これは良い余興。どれ、儂もちょっとばかり虐めてみたくなったぞ」
醜い王弟が魔術師から葡萄酒の瓶を掠めとる。
そしてそれに直接口をつけて頬が膨らむほどに酒を含むと、ひどく下品な笑みを浮かべてナシムを一瞥した。
「んっんんっ……!」
目の焦点が合っていない魔術師の頭を抱き寄せ、その唇にむしゃぶりつくカルゼブ。
その醜い二重顎と若い魔術師の細い顎を紫の筋がつたい、彼らの衣服を汚している。
「むはぁ……。むふぅ……」
これ見よがしに汚らしい舌を突き出して魔術師の唇を舐めまわすその姿はおぞましいとしか言いようがなかった。
「うっ……!」
思わず口元を押さえて一歩下がる聖堂女の姿をしたナシムを横目で見遣るカルゼブは、実に愉快そうだ。
調子付いたのか、魔術師の口に舌をねじ込んでむやみに音を立てている。
人の口付けを見るのは初めてであったナシムは、せり上がってくる胃液を必死になって飲みくだしながら堪らず視線を床に落としていた。
(うわぁ……。アザリムに口付けされているときのぼくってあんななのかなぁ……)
口付けがあんなに気色の悪いものだったなんて。間違っても人に見られないようにしなくちゃ、と硬く決心するナシムであったが、醜男と色男を一緒にしているのがすでに間違いであることにまずは気がつくべきである。
ナシムを初心な処女だとすっかり思い込んでいるハジュマはえらくにやつきながら杯を傾けていた。
下品な笑みを浮かべる男たちに酌をさせられている男女の様子は相変わらずおかしなままで、目の前の出来事もいまいち理解できていないように見える。酒を注ぐ手つきもひどく危なっかしい。
「聖堂女に衆道を見せつけるとは。流石はカルゼブさまじゃ。未来の王はやることが違いますなぁ」
(えっ……?)
ナシムは耳を疑った。
若く艶やかな格好をしている女に酌をさせている老年の貴族。彼は今、カルゼブを未来の王と呼んだのか。
次代の国王はアザリムだ。彼がいつか崩御する時は、彼の子供が王となるであろう。
カルゼブに王位が回ってくることはまずない。
「これこれ。聖堂女の前で何を申すか。下人。神に仕えし働き者に菓子を与えよ。すっかり怯えてしまっておるではないか。可哀想に」
おぞましい光景を見せつけてくれた張本人がいけしゃあしゃあと何を言うのか。
カルゼブの指示を受けた召使いは即座に焼き菓子を持ってきて、恭しくナシムに差し出してきた。つるりと表面が光るそれはあめ色をしていてとても美味しそうだ。
「外つ国の菓子で、月を冠する名前がついておるのだ。儂は月が好きなのでなぁ。ささ、賞味してみられよ」
しかし、何故であろう。
カルゼブのいやらしい視線を受けて言葉を聞くと、とても怪しいものに感じられて仕方がなかった。
(なんか、食べたくないなぁ……)
そう思うのだが、状況はそれを許してくれそうにもない。
カルゼブが、男たちが、ナシムを見ている。
食べないわけにはいかなさそうだった。
手のひらより小さいその菓子を両手で摘んで口に寄せてみる。
(……変なにおい)
イズスの街で飢えに苦しんでいた頃に食んだ河べりの草のような匂いだ。
ほんの僅かにだけ齧ってみると、やたらと甘い菓子であった。
後宮で極上の食事を摂るようになって二年。すっかり肥えたナシムの舌はその甘さの中に青臭い苦味がある事に気がついていた。
本能が訴えている。
これはよくないものだ。食べてはいけないものだ、と。
ナシムは齧りついて食べるふりをしてはこっそりと袖の中に菓子を吐き落とした。袖のたっぷりとした衣服を選んでくれたマリカには感謝しかない。
男たちはナシムが菓子を食べ終わるのを満足そうに見たあと、談笑を再開させた。
ナシムに酌をさせたい男が空になった杯を向けてきたが、ぶんぶんと顔をふって拒絶の意を見せつける。
本物の聖堂女であれば、それが酒であると知っていて注いだりは絶対にしない。そう思ったからである。
「往生際の悪い女だのぅ」
「わからんやつめ。この頑なさが良いのではないか」
酌を断られたというのに、ハジュマは心底楽しそうであった。
口に残る妙な苦味が気持ち悪くてナシムは仕方がなかった。
洗口がしたい。口内に溜まるつばを飲み込むのも嫌であったが、吐き出すわけにもいかないので止むを得ず喉の奥に唾液をおくる。
カルゼブたちはもうナシムを見てはいない。
下劣に笑いながら下品な話で盛り上がり、葡萄酒の入った杯を傾けているだけだった。
袖の中の菓子が落ちてこないように胸の前で手を組んでいたナシムは、睫毛をばさばさと揺らして瞬きをする。
(あれ、いま、なんだか……)
一瞬世界が揺れたように感じられて、彼は心の中で首を傾げた。
ほわほわと緊張感が勝手にほぐれていく。
ほんのりと心地よい気持ちがやってきて、組んでいた手が下に落ちようとするのだ。
袖口の布を握って菓子が落ちてこないように気を付けながら腕を下ろす。
ふー、と唇から吐息を細く漏らすと、男たちが目線だけでこちらを窺っているのがわかった。
ナシムはぴんときて、黒曜石の瞳を半目にしてゆっくりと身体を揺らしてみる。
酒の瓶を持たされている彼らの真似をしているのだ。
きっと先ほどの菓子にはなにかが混ぜられていて、それを食べると彼らのようになってしまうのであろう。
「まったく、先のは失言であるぞ。アドワヴ侯。謀反が公になってはアザリムを討ち取ることが叶わなくなるではないか」
ぽちゃぽちゃした唇を尖らせた王弟の言葉に、ナシムは目を見開きそうになって慌てて堪えたのであった。
謀反。
アザリムを討つ。
彼らはアザリムを殺そうとしているのか。
ナシムの頭の中で先程の『未来の王』という言葉が急速に紐づけられていく。
賢いナシムは合点がいった。
王位継承権は現王の息子であるアザリムが第一となる。第二王子イクリムはその次。
もしも、彼らが病に臥せったムアザム王よりも先に亡くなることがあれば継承権はどこへいくのか。
答えは現王の弟。カルゼブのもとだ。
(なんて、なんてことを……!なんて恐ろしい事を……!)
