君を失う日

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君を失う日

僅かな希望を持って、エスカレーターに乗った。 208号室。 今日こそ起きてるかな。 ドアを開けると、座って写真を眺めるお母さんがいた。 「お母さん!!!」 「ゆみ…」 母はゆみを見るなり泣き出した。 「良かった…良かった」 後からやってきたお父さんから、詳しい説明を聞いた。 かろうじて、一命は取り留めたこと。 でも、意識が戻ってからも、油断できる状況ではないこと。 くも膜下出血でお母さんが倒れて2日、ようやく目を覚ましてくれた。 でも、またいつ意識がなくなるか分からないって。 いつ死んじゃうかも分からないんだって。 医者は回復する見込みはゼロではないと言った。 でも何もアテにならないんだって、そうお父さんは言った。 毎日気が気でない。 高校三年間もそうであったし、大学に入ってからもそれは変わらない。 むしろ滅多に会えなくなったから、余計に不安だ。 でも私が暗くなっちゃいけないと思った。 むしろ明るく振舞おうとした。 もともとそういう人間だったから、そういう私の裏の事情は、公にすることではないと思った。 私の印象を変えたくなかった。 それは異性から見られる印象という性的なものもあったことは否定出来ない。 重い私の評判を考えて、それを拒んだのだ。 徹にも、私の裏は知られたくないと思った。 そういえばユキナに、徹とどういう関係なのかを前に聞かれたことがある。 「徹君のこと、好きなの?ゆみ」 「んーどうだろ。好意がないわけではないよ。ただ付き合いたいかって聞かれたときに悩むんだよなぁ多分」 「どこに悩むの?彼良い人だと思ってるけど」 「もう大学生だからさ、もしかしたらその人とずっとだってあり得るじゃん。生半可に選びたくないっていうか」 「なるほどねぇ。私は徹君はそういうこと考えても良い人だと思うけどな〜」 この時気付いたことがある。 徹には言ってないことだけど。 多分、ユキナは徹のことが好きなんだ。 普段の行動を見てて、察せた。 なんというか、あまり心地よくはなかった。 「徹君!!頑張って!!!」 そのユキナの声で我に帰った。 徹は先頭集団でひたすら耐えていた。残り2000mと言うところだった。 かなりのハイペースだ。 ベストと変わらない、いや、それ以上だ。 ウサギ君は、徹の4つ後ろで必死にもがいていた。 「徹君、マイルの直後なのにすごい…」 「今日相当気合入ってるからね、徹」 ユキナが徹のことを気にしている。 やっぱり少し、良い気分じゃない。 徹は残り1000mまで先頭集団に食らいつき、その頃には陸兎と50m近い差をつけていた。 そして、レースは動く。 2番手にいた選手が、先頭へ出て一気にペースを上げた。 徹がそれに反応する。 5人だった集団は3人になった。 ここで負けてられるか…っ。 もうウサギのことはどうでも良い…。 ここまできたらベストだ!! ベストを出してゴールする!! 足はもう動かなかった。 とっくに張って、まともに動く状態ではなかった。 だからこそ回した。 超えられなかった壁を乗り越えるために。 ゆみと、先に進むために…。 残り1周、400m。 ここから一気にペースが上がる。 耐えた。必死で耐えた。 残り100mまで耐え抜き、ラストスパートに備えて外側に膨らんで、前の2人に並んだ。 ────ぷつっ。 異変が起きたのはその時だった。 徹の右ふくらはぎに痙攣が走ったと思った瞬間、体を支えきれず、転倒した。 そのまま地面に転がり、立ち上がろうと腕をついたが、右足が全く言うことを聞かなかった。 その横を、陸兎が追い抜いていった。 13分台を目前にして、徹は残り50mと言うところで足を持たせることが出来なかった。 陸兎はギリギリ13分59秒98という記録を出し、ベスト更新、そしてなにより、徹に勝った。 徹はそのまま足を引きずり、四つん這いになって14分8秒77でゴール。 スタンドからは、拍手が巻き起こった。 「先輩っ!!」 