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愛してない
「菅原くん…ちょっとこれは…あんまり良くないね」
「そ、そうですか…」
年が明けて、三ヶ日が終わり、行きつけの車屋が仕事始めをした。
徹は待ちきれず、朝からその店へ出向いた。
エンジンの調子が悪くなり、しばらく入院していた車は、想像以上に状況が良くなかった。
「直すことはできるよ。でもね、同じ車買い換えるくらいお金がかかる」
「はい…」
「一応、足として使えるくらいまでには、応急処置的にやっておいたよ。でも、もう思いっきり回さない方が良い。長距離もオススメできないな。ちょっと次の車のこと考えて準備しておいた方が良いかもよ」
「分かりました…」
苦労して手に入れたロードスター。
諦めてたまるか。
壊れる前までは、夜、峠を少し飛ばしながら走ったりすることはあった。
でもそれももう、おしまいだ。
これからは大人しく走ろう。
そう、心に誓ったのに────…。
────こうちゃんと、続けなきゃいけない。
一緒にいたい、から、一緒にいなきゃいけない。
セックスがしたい、から、セックスをしなきゃいけない、に。
私がこうちゃんを愛してないことに気がついてしまってから、今まで欲だったものが、使命感に変わった。
愛してる。愛さなければいけない。
…やっぱり愛してない。
離れることも考えた。
だが、それは周りの人間にも、自分が承認欲だけで男を選んだことを知らしめることにも思えた。
適当な理由をつけて振ろうとも思った。
でも、それをされてこうちゃんはどう思うだろう。
何より、セックスの最中に感じる、彼の刃物のような鋭さ。
少し油断したら、こちらが切れてしまいそうな、覚束ない雰囲気。
言うなれば剃刀。
普段は大人しく私のために働くが…使い方を誤れば、自身を傷つけるものに変わる。
こうちゃんからは、そんな雰囲気を感じ取れた。
だから怖くて、切り出せなかったというのも、確かにそこにはあった。
どこか影を抱え、今日もこうちゃんと会う。
結局今年は実家には帰らなかった。
そして年明け早々こうして、こうちゃんと会っている。
今まで、抱かれるのは私の家だけだった。
だが今日は、初めてホテルに連れていかれた。
「どうせ、明日も休みだし」
「…うん。そうだよね」
三ヶ日は終わり、二年生も残すは5日後から始まるテストを残すのみとなった。
その前に、少しくらい、息抜きも良いだろう。
実家から、帰らないのかと言われるたび、かなりイライラした。
今は徹とこうちゃんのことで、頭がいっぱいだ。
正月くらい、1人でゆっくり過ごしたい。
そう思って、テストの対策で忙しいと言い放ち、それ以降の連絡は無視した。
前までは、こうちゃんといる時は、こういう頭を悩ますことは忘れられたのに、最近はむしろ色濃く考えているような気がする。
でも、こうちゃんと過ごす時は、忘れなければいけない。
こうちゃんは、私のセーフティを解除しつつ、笑った。
忘れよう。
────徹のことも、家族のことも。
初めてのホテルに高揚した私は、いつもより長く、たくさんこうちゃんとのそれを楽しんだ。
ようやく区切りがついた時、一気に疲労感を感じ、重力に素直になった瞼を留めておくことが難しくなった。
ふと我に帰る。
時計は、深夜1時を指していた。
確か、ホテルに入ったのは午後9時。
それなりに長い時間、一緒にいることになる。
ハッとして、周りを見渡すが、こうちゃんの姿はない。
トイレか、と思ったが、荷物が無くなっていた。
逃げられた…?
ヤリ逃げ…?
付き合っているのに?
