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君の声
関東私立大学対抗陸上競技大会が始まった。
今年3回目の出場となる徹は、いつもとは異なる心持ちでアップを行なっていた。
二年目は…熱かった。
今思い出せば、あそこでウサギに負けて、それからゆみと色々あって…。
僕は中距離を鍛えて、そして一年後、また同じ舞台に立っている。
一年で色々変わるものだ。
だがまた、ゆみをかけてウサギと勝負をする。
もし負けたら、ウサギにゆみを奪われる…。
だが、ウサギに負ける気は全くなかった。
そもそも、僕が目指しているのは…東京マラソンの招待…。
ウサギとの賭けは、あくまでレースを面白くするための、パフォーマンスでしかなかった。
今年、一年目、二年目と異なるのは…徹は5000mにしかエントリーしていないこと。
二年に上がった相田が育ったこともあり、徹はマイルのメンバーを自ら外れた。
そして…5000mに集中するため…招待の権利を得るため…ゆみのため、1500mか、800mか、出ることを悩んだが、そのどちらも捨てた。
「この一年、中距離極めてどうだったよ」
純ちゃんが、僕に聞いてきた。
「…狂犬度合いに磨きがかかってきたかな、なんて」
「…期待してるぜ。ラストスパート」
「そっちも楽しみにしてるよ」
おそらく最後の対抗戦だ。
三年全員、気合が入っている。
ゆみと、ユキナも徹に近づく。
「…徹君、本当に頑張ってよ、5000」
「分かってるよ。当たり前だ」
「調子は?」
「絶好調だ」
1日目は、徹は調整のみ行い、残りはずっとスタンドで観戦をしていた。
そして迎えた2日目…。
「ゆみ…頑張って」
彼女も彼女で目標があった。
去年、自身が作った大会記録。
その記録を超える…。
ゆみも分かっていた。
徹が変わろうとしてくれている。
なら、私だって、それに見合うくらいに変わらないと、と。
ゆみが走り出す。
どこか、美穂に似ている走り方。
綺麗なフォームは、長い手足を強調させる。
一年前は、800mのことをほとんど知らなかった。
あれから、なんやかんやと駅伝などで長距離も続けてはいたが、800mを極めようとした。
春に行われた記録会では、1分52秒となかなかの記録を出した。
あの舞台を知った上で観る、ゆみの800mは、カッコよかった。
ゆみは二周目の真ん中、残り200mから一気にスパートをかけた。
後方から一人這い上がってくる。
残り100m、二人でのせめぎ合いになった。
ゆみは、整った表情のまま、前に前に足を運んだ。
最後の最後に、真横に並ばれたが、胸を入れ込んで、コンマ0.6秒差で優勝。
「只今の一着は、4レーン、神奈川学院大学、小山 ゆみさん。時間は2分7秒59でありました。この記録は、昨年度、小山さん自身が出しました、大会記録を上回る記録です。おめでとうございます」
スタンドから歓声が上がる。
神奈川学院大のテント内も、一気に盛り上がりが増した。
ゴールでマットをひいて待っていた徹が駆け寄る。
「…凄かったな…おめでとう」
「ありがと…疲れた」
全神経を集中させて800mで全力を出し切ったゆみは、マットに転がり、スパイクを脱ぐことすらも忘れていた。
「徹の番だよ…」
「…任せろよ。ゆみ以上に湧かせてやる」
徹は、アップ中、しきりにあたりを気にしながら走っていた。
大谷だけが、その理由を知っていた。
400mで自己ベストを出して終えた大谷は、徹のアップに付き合った。
「…たしかに来てたな、横浜薬科…」
「きっとどこかにいるぞ、浦田」
「いた所で、もう害はないだろ?」
「…見るだけで腹が立つんだ」
「なら探すな」
「あっ!徹!」
早速会ってしまった。
あんなことがあった後で、気軽に自分に話しかけられる鋼のメンタルに驚き呆れた。
「…何の用だ」
「いたから話しかけただけだって。あ、大谷君もいる」
「用がねぇならアップするから。邪魔すんな」
「…5000m、私の彼氏走るから、よろしくね」
「…ほぉ?」
