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理想
「…ゆみ」
徹がいない、部活帰り。
俺は今だ、と思い、一人でうつむきがちで帰るゆみを呼び止めた。
「ちょっと話がある。奢ってやるから、昼飯いこうや」
「う、うん」
ここで、俺についてきただけ、まだゆみは救えると思った。
とりあえず安いドリアをたいらげ、俺は口を開く。
「…最近カレシとはうまくいってるのか?」
「う、うん。すごく幸せだよ」
「…まさか、徹じゃなくて、あんな男に行くとは思わなかったよ…」
「あんな男って、何?」
ゆみが少し嫌悪の情を見せたのが分かった。
「今、大水の何が〝あんな〟なの、って思ったろ」
「…軽そうな男、チャラい、女たらし、ヤリチン…いろいろ噂は聞いてるよ。いやでも耳に入ってくる」
「でもそうじゃないと?」
「彼は優しい。私に尽くしてくれる」
「私を〝突いてくれる〟じゃなくてか?」
「相変わらず口が悪いね」
少なからず、的外れなことは言っていない自信はあった。
ゆみの強張った表情を見たら、窓を得ている確信は持てた。
「…結局、何が言いたいの?」
「一つ聞きたかったんだ。今の行動を、徹が何も思わないと思ってやってるのか…?」
「…大谷君には関係ないこと」
「関係ない…?」
────高校1年、夏。
「三ツ境高校の菅原君、また大会新だって!」
「三高(みつこう)の菅原?美代(みよ)いつも言ってるよねその人」
その菅原がいる、県立三ツ境高校から、車で30分ほどしか離れていない、私立横浜海浜県央高校。
俺が陸上競技に目覚めたのは、この高校に入ってから。
グランドを走る先輩の姿を見て、純粋にかっこいいと思った。
仮入部に来ていた、華奢な女の子がいた。
今田 美代。
とにかくきれいで、優しそうだった。とても陸上をやるような子には見えなかった。
俺の高校は部員が少なく、結局入部した1年生は美代と俺と、もう一人、マネージャーとして入った新井 彩音だけであった。
先輩の代も少なく、3年生が4名、2年生が2名で、それぞれ男子と女子が半々。
自然と仲良くもなる。
中でも、同い年で中距離ランナーだった美代とは。
次第に俺は、少し美代に性的に魅かれ始めた。
その美代が、いつも言っていた男…菅原 徹。
三高の同い年、長距離部員。
夏の合宿で、数校が中距離と長距離で合同で練習を行う。
そこで最終日に練習として行われる駅伝で、ゆみと同じチームになったそうだ。
「彼、中距離も結構速いんだよね。800mとか、やってみたら良いのに」
「じゃあ俺も800mやってみようかな」
「えー、純ちゃん400の印象が強いからなぁ」
「まぁ…長いの苦手だから、多分無理だけど…」
少なからず気になっていた女が、いつも同じ男の話をする。
気分が良いものでは無かった。
そして、その菅原という男に、会ってみたかった。
うちのマネージャーの彩音も、三高のマネージャーの浦田と、マネージャー付き合いで合宿の時知り合っていた。
何かの大会の時、俺と彩音が話しているところに、浦田が入ってきた。
菅原のことを聞こうと思い立ち、浦田に話しかけた。
その後、菅原を紹介してもらい、ある程度仲良くなった。
…たしかに、徹は実力がものすごい。
陸上競技という面で、勝てる存在では無かった。
それ故ファンが多いのも、どう見たって美代が惚れているのも、浦田が惚れているのも分かった。
そんな中、半ば美代を諦めかけている時、浦田から女の子紹介したいと切り出され、付き合った彼女が…。
徹の彼女で、俺は浮気相手で。
その浮気は浦田が唆したことで、結局彼女は死んで。
彼女が死んだ時、心の底から悲しんだ。
愛に似た何かを美代に感じていたが、彼女に感じたそれは所謂愛だったと思う。
浮気相手であった俺に、彼女はそんな愛は抱いてなかっただろうが、俺に申し訳なく思う故に偽りの浮気であることを切り出せなかったのは、結局彼女の愛に似た何かだろう。
