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1話 子供たち
子供たちは、皆一様に真剣な顔をしていた。
頬は痩け、申し訳程度に身につけられた麻の衣服は擦り切れて。そこから伸びる骨の浮き出た手足は泥や砂で汚れている。熱い大地をふむ足は素足のままだ。
見るからに見窄らしい彼らのその視線は、眼前の簡素な露店の店先にたたずむ少女に注がれていた。
「お、おねがい……。すこしで、いい。たべものください……。おねがい、おねがい」
痩せ細って砂まみれの手を掲げ、懇願する少女。伸び放題の黒い髪は砂が絡み、褐色の肌をした小さな顔の半分以上を覆ってしまっている。
対する商人の表情は、目にみえて侮蔑の念で彩られていた。
「馬鹿言うんじゃねぇ。うちの果物は商品だ商品。わかるか?金のないやつにはやれねぇよ」
だからあっちへいけと犬を追い払うように手先を振る商人に、少女はたどたどしい言葉で尚も懇願する。
「おかね、ない。おねがい……。おねがい……」
ついには足元に縋りつく小汚い子供。それに煩わしさを隠しもせず、商人は振り払おうとした。
少女も負けじと、おねがい、くださいと繰り返す。そして、たっぷりとした下衣にしがみついた時。
ついに彼らは動き出した。
街壁の陰から小柄な影が二つ、走りだす。
道端に転がる、ひび割れ欠けて色褪せた大型の壺の陰からは、体制を低くしたままの少年がとびだした。そして彼らは足音ひとつ立てることなく、あっと言う間に露店の天幕のもとへ辿り着いてしまうのだ。
商人はしぶとく食い下がる少女を追い払うことに夢中で、自分の店に三人もの影が忍び寄ったことに気がつかない。
「ええい!離せ!汚い孤児が!」
「おねがい、おねがい、ください、ください……!」
子供達は足を一度も止める事なく果物の乗った台の横を駆け抜けた。かと思うと、一人は赤い実をふたつ手早くつかみ、一人は黄色の果実を両手にひとつずつ持って脇にも赤い実を抱え、最後の一人は干した果物を両手にひと掴みした。
そして来た時と同様に音を立てぬまま街壁の陰へと消えていった。
「お前のような乞食に恵んでやるもんはねぇ!消えろ!」
「あっ……!」
無情にも、少女がしがみついている足を商人が振り抜いた。骨の浮き出た腕からみたままの軽い身体はいとも簡単に投げだされて大地に転がり、ぎゃっ、と憐れな声が喉から漏れでるのだった。
そのさまを一瞥して鼻を鳴らした商人は、くるりと踵を返して大股で天幕の張られた果物の並ぶ台の向こうへ回り込んでいってしまう。
椅子の代わりなのだろう樽に腰掛けると、地面から起き上がろうとする少女を睨みつけてはいたが、もう声をかけることはなかった。
少女は一度目元のあたりを乱暴に拭い、すん、と鼻を啜りながら歩き出す。
その小さな背中が見えなくなると、商人はやっと目許の険を和らげて自らの商品に目を向けたのだった。
「今日のパルの実はいい熟れ具合だ……。まったく。どうせ匂いにつられて来るなら金持ったどこぞの婦人でも来てくれりゃあいいもんを……」
そう言って台の上に積まれた赤い実の中から、小さめで比較的形の悪いものを選び、齧りついた。
* * *
「おい、こっちだ」
狭く、入り組んだ路地。
粘度のある土に藁と家畜の糞を混ぜこみ固めて作られた壁は脆く、最早人の手が入っていない打ち捨てられた家屋などはどこらじゅうに亀裂や綻びが出来ている。
その一つから顔だけを出して、盗みを働いた子供たちよりも一層泥まみれの子供が声をひそめて呼んでいた。
子供達は各々で後ろや周囲を見遣り、人が居ないことを確認したのち、綻びを広げて作られた穴に入っていった。子供一人がぎりぎり通ることができるそれを、崩さないように慎重に。かつ素早く通り抜ける。
中は崩れかけた小さな部屋になっていて、天井や壁の隙間からの光に淡く照らされている。この街の孤児たちは、街のあちこちにあるこのような場所を見つけては寝ぐらや拠点として暮らしているのだった。
「一つの手には果物一つだけといったばずだろ」
泥まみれの子供が眦を吊り上げて言い放った。すこし尖ったその声の向かう先は、両手に黄色の果実を握りしめて、小脇に赤いパルの実を抱えた少年である。
皆と同様に痩せてはいるが、溌剌とした表情がこんがりとした褐色の肌にのって元気よくみえた。
