425人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
4話 隔たり
探検記を教本に文字を教える合間に、アザリムはぽつぽつと自分のことを語った。
飢えたことは一度もないくらいには裕福な生まれであること。
一人家を抜け出して散歩をしていると、粗野な男たちが突然現れて荷馬車に乗せられこの街に連れて来られたこと。
「この街で夜を明かしてまた何処かへ行くみたいだったからな。荷馬車から降ろされた時に隙を突いて逃げ出して、シファーとナシムに助けられ、今に至ると」
そう言葉を切ると、アザリムは干した赤い果実を口にひとつ入れ、うまい、とひとりごちた。
「干したパルの実、おいしいよね。噛みごたえがあって……」
アザリムがくれたパンをちびりちびりと食べながらナシムが相槌を打つ。
果物の入った大きな麻袋を抱えてアザリムが戻ってきたときはひどく驚かされたものだった。
どうしたのか、と聞かれて事も無げに買ったのだと答えたアザリムは、シファーに小言を言われていた。あれだけ目立つことはするなと言っただろ、こんなにものが買えるほどの金を持ち歩く子供がそうそういるか!と。
貴族の従者だと嘘を吐いてきたと言うアザリムの手にある麻袋から平たく焼かれたパンが見えると、ナシムはそれに目が釘付けになってしまった。それに気付いたアザリムがパンを一つ差し出してくれたが、ナシムは物欲しそうな顔をしてしまった自分が恥ずかしくなってすぐには受け取れなかった。
元からお前たちに渡すつもりだったんだ、と言われてナシムがやっと受け取ると、褐色の手がシファーにも差し出し、続きそうな小言を封殺してしまった。
少し戸惑ったように視線を揺らした二人だったが、呟くように、しかしアザリムの目を真っ直ぐに見つめて感謝の言葉を口にする。
「へぇ、これパルの実なのか。干すと皮ごと食べられるようになるんだな。知らなかった」
甘く甘く、ただひたすらに甘いパルの実の赤い包皮は繊維が強く、硬くて舌に残るので本来食べるところではない。中の白くて柔らかい実だけを食べる果実である。
土壁に凭れさせるように立て掛けられた果物の大袋からも、いくつか見える。
「ほ、干し物用のパルの実は、小さいうちに間引いたものなんだって。だから皮もそんなに硬くないし、中の実は熟れてないから食べ応えがあるんだよ」
熟れてないのに赤いのだから不思議だね、と続けるナシムにアザリムは目をまんまるにして感嘆の声をあげた。
「詳しいんだな」
「果物商をやってた親を持つ子供が仲間にいたからな。そいつに教えてもらったのさ。もういないけど」
シファーが語るその子供は、親を失って孤児となった。物心ついたときから孤児であったものが大多数の中で彼の知識は群を抜いて多く、また彼の持つ『名前』というものに孤児たちは強い憧れを抱いたのだった。
元気が取り柄のようなある孤児は、彼に教えてもらったパルの実のその甘さに心を奪われ、自身をパルと名付けた。
温和で優しい面持ちをした少年と、白い素肌を隠す夜空色の髪の少年も、互いを互いで名付け合った。
明るい性格も相俟って、孤児たちの人気者でもあった果物商の子供。だが彼は見事な金色の頭髪をしていたために人攫いに狙われ、抵抗も虚しく連れて行かれてしまったのである。
「何も持たない俺たちにとって、情報や知識はとても大切なものなんだ。仲間内でできる限り知っていることを教え合う。それが相手と自分たちを守ることに繋がるというわけなんだ」
迫害や人攫いを警戒して大人と馴れ合うことをしない孤児たちが知識を得るには、孤児同士で協力する他ない。
「だからぼくたちは、数日に一度は日を決めて、他の孤児に会うようにしているんだ」
感心して再び感嘆の声を漏らすアザリム。
孤児たちの逞しさと考えの深さには目を見張るしかなかった。
「そう、それが丁度あし……」
「ナシム」
にこにこと笑みながら言葉を続けようとしたナシムをシファーが諌める。
忘れてはならない。アザリムは人攫いに追われてナシムたちとこの場所に身を隠してはいるが、孤児ではない。