焦り、携帯を見た。
何件もある着信…。
全て実家からだった。
「もう、こんな時になんなの!?」
ゆみは声を荒げて、一人で怒鳴ったが、その後に父から送られたメッセージを見るなり、携帯を落としそうになった。
『お母さんの容態が急に悪くなりました。一瞬の油断も許されません。時間があるなら、戻ってきてください』
「……うそ…」
急いで千葉へ向かおうと思った。
しかし、もう今日の終電はとっくに過ぎた。
こうちゃんにまず電話しなきゃ……。
出ない。
何度かけても出ない。
私は思わず、徹に電話をかけていた。
…普段この時間寝てるよね…
…寝る前お酒飲んでないかな…
…あ…車壊れたって言ってなかったっけ…
不安要素が多過ぎる。
平静を保とうと、呼び出し音を心の中で数えた。
『…どうしたの?』
『あっ……で、出てくれた…』
安堵するあまり、ゆみの目からは涙がこぼれた。
『お母さんが、倒れたの…。今、16号沿いのホテルにいる。すぐに実家に帰りたいんだけど…助けて…』
徹は、16号沿いのホテルという単語に気分が悪くなったが、ゆみの声から察するにただ事ではない。
『ちょうど今日、いやもう昨日か。車が戻ってきたんだ。位置情報送ってくれ。すぐに行く』
『…ありがとう』
電話を切ると、安堵と、情けなさがゆみを襲った。
…男に溺れていたせいで、大切な電話を取り逃がした…。
頭が悪すぎる。
…お母さん、また倒れたんだ…。
忘れられないはずだった。
毎日、忘れられないながら、隠しつつ生きていた。
でも気付けば、こうちゃんと過ごすうちに、隠さなくなっていた。
それは、こうちゃんに全てを知られてもいいと、思ったからではない。
単純に、考えなくなっていたのだ。
…情けなさすぎる…。
お父さんに連絡をし、やっと気付いたか!と怒られてからも、心配された。
とても、男とホテルにいたなんて、言えなかった。
搬送された病院の住所が送られてきた。
携帯のマップに打ち込むと、車で1時間半と表示された。
あと1時間半…。
お母さん、それまでどうか耐えて…。
一刻も早く徹の車に乗りたかった。
寒かったが、外へ出て徹の車を待つことにした。
────遠くの方から聞こえる、懐かしい音…。
ラブホテルの電飾が、真っ赤な徹の車を照らした。
「早く乗れ!」
「あ…ありがとうっ…」
徹は、予想に反して、ホテルにいたことについて、何も詮索してこなかった。
代わりに、お母さんについて聞かれた。
「倒れたって、急に?」
「いや…私が高校生の時にお母さん一回倒れてて…またいつ倒れるかわからないって、言われてたの…」
「…正月帰らなかったのか?」
「うん…」
「……馬鹿過ぎるよ。そんな状況で、よくこんなこと出来てたもんだ」
「…ごめん」
「自分を安売りしすぎだ」
「…ごめんなさい」
「…そんな風になっていい子じゃないだろ、ゆみは」
「…うん」
徹が私に怒っていることは、ただホテルで溺れていたことだけではない。
ここ最近の、私の在り方。
「…どうして隠した…?お母さんのこと…」
「重たい部分、知られたくなかったの…」
「…何から何まで馬鹿だ。くだらなさす…」
くだらなさ過ぎる、と言おうとして、徹もゆみに隠していることがあったことを思い出した。
言ってしまえば、一人で彼女のことにこだわって生きていたアレも、くだらなかった。
「…ん?」
「まぁ…誰にだって言いたくないこととかはあるだろうな…。でも一人で悩むのは馬鹿だ。僕も、そう思い知った。最近」
「…と言うと?」
「いずれ話せる機会があったらいいな」
徹の運転する車は、深夜のアクアラインを疾走していた。
徹はアクセルを底まで踏み込む。
「…なんで僕が怒ると思う」
「…私に失望したから…?」
「…失望してたら怒らないで放っておくさ。好きなんだ。心配なんだ。心配するから怒るんだ。じゃあなんで心配かって?僕はゆみのことが好きだからだ!」
徹、変わったなぁ、とまともに思った。
こんなにまっすぐ気持ち伝えるような人ではなかった気がする。
「…詮索はしない。今はお母さんのことを考えて。一刻も早く病院に着くから」
「…ありがとう」
徹のロードスターが唸る。
普段、私を乗せる時は絶対に安全運転だった徹が、追越車線を物凄いスピードで車を走らせている。
全て私のため…。
お母さんの命があるうちに、私を送り届けるため…。
それを考えると、涙が出てきた。
人の心が、戻った気がした。
徹はずっと、どこか寂しげな表情で車を運転していた。
なんというか、少し過去を振り返るような、哀愁漂う感じだった。
それは私のことのようにも思えたが、それとはまた違う気もしたのだ。
「…耐えろ…」
突如徹が呟いた。
私に対してか?
だとしたら随分声が小さい。
ふと…懐かしい記憶が蘇ってきた────
『楽しんでるか〜ロド』
そうだ。
徹は、運転しながら、たまに呟いていた。
『徹ってたまに車に話しかけるよね』
『変か?』
『いや、なんていうか、本当に大好きなんだなぁって感じ』
────なら今のこれも?