「だってさぁ、すげーいいニオイがするんだもん。バレてないみたいだし……、いいじゃんか」
少年独特の高い声も明るい。
「だめだだめだ。落として見つかったらどうする。お前が逃げられたとしても、囮になっているツェリが酷い目に会うんだぞ」
そっかぁ、と納得しているのかしていないのか分からない返事を寄越しながら、少年パルは手に持った果実を地面に置いた。
それから脇に抱えていた自分と同じ名前の赤い果実を、ところどころ擦れて破れている衣服に押しつけるように拭いたかと思うと、大きな口を開けてかぶりつき……。
「こら」
かけたところで泥だらけの手に掠め取られてしまった。
「ツェリが戻ってくるまではだめだ。ちゃんと分けよう」
「ああー!パルの実に泥がつくだろ!」
返せよぉ!と手を伸ばすパル。果物を持った泥だらけの手を遠くにやる少年。
「まぁまぁ。二人とも落ち着いて」
「そうだよぉ……」
パルに続いて戦利品である果物を地面に置いた二人が困った顔をして宥めた。
一人は癖の強い黒髪をボサボサに暴れさせ、他の子供より背が高いために窮屈そうに中腰にしている。もう一人はどこかおどおどとした小柄な少年で、見るからに温和そうな顔にいまは困った表情を浮かべていた。
痩せ細った孤児とはいえ、高さもなくお世辞にも広いとは言い難い空間に子供が四人もいると、窮屈なことこの上ない。地面には果物が置かれているので尚更だ。
「シファーはいいよな。遠くから見てるだけでおこぼれが貰えるんだからさ」
拗ねたように口を尖らせて言うパルに、温和そうな少年は慌てたように二人の間へにじり寄って割って入っていった。
狭い部屋なのでどの少年にもぶつかってしまう。その度に律儀にごめんと口にしながら。
「そっ、そんなこと言わないでよ。シファーの髪はその……、お陽さまの下じゃ黒く見えないから……。あっ、ごめんシファー。足踏んだかも」
「わかってる。すまない。シファー、ナシム。パルも本気で言ってるわけじゃないと思う」
癖毛の少年にナシムと呼ばれた温和そうな少年に、大丈夫だと答える泥まみれの少年、シファーの髪は、漏れいる陽の光に照らされて泥汚れの隙間から紺の色を見せていた。
他の子供たちとは違う、青味掛かったその色。
「ちょっと詰めて詰めてー」
突如、少年たちより高い声音が部屋に響き、小さく潜められた声のあとに壁の綻びから黒々とした頭がにゅっと入ってきた。
少年たちがずり寄って空けた場所に座り、顔の半分以上を覆っている髪を掻きあげたのは、商人に食べ物をくれと懇願していた少女である。
「ちょっとあんたたちさあ、声大きいよ。外まで聞こえてる。で、どうしたのジダ。パルが変なこと言った?」
どっしりと構えたようなその口調に先程商人の前で見せたたどたどしさは一切なく、涙を拭っていたかに思えたその目には気弱のきの字もない。むしろ勝気さを窺わせる。
そんな彼女に事の次第を伝える癖毛のジダの声は小さく潜められていた。少女、ツェリの顔にみるみる呆れの色が滲んでくる。
「作戦考えたの、ぜーんぶシファーなのによくもまあ遠くから見てるだけなんて言えたわね。死にかけるまで飢えないようになったのはシファーとナシムに出会ってからなの忘れた?」
横でジダが癖毛を揺らしながら何度も頷いている。ツェリに小突かれてパルは居心地が悪そうだ。
「ジダの言う通り、本気で言ったんじゃないんだ。でも……、ごめん。シファー」
「いや、気にしてないさ。それよりツェリ、蹴られたんじゃないか?怪我は?」
シファーの言葉に三人の黒髪少年たちは勢いよくツェリを振りかえった。
果物を手にしたあと、あっと言う間に退散した彼らは、少女と商人のやりとりを最後まで知らない。商人の足にしがみつき、振り抜かれたことで宙を舞ったことなど知る由もない。
「ほ、ほんとなのか!?おれが、欲をかいてパルの実持ってきちゃったから?」
目を白黒させて血の気を引かせるパルに対して、皆の視線の先の少女はけろっとした顔で落ちてきた前髪を搔きあげている。
「蹴られてなんかないわ。フリよ。フリ。あそこから離れるいいきっかけになったでしょ」
こう、足が動いた時に跳んでー、と悠長に説明までするツェリを見て、あの場を唯一目撃したシファーは瞠目した。
「ツェリの演技は街一番だと思う」
「自分でもそう思ってる」