関わってしまった自分たちは仕方がないとしても、ツェリたちの行動まで開示するのは流石に憚られる。
二人の様子にアザリムは一瞬怪訝な顔をしたが、何も訊かなかった。
「俺は帰らないといけない。だけど、ここが何処なのか分からない。ここはなんという街なんだ?」
荷馬車に揺られて一日も経っていないからそう遠い場所ではないと思う、と続けられた問いに、気まずい顔をしていたナシムとシファーは面持ちを緩めてそれぞれ思案し出した。
「街の名前……。考えたことがなかったな」
「アザリムは、なんていう街から来たの?」
「俺は、王都から来た。王都ウアガン」
「オウト・ウアガン?」
「王都は名前じゃなくて、王のいる都って意味だ。オアシスが湧き出る、豊かな場所だよ」
「オアシスってなんだ?」
アザリムは、思わず自分の額に手を当てた。
川へ水を汲みに行くと言っていたのでオアシスがこの街にないのは想像していたが、まさか言葉までも知らないとは。王都にしてもそうだ。この国で一番大きな城下街をもち、国を治める王が君臨せし都も、この孤児たちの前では形無しである。
(本当に、自分たちの力だけで生きてきたんだな……)
アザリムは胸が痛くなった。
誰もが知る常識ですら、彼らに教える者はいなかったのだ。それはすなわち、それだけ孤児たちが大人から避けて暮らしていたということ。
貧しい、貧しい街。
この街で何人の子供が過酷な境遇を生き、死んでいったのだろう。
人知れずに。
「きっと、帰れるよ」
優しい声音に、アザリムは俯きかけていた顔を上げた。ナシムの濡れた黒曜石のような瞳と視線がかち合う。
腹を満たしたからか朝よりも生気が漲るようには見えるが、頬は痩け、手足は簡単に折れてしまいそうなほどに痩せ細った少年。
その細腕で、たかだか水を汲むだけでも危険が伴う街をこれからも生きていくのかと、──死んでしまうかもしれないのかと、アザリムは思った。
「なぁ」
真剣そのものの面持ちで発された硬い声音に、ナシムとシファーは居住まいを正してアザリムを見た。
「一緒に、王都へ行かないか」
アザリムの提案に、二人は快い反応を見せなかった。
「何故?」
シファーの藍色の目には幾ばくかの険が宿っている。
和やかだった空気が少しばかり張り詰めて、赤毛の少年は気後れしそうになる心を叱咤した。
「俺の知っている、王都の孤児はもっと豊かで、元気だ。オアシス……、水の湧き出る大きな泉があって、彼らもそこで好きなだけ水を飲んでいる。危険はない。ここよりも暮らしやすいはずなんだ」
「王のいる都なんだろう。罪人が居てもいい場所とは思えない」
アザリムの言葉に被せるように言い放ったシファーの声は、平坦としている。
「罪人って……、生きるためだったんだろう?」
シファーの言う罪人が、盗みをはたらいた彼ら自身を指すことにはすぐに気がついた。
王都は確かに治安は悪くない。だがそれは豊かであるが故に、困窮のあまり非行に奔る者が少ないことと、王の膝元を守るための兵士が王都での悪行を取り締まっているからであって、決して聖人君子だけが住んでいるからというわけではないのだ。
「誰かに盗みを告白しなくちゃならないわけじゃないし、誰も咎めたりしない。少なくとも俺は、しない」
ナシムのどこか申し訳なさそうな表情と、シファーの探るような眼差しに、アザリムは自分が信用されていないことを悟ったのだった。
事実、シファーは急に降って湧いた美味そうな話に警戒していた。
気前良く食べ物を与えられ、王都やらという孤児が豊かに暮らすことができる桃源郷へ共に行こうと言う。昨日会ったばかりの、赤の他人に。
ムシが良すぎるのではないか。そう、彼は考えていた。
(まさか昨日追われていたのも、色毛の孤児を炙り出すための演技で……、本当は人攫いと繋がっているんじゃないか?いや、でもそれならもう人攫いが踏み込んできてもおかしくない。さっき買い物に行った時に仲間を連れてきても良かったはずだ)
シファーの脳内でいくつも仮説が立てられ、打ち崩され、新たな仮説が次々と生まれる。
「俺とナシムは、自分たちの力で生きていく」
