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君の幸せ
僕はアップを十分に行い、一度ジャージとウォーマーを着て、寒さを凌いだ。
ゆみが、付き添いを買って出てくれた。
隣を見ると…星野がいた。
奥から浦田がボトルを持って歩いてくる。
「…この前話せなかった。菅原」
想像より低かった声で、僕に話しかけてきた星野。
「あぁ…、星野。まぁ、頑張ろうや」
「自分の彼女と同じ高校だったって?」
「…残念なことにな」
「ちょっと〜残念ってなに?」
浦田がうるさい。
そのやりとりを見て、ゆみが近付いてくる。
「あの人、対抗戦で徹のこと応援してたって思ったら、同じ高校の人だったのね」
「そうだよ。まぁ…嫌いな女だ」
小声で言ったつもりだったが、浦田は顔をしかめて話し続けてくる。
「あれ?その子彼女?そういえば対抗戦でも見た気がする」
「…そうだけど、なんだ?」
「美穂のことどうでも良くなったんだ」
「そんなわけねぇだろ。黙ってろクソ女」
浦田側の人間というだけで、星野にも苛立った。
絶対にこいつに負けない。
「なに…あの感じ。すごい腹立つんだけど」
「走って黙らせる」
浦田から受け取ったボトルに口をつけてから、星野は再び話しかけてくる。
「調子はどうだ」
「あんたの彼女のお蔭で最悪だよ。ありがとうな」
「…前回は負けたけど…今回はあのうざったいちっこいのは一緒に走らないんだろ?」
「ウサギのことか?なんだ、ウサギがいたから僕に勝てなかったんだとでも?」
「少なからず影響はあった。目の前でチョロチョロな。今回は一人だけど、大丈夫か?」
「挑発したいんだろうけど…僕は星野じゃなくて、トップのケニア勢を意識してるもんで。僕から言わせりゃ、星野がチョロチョロしててうざい」
「…言ってくれんじゃん。…彼女から色々聞いてるぜ?今の彼女、大事にしろよ」
「…お前と違って大事にしているつもりだけど」
「…俺が大事にしてないとでも?」
「…人殺しは愛せねぇな、僕は」
「…黙れ、菅原。過去の話だ」
動揺を誘うつもりが、冷静な表情のまま返してきた星野を見て、全てを知っていることを知った。
そして続ける。
「その過去に縛られに縛られて、ハゲるほど悩んだんだよな。その黒幕はお前の彼女だ。浦田 夏美だ。そのそばにいて、全て知ってるお前だって僕にとっちゃ恨むべく人間だ」
「〝誰も恨まないで〟じゃなかったのか?」
「遺言は守らねぇって決めたんだ」
「彼女悲しむぞ」
「生憎、彼女の幸せは何か知っている。浦田もお前も恨んで走ってやるよ。恨みを起爆剤にしてやる。狂犬に相応しい走りで、彼女もゆみも喜ばしてやるよ」
「…だったら思う存分盛り上げようじゃねぇかよ、その舞台」
「期待外れな走りしたら殺すぞ」
「そっくりそのまま返してやるよ」
スタート地点周辺は、活気が溢れていた。
これから42.195kmを戦う連中の目は、何というかこう、僕みたいな飢えた獣のような目つきの者もいれば、不安なのか垂れ下がった情けない奴もそれぞれいる。
今後走れなくなっても良いというほどに、追い込んで練習をしてきた。
僕の今の体は諸刃の剣だ。
一番綺麗で、一番切れて…壊れやすい。
会場周辺では、『スプリンター』が流れていた。
あの曲が、今回の東京マラソンのオフィシャル応援ソングになったのには驚いた。
何かこう運命的なものを感じた。
走り続けた距離だけ、諦めなかった分だけ、理由は増えていった。終われない理由が────。
僕は、きっと去年までの僕は、走る理由なんて、自分のためでしかないと思っていた。
楽しいから走る。
それだけだ。
今は違う。
誰かのために走れる。
走る力が、その起爆剤が、走ること以外にあったって良い。
僕を走らせる何かが、大切なもので、かけがえのないものなのなら…僕は走るのをやめない。
走るのをやめるのは…目的を果たす時のみ。
…ゆみを守る。
目的。
こんなにも、走ることに全てをかけた日々はなかったかもしれない。
あまりにも身を滅ぼすような追い込み方に、純ちゃんが心配して話しかけてきたことがあった────。
「…大丈夫かよ。壊れちゃ意味ないんだぞ」
「そうは思わない。目的が果たせるなら、こんな体ぶっ壊れたって構わないよ」
「…お前が大好きな、自分の何かを犠牲に…ってやつか」
「それだけで、大切な人が守れるんだ」
「…止めねぇよ、もう」
「止めたってやるよ、徹君は」
呆れたような声を出すユキナ。
「分かってんじゃんユッキーナ」
「…でも心配はしてるんだよこれでも」
「…当日は、ユキナとハーフ地点で見てるから俺。その繊細な体振り回して走るの期待してるよ────」
────そうだ、今日は色々なところに仲間がいる。
一人で走る。
でも、孤独に走るわけではない。
仲間がある。
大学に入った理由でもある、恵まれた仲間を求めていたそれは、果たせたと言えるだろうか。
純ちゃんが、僕のことを尊敬してくれているのは、何となく知っていた。
同い年で、同じ部活で、同じ女に魅かれた。
何となく察していたが、はじめの頃は純ちゃんもゆみのこと…。
種目は違うが、走りのスタイルは似ていた。
どこかで通じ合う彼。
その中でも、彼は僕を尊敬した。
実際こうやって上の大会で走る機会があって、その惚れたゆみとも進んで…。
たしかに、純ちゃんが僕に憧れるというのも、自分で言うのは恥ずかしいが理解できなくはなかった。
だからこそ…彼の前でだらしない走りをするわけにはいかないと思ったのだ。
「…派手にやれよ…徹」
「…どれだけ目立てるか、だね」
ハーフ地点では、宣言通り純ちゃんとユキナが待機している。
風が強く、寒い中、二人は体を寄せて震えながら僕を待っている。
「先頭集団で来ますように…」
スタートの9時10分が近付いてきた。
あとは…ウサギは────
「明日っすね…先輩」
「頑張るよ。お前の分も輝いてやるっての」
「…スタートしたら、ゴールでゆみさんと待ってます、明日」
「…僕を叫ぶゆみ見てしんどくならないのか?」
「負け犬…いや、負け兎には、相応しくないですか」
「…お前は負けたんじゃない。〝僕を勝たせた〟」
「…俺が選んだことだし…」
ウサギは、少し泣いた。
「…お前のおかげで走れてるって、本気で思ってるよ。ゴールで待っててよ。あと…僕に何があっても…ゆみを支えてやるんだよ、僕を待ってる間」
「…?…はい、分かりました。任せてくださいよ」
「ウサギ」
「はい?」
「…僕がお前の希望になるよ」
「…待ってますよ」
────9時10分。
号砲が鳴り、鍛え抜かれた繊細な筋肉を纏った戦士が、42.195kmという長い道のりの戦に挑むため、飛び出していった。
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