演技派のツェリに商人の気を引かせ、ナシム、パル、ジダの三人が盗み、何か異変があれば見張り役のシファーが作戦の中止を伝える。シファー自身の采配だったが、思った以上にツェリは適任だったらしい。
「なぁなぁ、ツェリも来たしさ、もういいだろっ?分けよう?パルの実は一つおれにくれよ!」
「そうだね」
「あんたホント、パルの実好きよね」
その甘さを想像してか、ごくりと唾を飲み込んだパルの目はもうその赤い実に向いている。その様子に子供たちはくすくすと笑い、シファーが地面に置かれた果実を分け始めた。
パルの実三つと黄色い果実ハラル二つに干したパルの実ひと掴み。ケイルナッツがひと掴み。
「すごい、ケイルナッツ!ナシム、よく取ってきたな!」
シファーに褒められて照れ臭そうに小麦色の頬を掻くナシム。
ケイルナッツはケイルという大きな丸型の木の実の種子を乾かしたもので、甘くはないが噛めば噛むほど味が出て、しかも腹に溜まりやすく栄養もある彼らにとって夢のような食べ物だ。乾物は生の果物と違い日持ちするので、いざという時のためにとっておけるのもいい。
「ぼくは手が小さいからあまり掴んでこれなかったけど……」
「いや、それでいい。乾燥させたものは嵩がないぶん多く取ってしまうと気付かれやすいと思う。これはみんなできっちり分けよう」
食べ物に触れるほんの指先だけ泥を服でぬぐってから、シファーはきれいにケイルナッツを五等分にした。各々が大切に手中に収めたのを確認してから、ひとつひとつが大人の爪ほどの大きさの干したパルの実を数える。七つあった。
「ハラルはナシムと俺にひとつくれないか?パルの実は三つともそっちに渡すから」
ジダが頷き、二つでいい、と短く言って赤い実をパルとツェリの前に一つずつ置いた。それからハラルを手に取る。
待ってました!とばかりに赤い実に飛びついて頬擦りし、今度こそ齧りついたパルを、今度は誰も止めなかった。
「ありがとう」
残されたハラルとパルの実に手を伸ばして礼を言うシファーの隣でナシムも小さく頭を下げていた。
ハラルはこぶしよりふた回りくらい大きい弾力のある果実である。その黄色い皮は苦味があるが、中の果肉はとても瑞々しく、甘さの中に酸味があって後味はすっきりとしている。
喉が渇いたときにとても重宝する。貴重な水分だ。
だからこそできる限り傷つけたりしないほうがいい。彼らの住まう灼熱の土地はとても乾燥していて、切り分けてしまうと切り口から乾いて水分が飛んでしまうのだ。
最後に干したパルの実を一つずつ配り、余りの分を少女に差しだして、泥だらけの少年は口を開いた。
「残りはツェリに。一番危ない役を引き受けてくれたからな」
「ありがと」
ツェリは嬉しそうに干したパルの実を摘み、そっと口に運んだ。
ナシムとシファーとジダも、各々の取り分から果実を選んで食ベ始める。
パルは一度皮を吐きだしたが、何か思案するような顔をしてもう一度口にいれなおしている。
「おいしい……」
誰ともなく呟くと、それきり誰も喋らなくなった。もそもそと口だけが動く。
久しぶりの甘味を、子供たちはひとくちひとくち、言葉通り噛み締めてゆっくりと食べた。
ツェリたちと別れる際、シファーは取り決めた約束事を何度も確認した。
ひとつ、盗みはどうしても飢えそうな時のみにすべし。
ひとつ、孤立した店を選ぶべし。
ひとつ、囮は無知なふりをすべし。学のない孤児には知恵なんてないと思わせておく。
ひとつ、ほんの少しを盗むべし。はじめから量が少ないものは取ってはならない。どんなに沢山あっても、一つの手には一つまで。
ひとつ、神経質そうな商人、大きなものは諦めろ。商品がほんの少し減ったところで気づかないような商人や店を選ぶ必要がある。
そして最後に、
『同じ店を続けて何度も狙わないこと!』
子供たちが声を揃えて言った言葉にシファーは大きく頷いた。
すべては盗みを悟らせないため。もしも盗みに気付かれてしまえば、大人たちは警戒し、商人同士で徒党を組んで互いに見張りあうだろう。そうすると孤立した店が減っていき、パンや果物を入手するのが今より更に難しくなる。
次に繋げるために必要な、大切な約束事であった。
『でもさぁ、大人たちがお互いを見張りあうとは限らないじゃん?なんでそう思うの?』
子供らしく首を傾げるパルにシファーは事も無げに言い放ったのだ。
『俺ならそうするからさ』と。
* * *
この国の夜はとても寒い。