とすれば、第二王子の病を治すためにカルゼブが尽力をしてくれているわけはない。
王弟が第二王子を攫ったのは、彼を亡き者にするために違いない。
早く彼を助け出さなくては。未だ無事であることをナシムは心の底から祈っていた。
「なぁに、ちんけな小娘一人どうにでもなりましょうぞ。あまり賢そうにも見えませぬしなぁ」
「ふむ、たしかに少々馬鹿面かもしれませんな」
(ば、馬鹿面……)
半目で身体を揺らすナシムは内心で落ち込んだ。そんなに間の抜けた顔をしているのであろうか。
得体のしれない菓子で酩酊したふりをしているからだと思いたい。
(いやいや!そんなこと考えてる場合じゃないよぼく!な、なんとか、なんとかしなきゃあ……!)
すぐにでも第二王子を探しに行きたいナシムであるが、そうはいかなかった。
幸いにもカルゼブたちはナシムが正気を保っていることに気がついていない。
今は彼らの腹の中を聞いておく絶好の機会であるのだ。
「して?第一王子をどうやって討ち取るのですかカルゼブさま」
「アザリム殿下はそれはそれは武術に長けておると聞き及びますぞ。彼に勝てる者などおりますのやら」
そうだそうだ!とナシムは心の中でカルゼブに舌を出した。
アザリムは強いのだ。
彼と戦って勝てる者などそういてたまるものか。
「侍従長殿も厄介ですぞ。かの者は聡い。間者を送り込んでも殿下の近くには置こうとはしないでしょう」
聞き覚えのある老いた声にナシムはぎくりとした。
奥の扉から入ってきた者に目線を向けることはできないが、誰であるかはすぐに解る。
「おお魔術師長。おぬしも飲まれるか?」
「結構でございます。カルゼブさま」
カルゼブと会うのはアザリムの成人祭の日以来であったのでよかったが、魔術師長はそうではない。
官吏として勤める間に何度も顔を合わせる機会があった。面と向かって話をしたわけではないが、ナシムの顔を覚えているだろう。
化粧をして女の姿をしてはいるが、顔立ちはナシムのままだ。
どうか気付かれませんように、とナシムは背中に脂汗を滲ませながら微かにだけ顔を逸らした。
「まぁまぁそう慌てるでない。まずは第二王子が我らの手中にあることを喜ぼうではないか!アザリムはまだ気がついておらんのだろう?」
「その通りにございます。第二王子殿下の寝台に入れておいた偶人に向けて、気遣わしげに話しかけていたと侍従から報告があがっておりまする」
可笑しくて堪らないといった風体でカルゼブは小太りの身体を揺らしている。
馬鹿な奴め!とアザリムを笑い飛ばされて、ナシムはふつふつと腹の奥で熱いものが煮えるのを感じていた。
(馬鹿はそっちだよ!アザリムはちゃんとそれが第二王子殿下じゃないことに気付いてた!彼を馬鹿にするな!)
ナシムは悔しかった。お前の魂胆なんてお見通しだぞ!と声を大にして叫びたかった。
彼はそれをぐっと堪え、なにも知らない正気を失った聖堂女を演じる。
「アザリムを失脚させるのは容易いのだよぉ、皆の者。兄上はあやつに爆弾を抱えさせてくれたからのぅ」
芝居がかった物言いでにんまりと笑うカルゼブ。
「後宮入りした男の話ですかな?」
「そうだとも。後宮でのうのうと暮らす男を引きずり出して『王族が神の意に反して男を愛するなど、王の器ではない!』と民に見せしめてやればあやつを王とは誰も認めぬだろう?しかしなぁ、儂はこの手をできれば使いたくない。これは最終手段であるぞ」
その理由はナシムにも簡単に解った。
カルゼブは男色家だとシファーが言っていた。ナシムもこの目でしかと見たので間違いない。
アザリムを男を愛したことで糾弾すれば、カルゼブも同じ目にあうのだ。
男色を封印するか、隠し通して生きていかなくてはならなくなるのは目に見えている。
「あやつには男を愛した王族としての前例になってもらいたい。それが民に受け入れられれば儂は大手を振って美丈夫たちを侍らせることができるというもの。むふふ」
だから慌てて殺すことはないのだよぉと鼻の下を伸ばす王弟の顔は一層気色が悪かった。
最初のコメントを投稿しよう!