美代に想いを伝えないまま、勝手に無理と諦め、愛に似た何かしか抱けず、目先の、届く範囲にしか手を出さなかった俺は、彼女を恨む資格もなければ、美代と結ばれる資格もない。
あの後、徹に彼女がいたと知った美代は、やたらめったらに俺に接近してきた。
だが、俺は自らその関係を切った。
進むことを拒んだ。
結局、一方通行の愛。
その点徹は違った。
徹も、彼女も、互いを愛していた。
彼女の偽りの浮気は、徹を愛する故の、少し間違えてしまった行動だ。
彼には勝てない…。
愛した陸上競技でも、人を愛することでも勝てない。
妬みとも感じたが、結局は尊敬だった。
俺は徹を尊敬している。
その徹が…同じ大学に入り、同じ部活に入り…。
言うなれば、幸せであった。
目標としている男が、尊敬している男が、目の前にいるのだから。
大学に入ってからは、一番仲が良い男友達だった。
大学に入っても…少し良いかもと思ったユキナは、結局徹に魅かれてる。
ゆみだって可愛いと思った。
そのゆみも、初めは徹に気があるものだと思った。
でも、初めてこの目で見れたのは、徹が人を愛している時、本当に、心から愛すること。
彼女の時も知ってはいたが、あくまで間接的に関わる中でだ。後から話を聞いてだ。生で2人がいるところは見たことがない。
その、心から愛しているゆみ。
尊敬する徹が、心から愛しているゆみが、そんな風に、汚れることは許せなかったのだ────…。
「────徹は…俺の目標とした男だ。俺が尊敬する男だ。何もかも負けてきた。正直ゆみと徹がお似合いだと思った。だから結ばれて欲しかった。徹を尊敬しているからこそ、その徹の想いを踏みにじって、俺から言わせりゃ汚れた恋愛してるのが気に喰わないんだ」
「私だって…初めはそのつもりだった。はっきり言ってしまうよ、この際…。私は…結局こうちゃんを選んだのは、自分の価値を、評価を気にしだしたから。でも見誤った。仮にそうだとしても、人として、こうちゃんを良い人と呼べるか?今はそれにはっきりうんって言えない…」
ゆみが声を震わせながら言った。
その言葉に、少し安堵した。
「私は、こうちゃんと付き合ったのは、愛じゃなかったなって分かったよ…。徹のことは、愛せた。でも離れられて…気付いた時には、もう見誤った方向に行っていたのかもしれない…」
「徹が離れたのも…愛故だ。本気で愛していたのに、自分で貸したハードルを、自分で超えられなかったことが、どうしてもゆみを愛するに値しないと思ったんだ」
「分かってる…。徹が愛してるのに、自尊心が傷ついて離れたのも。きっと自分はふさわしくないと考えた。それくらい、そのくらいしないといけないくらい、私を彼が評価してくれている。それも分かってる…。なのにこうちゃんに行ってしまったこと…汚れたと言われてしまうようなことをしていること…っ」
ここまで話し、またゆみは声を震わせた。
「申し訳ないとは思うの…。でも…今ここで、こうちゃんと離れるのも、それはそれで私の甘えだと思うの…」
「なぜ?」
「…まだ付き合って時間も経ってない。高校の時みたいな、すぐ終わる恋愛が嫌だった。なのにまた、こうなってる…。それが嫌で…」
「その考え自体が甘えなんじゃないのか?結局は評価だろ。男癖の悪い女だって言われるのが怖いだけなんだろ」
「…っ。分かってるよ…分かってるけどっ…」
煮え切らねぇ。
救いようがないとまでは言わないが、よほど痛い目を見ないと動けなさそうだ。
自分で分かってもいる。
そこは救いだった。
だが、分かってると思うだけで、結局動けない。
なら意味がない。
俺は分かってると知れただけでも収穫と割り切り、とっとと金を払い、ファミレスを後にした。
「────まぁ、こんな感じ」
「…救いようは、あるかもね」
「どうするんだ?」
「きっと何か失うかも知れないけど…それでも、彼女は助けるに値する子だ。僕の何かを犠牲にしてでも、守ってやるさ。これは変わらない」
だってゆみが、好きだから…。
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