陽が照りつける昼間は汗すら蒸発してしまいそうなほど暑いにもかかわらず、太陽が眠ってしまうと熱までもが何処かへ消えてしまうようだ。
そんな夜を、砂漠近い街はずれの拠点でナシムとシファーは毎晩身を寄せて耐え忍んでいた。
一枚しかない大判の麻布に二人で包まる前に、シファーは慎ましい住居の隅で顔や身体の泥を落とす。彼の日課だ。
乾涸びてこびり付いたそれを指や爪を使って擦る。
ナシムも髪で固まっている泥土を優しく解して手伝った。骨の浮き出た小麦色の指から紺色の髪が月明かりに煌めきを返して滑り落ちていく。
「俺の髪も、ナシムたちのように黒かったらよかったのに」
ぼそりと呟いたシファーの顔を、ナシムは髪を梳く手を止めて覗きこんだ。昼間にパルに言われた言葉を気にしているような口ぶりで、水分が飛んで最早泥ではなく土だらけになった顔を俯かせている。
孤児たちが恐れるのは、飢えや迫害だけではない。
日々を一生懸命に生きる子供たちを強引に連れて行く大人がいる。子供たちが人攫いと呼ぶその大人たちは、色のある頭髪の子供を好んで連れて行ってしまうのだ。
一度人攫いに捕まったが最期、その子供を二度と見かけることはなかった。
この街にももっとたくさんの孤児がいたが、気がつけばツェリたち以外の子供と顔を合わせることはなくなっていた。皆連れて行かれてしまったのか、飢え死にしてしまったのか、はたまたナシムたちのようにうまく身を潜めているだけなのかもしれない。
ひとつ間違いないのは色毛の子供からいなくなってしまうこと。栗毛の顔見知りも何人かいたが、みんな連れて行かれてしまった。
だからシファーは明るい場所に行こうとはしない。どこに人攫いの目があるかわからないからだ。
「ぼく、シファーの髪がすきだよ。夜空みたいできれい」
柔らかく微笑みながらナシムはシファーの頬の土を剥がした。
「パルもジダも、言ってたでしょ。本気で言ったんじゃないって……。それにお陽さまがいなくなってからのシファーは誰より働き者だって、みんな知ってる」
自分の指が、手が汚れるのも構わず、シファーの土を落としながら言うナシムの言葉は真実。
陽が落ちてしまえば、この街はシファーの独壇場も同じだった。月の明るい場所さえ通らなければ暗い髪色は黒色のようなものだったし、抜群の身のこなしと何よりその類稀なる知能をもってすれば、入り組んだ路地は彼の恰好の隠れ蓑になる。
寒さを凌ぐ掛布として彼らが使っている麻布を見つけてきたのもシファーだった。
他の子供たちと盗みや情報を共有した時は、必ずなにか役立つものを見つけてきて贈っているのをナシムは傍でずっと見てきた。今後も円滑に付き合っていくためだとなんてこと無さそうにシファーは言うが、そうそう役立つものなんて見つかるものじゃない。
証拠にシファーが夕暮れに出掛けた日は真っ暗になるまで戻らないことが常であったし、怪我をしてくることもあった。いつも全身に泥を塗りつけているシファーは、怪我をするとそこから悪いものが入って膿んだり熱を出すことがとても多く、その度にナシムは献身的な看病をする。
何日も何日も熱が引かなくて、貴重な果実からしぼった果汁すら飲めなかったときには、泣きながら『もう危ないことはやめてほしい』と懇願したものだった。
「ナシム……」
土が落ちて白い素肌が顕わになったシファーの手をナシムは握った。寒さでどちらの指も冷たくなっている。
「ぼくはシファーみたいに頭はよくないし、背も小さいけれど、シファーと一緒にいたいから……、シファーを守るよ」
守られているのはいつもぼくのほうだけど……。と少し頬を赤らめたナシムの小麦色の肌とは打って変わって、土の取り除かれたシファーの顔はどこまでも白かった。
シファーが全身に泥を塗る理由。稀有なその白い素肌。
今まで彼らが目にした人々は頭髪こそ様々な色がありはしたが、肌の色は皆褐色か、薄くてもナシムのような小麦色までで白い肌の者など一人としていなかった。
あまりに目立つそれは、人攫いの格好の的になってしまうことは考えるに容易い。だからシファーは、同じ孤児たちにすら汚いと罵られようとも、決して泥を塗ることをやめない。
泥に隠されたうつくしい白い素肌は、シファーとナシムだけの秘密だった。
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