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君の存在
ゆみも徹も、対抗戦ではかなりの記録を出したが、その名が知れ渡るのは陸上競技に携わった者の範囲でしかなかった。
校内で表彰されると言うこともなく、周りの人間は、二人がすごいことをしたことなど、何も知らない様子だった。
だから、ゆみに対する周りの目と、当たりは変わらなかった。
「少しは変わるとは思ったんだけどな…」
徹は呟いた。
「…無理だよ。結局私たちのあの記録は、競技に携わってる人しか分からないんだもの」
「つまり、もっと大きい舞台で…」
「そこで戦う権利は勝ち取ったんだから」
「…どこまで派手にやれるかな」
「…楽しみにしてる」
夏が終わり、急に冷え込んできた。
確実に冬に向かっている。
考えてみれば、去年は令和初の何たらかんたらと、世間は何かと騒いでいたような気がするが、その元年も二年になったら急に静まり返った気がする。
去年のクリスマスは何をしていたっけ。
確かやさぐれて、純ちゃんと過ごしていた気がする。
あの頃が、ゆみも一番おかしかったから。
そのゆみが、彼女となった今。
さて、クリスマスはどうしようか。
カップルらしいことを、まだあまりしていないような気がした。
どこかに連れてこうか、と思い、ユキナに相談することに決めた。
「ユッキーナならどこ行きたい?クリスマス、彼氏と」
「んー、イルミ安定?」
「やっぱりそうか。そう言うところ行って、何か欲しそうなもの買ってあげるか…」
「それも良いと思うよ」
ユキナは、しきりに僕のネックレスを見ていた。
「…なんかついてる?」
「まだそのネックレスしてるんだなぁって」
「あ…」
辛かった過去。
忘れたいが、忘れてはいけない過去。
彼女を守れなかった、苦い記憶。
このネックレスをつけている限り…おそらくいつまでも引きずっているだろう。
「…外さないの?」
「…正直、悩んでる」
「…気持ちは分かるけど。私は、そのことは形として思い出すものを、いつまでもつけているのは良くない気がするの」
「…ごもっとも…」
…徹は、何かを決意した。
対抗戦以降、たまに浦田から連絡が来る。
『東京マラソン、頑張ってね』
『言われなくてもそうするっての』
彼氏がいるのに何をやってるんだ。
関わりたくなかったが、ウサギを負かした星野を知る良い人材だ。
大切にしようと思った。
大嫌いだと言うのに、そう言う輩ほど、いつまでもいつまでも、僕の周りにいやがる。
言うなれば、浦田は僕のカルマ。
業は、乗り越えるべくしてある。
神が乗り越えられると与えたハードルなら、乗り越えなければならない。
…このネックレスには…浦田の過去を暴く大切なデータが入っている。
だから捨てると言うことは出来ない。
美穂が、僕がそのカルマを抑え込むために、命を犠牲に残してくれた物なのだから。
だが…それをいつまでも身に纏うのも、美穂に対する未練に思えなくもなかった。
…外すと言う選択は、出来るような気がした。
────クリスマスイヴ…。
僕はゆみと少し小洒落たご飯を食べ、イルミで輝く公園を歩いていた。
「東京マラソンまで、もう2ヶ月くらいだ」
「近付いてきたね。体は仕上がってる?」
「今までにないくらいね…諸刃の剣って感じだよ」
「壊れちゃダメだよ…」
「…うん。分かってる」
…言えない。
僕は…この東京マラソンで、陸上の舞台から身を引いても良いと考えていた。
実業団で続けると言う道は残されている。
だが、そう言うことではない。
体を酷使し…来年の東京マラソンで、もう今後走れなくなるほどにまで、追い込んでいた。
徹底した減量を行なった徹の身体は、ただ走るために作られた機械のようになっていた。
ゆみも気付かないわけがない。
だから言った。
壊れないで、と。
分かってると答えた徹。
意に反する答えが、反射的に出ていた。
「約束は出来ないかな、壊れないって」
「…どうしてそこまでするの。この後走れなくなったら元も子もない!」
「…僕は、この東京マラソンで陸上から身を引いても良いと思ってるんだ。将来有望だ、なんだと騒がれているけど…僕は…今後は考えてない」
「それも私のため…?」
「…半分は違う。何かで1番になりたいんだ。そのためには、僕の体から変えなければいけない。それは、選手生命を縮めることにもなる。どうせ四年はほとんど部活に出れないんだ。やめるなら、盛大な記録出して…誰も超えられないような記録出して、終わってやろうと思う」
「…でも半分は…」
「他でもない、ゆみのためだ。ゆみに僕が彼氏だと誇って言ってもらいたいんだ。そのためには…体を犠牲にしたって、とんでもない記録作ってやるしかない…」
「…それでも、壊れたら承知しないよ」
「…壊すってわけじゃないからさ。そのつもりでやるってだけだ」
「…分かったよ」
ゆみは、徹に抱きついた。
そして顔を見上げ…徹がいつもつけていたネックレスを、つけていないことに気付いた。
「…あれ?」
「あぁ…。気付いた?」
「…あんなに大切そうにつけていたのに…」
「…いつまでも…持っているのもどうかなって…」
「…良かったの?」
「うん…今まで…ずっと一緒に走ってきた。でももう終わりだ。東京は…一人で戦う。ゆみのために戦うんだ。余計なものは背負わない」
「…一人で…」
「ゆみを守るのに、力は借りない。僕だけの力でゆみを守ってやる」
「それは違うよ、徹」
徹は、短く声を上げる。
「…私だって力になる。直接何が出来るわけでもない…。でも、私は、私を守ろうとしてくれる徹の、起爆剤になれる」
「…ありがとう」
「二人で、戦うんだよ」
「それが愛かもな…」
────…君がいるという、ただそれだけで、頑張れるんだ。
そうして年は明け…1月が終わり…2月後半。
徹はその間、ただひたすらに走った。
ゆみのことだけを考えて。
ゆみのために勝つことだけを考えて、体を作りあげた。
────レース前日。
部員全員、応援のために宿を取り、明日に備えていた。
夕食後、徹の部屋にゆみが出向く。
「…徹、ちょっといい?」
「…どうした?」
「…これつけて、走ってよ」
ゆみが徹に渡したのは…新しいネックレス。
「…ありがとう」
「レース中…苦しくなったら、これをつけてることを思い出して。一人じゃないんだからね、徹は」
「…一人じゃない」
────楽しいから、走っているだけではない。
ゆみという存在。
ゆみといるという、その幸せ。
そのために、ここまで走ってきた。
何もかも振り払ってきた。
趣味、過去のしがらみ…。
失ったものは数えない。
ただ一つの目的のために…僕は走る。
────東京マラソン当日を迎えた。
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