横薬はここ数年この対抗戦にエントリーしていなかったが、今年になって部員が増えて、参加する方針になったと聞いた。
そういえば、一人速いのがいるって聞いてたな…。
たしか名前は、星野 蓮。
「速いのか?」
「5000mは13分58秒くらいだったかな」
「…なるほどね。星野だったっけか、横薬の速いのって聞いたことがある」
「そうだよ。蓮が今の彼氏」
浦田も、美穂とのことなどとうに忘れ、彼氏とヨロシクやってる。
腹が立つのは変だと思ったが、どうにもこの無神経さにイライラした。
「…相手にすんな」
「分かってるけど。でもその13分58秒ってのは気になるな。常に集団にはいる奴ってことになる」
「負けんなよ」
「当たり前だろ」
徹がアップに行って、暇になったゆみは、既に一時アップを上げて休憩していたウサギに近付いた。
「…どう?調子悪くない?」
「…だ、大丈夫す」
ウサギ君も緊張するんだ、と少し可愛らしく見えた。
「徹に勝ったら私はウサギ君のものだもんねぇ」
「ち、ちょっとやめてくださいよ走る前に…」
ゆみは笑った。
相変わらずサディストな自分に気付き、また笑った。
「徹、めちゃくちゃ本気の目してるよね」
「そりゃ…先輩だってゆみさんかかってますから。まず…あの人はこの舞台の先を見て…結局それもゆみさんのためなんすけどね」
「喜んで良いことだよね」
「幸せだと思いますよ。ぶっちゃけ今日は、俺は盛り上げ役みたいなもんす。勝てるって、思ってないんすよ。今の徹先輩に。もちろん勝つ気でやりますけど」
「…目が違うよね、今の徹」
「怖いっす。殺されそうな目だ」
「きっと…狂犬が表に出てくるよ」
「喰われないようにしなきゃ…」
「喰われなかったら私が食べてあげるから」
「うひゃあ」
徹の目は、鋭く光っていた。
それは獲物を狙う狂犬そのものだった。
────いよいよ5000mが始まる。
部のもの全員、徹がこの競技にかけている思いを知っている。
賭けているものを知っている。
去年だって、先頭集団でレースを作る側だった徹。
一年経ち、徹はスピードを極め…同じ舞台に立った。
徹は5レーン。
悪くない位置だ。
ウサギは6レーン、横薬の星野は12レーンだ。
静まるスタンド…。
そして…号砲。
ゆみを守るための、舞台に立つ権利のため。
…ゆみのため。
徹は勢いよく飛び出した。
ウサギもそれに続く。
「徹!!行け!!」
ゆみが叫ぶ。
…よく通る声だ。
それが音の周波数の問題で実際にそうなのか、単に意識しているからなのか分からなかったが、僕にとってゆみの声が一番聞こえた。
ゆみがゴールで待っている。
僕を待ってくれている。
誰よりも速く、早く…ゆみの元へ…。
目の前に、星野が出てきた。
レースを引っ張る気だ。
上等だ。
お前の後ろに張り付いて、良いように使ってやる。
「蓮頑張って!!徹ファイトー!」
ゆみの側から聞こえる、僕を応援する声。
浦田だ。
ゆみは一瞬顔をしかめ、浦田に負けないようにとさらにトラックに近づいた。
お前に応援されたところでイラつきしかしない。
ファイトだぁ?もう頑張ってんだよ僕は!!
1000mを通過する。
2分40秒。
徹は、このレースで優勝するために、大会記録を塗り替えるつもりでいた。
13分54秒10。
単純な1キロ換算で、2分47秒は切っていなければ、このタイムが出ない。
かなりハイペースな1000mの入りということを考えれば、悪くない。
問題は、今このレースを作っているのが星野であるということ。
このペースでも余裕がある可能性は高かった。
いつのまにか、先頭集団は、星野と徹、そして金城の、三人になっていた。
例年通りではないファストインなレースに、選手はみな困惑していたのだ。
先頭で、三人が火花を散らす。
コロコロと目まぐるしく変わる先頭に、スタンドは湧きっぱなしだった。
その光景を見て、ゆみは、徹の彼女であることが誇らしく思えたのだった。
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