君が失う日

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君が失う日

「走り続けた距離だけ 諦めなかった分だけ 理由は増えてった 終われない理由が」 「何?その歌」 神奈川学院大学、理工学部2年の菅原 徹は、同じく2年で建築学部の小山 ゆみを車に乗せて、家に送っていた。 ゆみが、車の中で口ずさんでいた歌。 「『スプリンター』菅田将暉のだよ」 「すだまさき?誰それ」 「嘘、しらないの!?」 「ごめん、知識は車しかないんだ」 徹はずっと車が好きで、大学生になってからバイトを始め、1年生の終わりに自分の金で、綺麗ではないが知り合いからロードスターという車を買った。 2人乗りのオープンカーだ。 「でも、『スプリンター』か。良い歌詞だね。僕らは中距離と長距離だけど」 「あんまり歌詞に短距離要素ないよ。陸上競技者なら、誰でも、聴き惚れる歌詞」 「うん。覚えてみようかな」 「それじゃあ、今度カラオケ行こ。それまでに覚えておいてね」 「僕歌える曲少ないよ…」 あの日は、彼らが1年生を終える間際だった。 車を買った徹は、嬉しくて、毎日自分の車で部活に行っていた。 その日の練習はハードだった。 しばらく目立った大会がないが、シーズンインに向けて追い込まなければならない。 その日まで。 本当にその日まで、ゆみのことは、『ただの同い年の同じ部活の女子』としか思っていなかった。 ゆみは、そのハードな練習を最後の1本まで良いペースでこなしていた。 300m、10本中9本を終え、ラスト1本。 100mを通過すると同時に、ゆみの足が止まった。 そのまま体を止め切れず、前に倒れこんだ。 マネージャーが駆け寄る。 足がつっただけだった。 しかし、力むとすぐ足がつるということで、電車で帰らせるのは可哀想だと言うマネージャーの発言で、半ば強引に俺が家まで送ることにされた。 ゆみが大学近くのアパートで一人暮らしをしていたことは知っていたが、具体的な場所や、どんな部屋に住んでいるのかは知らなかった。 さすが建築学部。 とりあえずお茶でも、と言われ、部屋の中に入ったら、途端になかなかにこだわった景色が広がった。 「うわっすごい。賃貸でもこんな風に出来るんだ」 「結構こだわってるよ。賃貸だから、やれることは限られるけど…」 徹自身も、車が好きなことから派生して、ガレージやガレージハウスと言ったものに憧れを持ち、将来はそういうガレージがある小洒落た家に住みたい、と考えていた。 「この1年間、対して喋ってこなかったよね。こんな趣味だったなんて知らなかった」 「そうだね。もっと早くに話せば良かったな〜。徹、面白いし」 そういえばゆみに名前を呼ばれたのが初めてな気がした。 いきなり下の名前を呼び捨てにされて、少し上がった心拍は、どう言った感情から来ているのかは定かではなかったが、少なくとも、悪い気はしなかった。 「…小山さんのこと、僕はなんて呼んだら良いかな」 「ゆみでいいよ。部活のとき呼びづらいなら、別に苗字でも構わないけど」 何故だかは分からないが、ゆみを魅力的に感じている自分がいた。 しかし、拭いきれない過去を振り返ると、到底今の立場のゆみと、仮にそういう関係になったとして…僕はまた『あの時』を繰り返すのではないかと、己を疑わざるを得なかった。 「どうしたの?黙りこくって」 「ゆみ、今度どこか遊び行こうよ。せっかくの機会だし」 何故か僕はゆみを遊びに誘っていた。 自分でもどうしてか分からなかった。 あんなに辛い思いをしたと言うのに…また僕は、繰り返そうとしているのか? 分からなかった。 「うん、いいよ。どこ行く?」 すぐに返事が返ってきた。 大丈夫さ。 不安がる必要はない。 高校までとは違う。 違わなければならない。 初めて2人で出かけた、ショッピングモール。 美人なゆみの横を歩く気分は、良かった。 周りから見たら、カップル同然なのだろうか。 『楽しいね。こういうモール、好きなんだぁ』 頭に、こだまする声。 『ごめん…私はこれ以上…耐えることができない…。私は弱かった…。ごめんね、徹君…。ありがとう。さよなら』 僕から離れてくれ。 そう願っても、離れるわけがなかった。 