耐えろってなんだ。
スピードを出しているから、車に無理がかかっているだけなのか?
でも…さっきからの徹の雰囲気といい…ただ事じゃないような気もした。
きっと徹に聞いても流されて終わりだ。
…そうだな。今はお母さんのことを…。
お母さんが倒れて…もう4年以上経つ。
少し前まで…毎日のようにかけていた電話も、忙しいから、と断るようになった。
どうしてこう、私はこうちゃんと交際するようになって変わってしまったのか。
ここ数ヶ月、お母さんの声を聞いていなかった。
…お願い。
間に合って。
間違った選択をしてしまった私を許して…。
お母さんの命は…もう秒読みだという。
1秒が惜しい。
その状況は徹に伝わったのか、徹はますますスピードを上げた。
「あと10分で着くから!!」
「えっ!?まだ40分しか経ってない!?」
「おもっきりぶっ飛ばしてんだ!早く着かなきゃ嘘だ!」
高速道路を降りても、徹はスピードを出し続け、右に左にと交差点を曲がり、一瞬で病院に到着した。
「…着いた!!ここで待ってるから、落ち着いたら連絡して」
「…ありがとうっ」
猛ダッシュで病院の緊急外来のカウンターへ走り、怒鳴るような勢いで母のいる部屋を聞いた。
ドアの前で、お父さんが待っていた。
「…!やっと来た!早く入って!」
「…うん」
お母さんは、たくさんの管から機械に繋がれて、それでも〝生きていた〟
私がそばに行くと、気が付いたのか、さっきからうるさい電子音の刻むスピードがほんの少しだけ早くなり、そのあとはその刻みが緩やかになった。
「お母さん、待っててくれたよ」
お父さんが優しく言った。
「…遅くなってごめんね」
信じられないほど涙がこぼれた。
…お母さんは、最後の力を振り絞ったのか、弱々しく、やせ細ったその手で、私の手を握った。
そして、一気に力が抜けて…
その手は私の手から溢れていってしまった────…。
派手なことが嫌いだったお母さんの遺言で、葬儀は家族葬となった。
お母さんが亡くなった翌々日には、もう火葬まで終え、取り敢えずテストもあるから、と、私は神奈川へ帰ることになった。
その間、徹はずっと、待っていてくれた。
帰り道、行きとは異なり、ゆっくりと優しく車を走らせる徹。
徹は、また優しく話しかけた。
「お母さん、良かったね。最期に娘に会えて」
「うん…。徹が来てくれなかったら…。本当、ありがとうね」
「…大したことはしてないよ」
こんな時にも謙遜をする徹を、また、愛おしく思ってしまった。
「…まさか、待っててくれるとまで思わなかった」
「送ったんなら、迎えなきゃね。それが僕たち車好きが、愛する人にしてやれる数少ないこと」
愛する人、という言葉に、行きで徹が叫んだことを思い出す。
『じゃあなんで心配かって?僕はゆみのことが好きだからだ!』
徹は…まだ私のことを好きで居てくれた。
裏切った私を…私の重たい部分もひっくるめて、愛し続けてくれていた。
「…その…なんだ、この、この数ヶ月のこと…謝らないと…」
「もう分かっているよ。大丈夫。僕に謝ることではないよ」
「最後の望みと思って、電話をかけたの…。徹は来てくれた…。もう、言葉では言い表せない程、感謝してる」
「…愛する人が困ってるんなら…僕の何かを犠牲にしてでも助けるさ。僕の何かを犠牲にするだけで、君が幸せになれるなら…」
何かを犠牲?
どういうことだろうか。
「犠牲って?」
「…何でもないよ」
いつもこうだ。
徹は、何か大事なことを、私に隠している。
「私だって…隠してた事情を徹に打ち明けた。あんなことした後で言ったって説得力ないけど…徹も私を信じて、悩みがあるなら、話して欲しい」
…徹は、「重たくなっちゃうから、今度必ず話すよ」
とだけ言った。
それ以上、問わなかった。
きっといつか知れる。
そう思い、私は今は徹の横にいることを楽しんだ。
この数日間、こうちゃんとは連絡がつかない。
要は、タイミング悪く捨てられたってことだ。
彼にとって…私は都合の良い女だった。
愛されてなかったわけだ。
私が、愛そうとして、愛していなかったことに同じ。
彼との何もかもが、終わりだ。
そしてまたきっと、徹と何か始まる。
そんな予感がした。
800mの決勝のような、高揚するが緊張する、独特の雰囲気だった。
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