拒否の意を言葉ではなく声音にのせてシファーは言い放った。それは夜の砂漠の砂のように冷たい。
「無理強いをするつもりで言ったんじゃない!ただ、ただ俺は……、友達に安全な暮らしをしてほしいと思っただけで……。信じてくれ……」
悲痛にも思える声が孤児たちの耳朶を叩く。
剣呑な眼差しに射抜かれ、アザリムの心を悲しみが覆い、黄色の瞳が揺れた。
ナシムは露骨に警戒心を顕わにし出したシファーを諌めたが、アザリムとの距離を縮めようとはせずに、相変わらず申し訳なさそうな表情を浮かべたままだった。
「うん、ぼくたちとアザリムは友達だ。でも、その……、君は、ぼくたちとは違うから……」
ごめんね、と続けられた言葉にアザリムは緩慢な動作で立ち上がる。ゆっくりとした動作で出入り口である綻びまで歩くと、静かに身を屈めた。
「……すこし、出てくる」
綻びをくぐるその背中に、ナシムは悲しみを感じずにはいられなかった。
「シファー、さっきの態度は……、ちょっとひどいと思う……」
「いや、人攫いに追われていた色毛の子供だからって信用し過ぎてた」
綻びから振り返って言うナシムに返すシファーの声音は、アザリムに向けたもののように冷たくはなかった。
本を閉じ、広げた大判の麻布に乗せ、隠れ家のものを次々と麻布の上に置いていき、シファーは布の端を結んで持ち上げる。
ほとんど物がない隠れ家は、あっという間にアザリムが買ってきた果物の入った大きな麻袋とパンの入った小さな麻布の袋の二つだけになった。
「ここを離れよう。アザリムが戻ってくる前に」
「まって」
荷物を包んだ麻布を綻びに押し込もうとするシファーを、ナシムは縋り付くようにして止めようとする。
ナシムの脳裏には、悲しみに揺れる黄色の瞳がひどく印象的にこびりついていた。
「信じよう。もう少し、アザリムを信じてみようよ。シファー」
「だめだ。今大人たちを連れてこられたら俺たちは終わりだよ。わかってるだろ」
「シファーだって、わかってるはずだよ……。アザリムは人攫いの仲間なんかじゃない。もしそうだったら、今頃ぼくたちはもう捕まってる。そうでしょ?」
「ねぇ、ナシム。俺たちは慎重すぎるくらいでいたから、今こうしているんだ。守りたいんだよ。ナシム。ナシムだけを」
泥だらけの顔を困ったように歪めてシファーは諭すように言った。ナシムの剥き出しの腕に触れ、真っ直ぐに目を見て。
けれど小麦色の少年はゆるゆると頭を振り、尚も言い募る。
「ぼ、ぼくだってそうだ。シファーと生き抜いてく。そう決めてる。でも、アザリムは……、大丈夫だよ。文字だって、まだ教えてもらってる途中じゃないか。それにぼくは、ぼくは……、友達を見捨てたくない……」
人攫いの仲間ではなかったら、ナシムとシファーが逃げてしまえばアザリムは一人ぼっちだ。知らない街で一人、何ができるだろう。
帰らなければいけないと言っていたのに、ナシムとシファーはそれを知っているのに。
出会って間もないとはいえ友達だと言ってくれた彼が、置いてけぼりにされて悲しみを背負いながら、知らない街を彷徨い歩くのだろうか。
人攫いの影に怯えて。
「文字のことは惜しいけど、仕方がないよ。安全には替えられない」
「シファーにとって、アザリムは、友達じゃない?」
掴まれていた腕に少し力を込められてそう言われると、シファーは言葉を続けることが出来なくなってしまった。
昨日会ったばかりで、そんなにたくさんの話をしたわけではない。だが、自分たちを心から信じたような素振りと、屈託のない表情は嘘偽りのないものだったと思えるのは確かだった。だからこそシファーも出会ったばかりのアザリムにあれこれ話をして世話を焼いたのかもしれない。
まるで、友達のように。
「……わかったよ。俺の負けだ。ここを去るのはやめて、アザリムを待とう。でも、外でだ。荷物は持って、万が一の為に身は隠す。これは譲れない」
ため息混じりにそう言うと、ナシムの大きな目が更に開かれて黒曜石がきらきらと輝いた。満面の笑顔は川辺に咲く花を何本より集めたものよりも、シファーには愛らしく思える。
