君が想う時

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君が想う時

マイルの予選は、徹が出場すると言ったことで士気が上がったメンバーには、ちょろいものだった。 決勝への切符をを着順で決め、午後の決勝レースに備えるためにダウンへと出向いた。 正午からのゆみの800mを観戦するため、早めに昼食を済ませた徹は、テントでそわそわしながら女子800mのスタートを待っていた。 女子800mの前に、男子800mが行われる。 最後のアップを終え、これからスタート地点へと向かおうとしていたゆみが、徹の方を見て言った。 「負けたら次から出るんでしょ?ちゃんと見ておくんだよ」 「わぁーってるよ!負けないけどさ。頑張れよ」 「ありがとう」 800m──── 人によっては、一番キツイ種目だと言う。 中学生の頃は、中距離は苦手だと言ってことごとく避けてきていた種目だ。 でもいつからだろうか。 5000mより1500mの方が得意になり、何気なくやった練習の800mでそこそこな記録が出ていたり。 確かに僕の体は中距離向きな体だとは思う。 高い背、広い肩幅、骨太でがっしりした体格、それなりに重い体重。 背が高いとか、しっかりしてるとか。 他からは褒められる。 だが、長距離種目において、決して有利な体型ではなかった。 だからある所で伸びが止まったんだと思っている。 もし負けたら、この800mが勝負の舞台になる。 それは避けたい。 やっぱり憧れの5000mの舞台で戦いたい。 それに、ゆみと… 男子800mを、普段と違う心境で眺めていた徹の後ろから、大谷が徹をつついた。 「とーおーる。小山さん走るよ。ゴール行かなくていいの?」 「純ちゃん何言っとんのお前」 「いいよ隠さなくて。ほら、行ってこいって」 なんで僕が行かなきゃいけないんだと文句を垂れながら、スタート地点に連れて行かれる徹。 「ほら、徹連れてきた」 「…んぁ、が、頑張って。じゃ」 「なぁんで帰ろうとすんの!ここで見てけよ」 「邪魔じゃない?ゆみ」 「構わないよ」 ゆみは、少し微笑み、レースに集中するそぶりを見せた。 ゆみもかなり速い。 陸上の推薦で高校に入学し、高校でもかなりの活躍をしていたそうだ。 考えてみれば、ゆみの本気の走りを見たことがない気がしている。 『筋トレしてた!』 毎日取り合っている連絡。 度々返信が滞ると思ったら、こんな出だしから始まることがしばしば。 その陸上競技に対して直向きな姿勢は、どこかで徹を焦らせた。 大学で続けるからには、生半可で終わりたくない。 その思いで入った陸上競技部。 ゆみも、全く同じことを考えていた。 練習の意欲は少なからず上がった。 ただゆみに良いところを見せたいという下心というよりは、ゆみに負けない良い成績を出したいという方が強かった。 その、本気のゆみの、本気の走り──── 生で見たことは無かった、ゆみのレース。 走り終えたゆみを見る。 背中から浮き上がって来た鳥肌を感じながら、同時に腹の下から湧き上がってくる緊張感と闘争心に体を少し強張らせた。 2分10秒01で、大会記録を更新した。 「一桁出なかったぁ…」 「…でも、凄かった…」 「ベスト出たから上出来かな。そこそこ場は湧かしたよ」 「…ちょっと…呆気にとられてる」 「ほら、次は徹だよ。マイル頑張って5000、やるんでしょ?」 「…アップに行ってくるよ」 プレッシャーで押しつぶされそうだった。 期待されてはいたゆみだが、本当に期待通りの結果を見せ、部内のテントでは既にお祭り状態。 それに続く僕は、どれだけみんなを湧かせられるか? 陸上競技はショーだ。 特に長距離のラストスパートなんてまさにな。 中学時代の、どうしても抜けなかった先輩の言葉を思い出した。 その意味が分かる。 場を湧かせた選手が勝者だ。 応援スタンドを盛り上げた者が勝者なんだ。 マイルの決勝が始まった。 だんだんと強くなる雨の中、放送で神奈川学院大学の名前が読み上げられる。1走の加藤が3レーンで高く腕を上げた。 「期待してるぜ。菅原」 3走の杉田が、徹の肩に手をのせ言った。 「ありがとよ。5000犠牲にしてでも、マイルに出るって言ってくれて」 「僕の仕事ですから。でも杉田さん、僕は5000mを捨てるつもりはありませんよ。」 「相変わらず頼もしい奴だ」 杉田は笑った。 ゆみは土砂降りの中、傘をさしてマイルの付き添いをしていた。 それを、陸兎はただ見ていた。 1走、加藤が良いスタートを決め、2走、大谷に3番手でバトンを渡す。 