ゴールした陸兎が駆け寄った。 「大丈夫すか!?肉が離れた!?」 「つ…攣っただけだ…ひどくな」 「と、取り敢えず担架!!」 本当に肉離れの一歩手前だった。 幸いにも、肉離れにはならなかったものの、尋常ではない攣りが発生し、徹の夢は、達成を目前にして消え失せた。 なんとか歩けるようにはなった徹のところに、ゆみが走ってきた。 「大丈夫だった!?」 「ヤバかった…ベストは出したけど……負けちまった…」 「でも凄かった…感動したよ…」 「怪我して這ってゴールするのに感動はしないでほしい」 「違うよ。走ってる姿にだよ」 走ってる…姿…。 そうだ…。 「…でももう、5000mのこう言うのは…約束通り終わりだな…」 「…この条件でベスト出しただけでも、続ける価値はあると思うんだけど…」 「一度決めたからね。負けたらやめると。それは守る」 「…そう」 …私と付き合うっていうことも、達成出来なかったからしないんだろうなぁと。 それを考えて、少し良い気分には、やはりならなかった。 「徹君…」 ユキナが徹の後ろから近寄っていき、か細い声を出す。 私はその良くない気分故に感傷的になった。 それが私を少し投げやりな気分にさせ、間に入るか悩んだけれど、私はそこから離れることを選んだ…。 徹が運転ができるか不安だったが、なんとか出来るようにまでは回復したようで、帰りも徹が運転する車に乗って帰った。 「…残念だったね」 「…最後まで持つと思ったけどなぁ。最後の最後で足が裏切った」 「でも…走ってる姿はカッコよかった」 「…やめてくれ…」 「……私と付き合うって話は?」 「…負けたからには、それが出来ない。悔しいけど」 「…そう…私は…良いと思うけど」 ゆみがか細く言った。 これで付き合わない、となったら、いつ付き合えるようになるか。 一度やめると言ったら、再びそれに戻ることは難しい。 かと言って…果たせなかった事実は事実。 ある意味走る糧として、ゆみと付き合うというそれを約束した。 果たせなければ…不可能な話。 だから今は…離れるしかなかった。 どうしてユキナと徹が話しているのを見てよく思わなかったか。 どうしてユキナが徹の話をしていてよく思わなかったか。 彼のことを好き、とは、また違う感覚であるようにも思えたし、単純にそうなだけかもしれないとも思えた。 何というか、分からなかった。 まともに続かなかった恋愛しかしたことがない。 だから慎重に人を選びたいと思った。 徹だって、良いなとは思う。 趣味に没頭する生き様、かと言って、私を〝愛する〟ことは忘れない。 優しい人だ。 色んなところへ遊びに行って、やっぱり楽しかった。 断る理由はなかった。 だから勝ったら付き合ってと言われてすぐ返事ができた。 でもどうしてだろうか、他の人を見てみたいと言う思いが消えないのだ。 心の中で、なぜかその思いがいつまでもあった。 多分、私は次の恋愛を、自分の中で最後の恋愛にしようとしている。 最後の恋愛。 だから、多分だけど、一歩踏み切れていない。 言ってしまえば、私に言い寄る男は多い。 多いから、疲れる。 毎日毎日遊びに誘われて、理由を考えては断る。 どうして男はこうも必死で、馬鹿で、単細胞なのだろうと何度か思った。 それを考えると、もはや彼氏なんていらない、とさえ思ってしまったのは、自暴自棄になったためだけではない。 もう空は暗くなり、いつもより少ししんみりとした空気の中、徹は初めて2人でご飯に行った店へ連れて行ってくれた。 何かを、感じた。 ご飯を食べ終えて、家まで送ってもらう。 車を停めると、徹が少し黙ってから、大きく息を吐いて口を開いた。 「…今付き合えないことは、僕の中で決まってしまっている。ゆみが心から僕を想えていないことも分かっている。…何かゆみの中で決心が着くまで…会うのをやめないか?」 「………分かった」 ありとあらゆる覚悟を決めた、徹の目は綺麗だった。 私の目はどうだったかは、徹しか分からない。
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