「ありがとう!シファー!」
掴まれていた腕をそのまま抱きしめてくるナシムの、柔らかそうな黒髪が生える頭をシファーはぽんぽんと撫でた。
* * *
アザリムは程なくして拠点に戻ってきた。注意深く辺りを窺い、隠れ家へ入っていく。誰かがついてきている様子はなさそうなのを確認すると、ナシムとシファーも土壁の残骸の陰から出て、隠れ家の綻びへ身を滑らせた。
「お前たちも出てたのか」
シファーの持つ麻布の包みと部屋の中を見て、アザリムは何か言いたげに口を動かしたが、黙って腕を突き出した。
その手には鮮やかな葡萄酒色の畳まれた布がある。アザリムに押し付けられ、ナシムが広げてみると黄色と赤の大きな刺繍が入っていた。大きさは掛け布代わりの麻布より僅かに大きそうで、厚みがある。アザリムの纏う衣服ほどではないが、ナシムとシファーの服は元より、掛け布にしている麻布よりずっと上質そうなものだ。
「もう一つ」
そう言ってアザリムが懐が取り出したのは、同じ葡萄酒色の布だった。こちらは薄手で、今しがたナシムに押し付けられたものよりは手頃な大きさ。黄色と赤の刺繍も同じ物が入っている。
「お前、どうしてだかは知らないが顔を隠したいんだろう。頭から被れば、髪も隠すことができるんじゃないか」
どこかぶっきらぼうにそう言い放つと、今度はシファーにその布を押し付けた。受け取るべきかシファーが悩んでいると、泥まみれの手を掴まれ、無理やり開かれて布を握らされる。
「これは、一体……」
「盗んできた」
「なっ……!!」
シファーは目を見開いて絶句し、ナシムはぽかんと口を開けて固まってしまう。
ナシムが思わず手を離して落としてしまった大きな布を拾い上げ、アザリムはもう一度手渡しながら黒曜石の瞳を見つめた。
「俺とお前は、同じ人間だ。何が違う。俺は、お前たちと同じものになりたい」
真っ直ぐすぎる言葉をぶつけられ、ナシムは息ができなくなった。
壁や天井の綻びから差し込む光は夕暮れに赤く染まり始め、どこか決意めいたものにぎらつくアザリムの瞳は金色のように見えた。まるで黄金の眼光に射抜かれて、呼吸を縫いとめられてしまったようだった。
「確かに、俺は孤児じゃない。孤児にはなれない。だけど、盗むことは俺にも出来る。これで同じ罪人とやらになれたか?」
言葉の最後に、アザリムの目は射抜くようなものから、不安が見え隠れする伺い見るようなものへと変わった。
詰められていた呼吸が自由になり、何事かナシムが口を開こうとした時、狭い空間に怒号が響いたのだった。
「この、馬鹿がっ!!」
勢いをそのままに、シファーは盗みを働くことの危険性と盗む際の彼らの約束事を説明する。
どうしても食べることに困った時にだけ盗むのだと、決して度胸試しのためにやっているわけではないのだと、唾を飛ばして懇々と言った。
対するアザリムは何度か目を瞬かせてから、よく考えられた孤児たちの約束事に感嘆の声を挙げたのだった。
「へぇ〜、じゃない!これで商人たちが警戒を強めたらどうしてくれる!!」
「お、落ち着いて、シファー、今更言っても仕方ないよ。ぼくたちが作った約束事なんて、アザリムが知ってるわけない……」
今にも牙を剥きそうなシファーとどうどうと宥めるナシム。アザリムはそんな二人に改めて向き直り、俺を仲間に入れてくれと頭を下げた。
「もう一度言うけど、王都へ行くのは無理強いしない。でも、俺を信じてほしい」
身なりのいい服に包んだ体を律儀に折って、きれいに切りそろえられた赤毛の頭を垂れられると、ナシムとシファーは居心地の悪いことこの上ない。
ナシムが横目でシファーに視線を送ると、シファーはばつが悪そうに了承の言葉を呟いた。
「わかった。わかったから。信じるよ。……さっきは、酷い言い方をしてすまなかった」
シファーもまた頭を下げ、それに倣ってナシムも深々とお辞儀をした。
三人が向かい合って頭を下げ合う奇妙な空間で、ナシムはこっそりと、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
最初のコメントを投稿しよう!