ラップ49秒。 大谷も順調に300mまでで2位との差を詰め、残り100mで横並びで3走杉田へ。 ラップ48。 3走、杉田で完全に2位独走となる。1位と10mほど差が開いた。 ラップ50。 そして、4走、徹。 「徹!!前見えるから!!追いかけて!!」 いつもあまり声を張り上げないゆみが、大声で叫んだ。 これを豪快に終えて、5000mでウサギに勝つ。 5000で勝ったら、そのあとはゆみとヨロシク。 ふと、前を追う自分のこのまさに今の感覚が、高校時代の直向きにやっていた陸上競技のあの感覚に近づいている気がした。 『狂犬出てきたよ…。あーあ、捕らえられた』 『あれに追いかけられちゃ生きた心地しねぇよ…』 『ほんと狂犬』 高校時代、前を狂ったように追いかける闘争心むき出しの走り方を狂犬と比喩され、他校にもそれなりに名前が知られていた徹。 僕は猫派なんだ、と文句を言いつつも、内心ではその狂犬と言う通り名が気に入ってもいた。 あの、狂犬と言われた走りに。 あの狂ったように前を追う走りが、僕に戻ってきている。 とにかく追いかけた。 この後に控えている5000mのことなど、何にも考えられなかった。 必死になっている徹は、素直にカッコよかった。 そう思えた。 こんなにも走ってる人のことを想って応援したのは初めてかもしれない。 自分でも信じられないほど、声を出した。 彼は今、私を考えながらゴールへ向かっているのかな…。 残り100m。 足が上がらない。 肩が固まっている。 もう息も絶え絶えだ。 とてもスピードを上げられる状態じゃない。 だからこそ上げる。 苦しいのは前を走る選手だって同じことだ。 もはや機械的に体を動かし、壊れそうな足をそれでも回し続けた。 じわじわと前が詰まる。 こんなに100mって長かったのか。 抜くに抜けない距離感。 手を伸ばせば届きそうな距離。 気付けば残り30m。 もうほぼ横並び。 やや後方から、ゴールラインに向けて飛び込んだ。 身長のある徹は、フィニッシュでのトルソーが規格外。 後方にいても転ぶ気で飛び込めば最後の最後に刺せたりと言ったことがしばしばあった。 形振り構わず、決死の覚悟で飛び込んだ。 ゆみにどう見られようとか、頭の片隅にもなかった。 フィニッシュラインを超えると同時に、徹は地面に転がった。 歓声が絶えない。 本当に、どっちが勝ったか分からない様子であった。 タイマーは、3分17秒69で止まっている。 だが、それを見ていた誰もが、優勝した大学がどちらかは分からない様子であった。 すっ転んだ徹の周りに、マイルメンバーが駆け寄った。 「菅原!よくやったよ!!最高だ!!」 「…はぁ……最後、抜いたすか?」 「わかんねぇ…結果待つしか」 タータンに敷いたマットのそばで、ゆみが待っていた。 「お疲れ様。ほら、5000のスパイク」 「…そうだったな」 正直、この状況で5000で14分台で走れなんて、無理な話だ。 でもやるしかない。 果たすしかない。 サバサバしたゆみの態度は、少し動揺させたが、それでも涙が溢れそうな目を見て納得した。 400m用のスパイクから、シューズではなく5000m用のスパイクに履き替えるという信じられない謎ムーブをかまし、そこでも場を湧かせる徹。 そのまま荷物を持って、5000のスタート地点まで走った。 『ただ今行われました、男子対抗、4×400mリレー決勝、1着は…』 走りながら、徹は耳をすませた。 『神奈川学院大学。時間、3分17秒69でした』 湧き上がる歓声。 小さくガッツポーズをしながら、5000mの最終コールへ向かった。 最終コールを終えると、準備を終えた陸兎が徹に近づいてきた。 「お疲れ様です。おめでとうございます」 「あんがと。おかげさんで足が回らねぇ。勝つなら今日だぜウサギ」 「今日勝って、それ以降も勝ち続けますよ俺は」 「言ってくれんな。残念だけどこの状況でも僕が勝つ。ベストを出してな」 「アンタのその闘争心はどっから湧いてんすか」 「多分8割ゆみだ。でもそれだけじゃない。5000、僕が憧れた舞台なんだ。この場でトップで走るって。それに憧れ続けて大学でも陸上やったんだ」 「今日負けたら、800移るんすよね?」 「おうよ。だからその憧れの舞台かけて走んだよ今日は。それが僕を燃やす理由」 「本気でやりましょう。正々堂々とね」 「ったりめぇだ」 いよいよ雨が酷くなると同時に、湿った空気の中に5000mスタートの乾いた音がなった。
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