ボイスレコーダーが耳に埋め込まれたかのごとく、何度も何度も、過去のあの声が体中に響き渡った。 「…大丈夫?」 ふと我に帰ると、ゆみが顔を覗き込んでいた。 「あぁ、ごめん。考えごとしてた」 「そう…。1人で抱え込んじゃ駄目だよ。いつか耐えきれなくなって、壊れてしまう」 ゆみの優しい言葉が痛かった。 『お母さんが倒れた。早く帰って来なさい』 だってゆみも、たまに今の僕と同じ顔をするから。 『くも膜下出血です。辛うじて一命は取り留めましたが、覚悟をしてください』 お母さんが死んじゃう。 そう思ってもう、3年か。 ずっと元気だと思っていた。 家族みんな…。 私は千葉の人間だから、大学に進学するためには、一人暮らしをせざるを得なかった。 病気の母親を残して1人神奈川へ移り住むのが心苦しかった。 ゆみが何を抱えているのかは分からない。 だが、それをただの友達の僕が知るのも変だと思った。 何度かゆみとは遊びに行ったが、きっと僕のことを友達としか思っていない。 それでいいんだ。 もし、交際関係になった時…。 『菅原の彼女、亡くなったんだって…。』 『自殺でしょ…。部内でいじめがあったって。学校側は否定してるけど、絶対あったと思うよ。あの雰囲気だもん』 『陸上部、最初は仲良いと思ったけど、結構最近ギスギスしてたもんな…』 『ごめんね…徹君。さようなら』 誰もいない、誰も見ていない、ひっそりとした深夜の部屋で。 死んだ目をした彼女は、自ら腹に鈍く光る銀色を赤く染めた。 このことは、誰にも話さなかった。 彼女が遺した手紙を、真っ赤に染まった彼女の前で、一人で黙々と読んだ。 誰も恨まないで。 誰も疑わないで。 誰も責めないで。 みんなが私たちに出来なかったことをやって生きてください。 人に優しく生きて。 私以外の誰かを、幸せにしてあげて。 もう、こうならないように。 私で苦しむ、あなたは見たくない。 あなたの幸せが…私の幸せです。 僕は高校時代の同期とは、話も、特別責めもしなかった。 彼女がこの手紙を書いていなければ、下手したら殺していたかもしれない。 でも、誰かを幸せに…か。 同じ部活のゆみと、またそういう関係になっても良いのか? 今の大学の部活の連中は…〝信用できる〟か? 疑わないで。 僕はあれからみんなを疑っている。 それだけは…どうしても消せない癖になってしまった。 …欲望のまま動いてみようか。 形振りは、一旦忘れてみようか…。 疑うことをやめてみようか。 …人を信じてみようか。 あれから毎日お母さんとは連絡を取るようにしている。 いつ何が起きるかは分からない。 そんな不安の中で過ごす毎日は、苦しかった。 でも、それは誰にも見せてはいけないと思っていた。 だから隠した。 特に徹の前では、絶対に悩んだ顔はしないように心がけていた。 でも…彼も何かに悩んでいる。 彼は、人をよく見る。 まるで疑うような目で、彼は私達を見ていた。 全て悟っているかもしれない。 悟った上で、私と遊んでくれているのかもしれない。 彼に何があったかは分からないが、確実に私達を〝信用していない〟だろう。 彼の目は、そういう目だった。 だからなのか、私は彼に好意を抱いていると思われないようにした。 何かは分からないが、その好意が、彼の邪魔になるのではないかと考えたのだ。 でも…彼といる時、私の苦しいあの感覚が無くなっているのは感じていた。 それが何かもまた、分からなかった。 〝あの日〟から止まってしまった時間は…僕の中で、ゆみでまた動き出すような気がしていた。 それがなぜかは分からない。 部内恋愛という、過去のしがらみと同じ条件が、その時間を進めることを阻んだ。 僕にとって 私にとって 彼女が死んだ日は忘れられない。 お母さんが倒れた日は忘れられない。 いつまでも引きずって、何も変われない。 いつどうなるか、分からない。 人が信じられない。 医者の言葉はアテにならない。 いつでも、裏切られる。 いつでも、警戒していなければならない。 気負わせてはいけないから──── ゆみに 徹に 知られないように…。
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