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「便箋が一枚15円。封筒が20円です」
その若い女は、スマートフォンを手に持ってレジの辺りをキョロキョロと見ている。
最近流行りの電子マネーだ。
「すみませんね、まだ電子マネーに対応してないんですよ。小銭が無いなら、お代は結構です」
私は便箋と封筒、鉛筆を用意した。
『…ごめんなさい』
蚊の鳴くような小さな声でお礼を言い、その若い女は、また、キョロキョロと店内を見渡した。
「みなさん、そこのテレビゲーム台を机がわりにして手紙を書かれますよ」
私が声をかけると、ふっと頬を緩めて、
『みんな、ここで手紙を書いてるって本当だったんだ』
笑ったように見えた。
笑ったと確信が持てなかったのは、その若い女の笑みにはぬくもりという要素が欠けていたからだ。筋肉を笑みの形に動かしただけ。目の前にいる私をテレビ画面に映る異次元の存在のように思っているのか。
そう邪推したくなるほど、作り込まれた顔貌だった。
テレビゲーム台の上をハンドバッグから出したウエットティッシュで几帳面に拭き上げ、まるで難しい試験を受けるように背を丸める。全身に過剰なまでの気迫をみなぎらせて便箋に向かい合う…と、
『すみません。おわびって、どんな漢字でしたっけ?』
尋ねられて咄嗟に思い出せずに、国語辞書を渡した。
『パソコンばかり扱ってたら漢字書けなくなっちゃってるなあ…』
照れ隠しなのか、独り言を呟きながら辞書を引く。
『あった。゛お詫び゛こんな字だったかなあ…あんなに勉強頑張ったのに。全部忘れてる』
「仕方ないですよ。人は忘れるようにできてるんです。何もかも思い出だからって背負い込んでたら辛いでしょう」
『幸せな思い出は忘れたくないわ』
「そうですねえ。しかし幸せな思い出に囚われている時は、たいてい人は不幸せのど真中だっていいますからね…」
『不幸せのど真中の時に、幸せな思い出に囚われる…そうね。あの時に戻れたらって後悔するものね…』
余計な事を言ってしまった。
私はカウンターから外を見た。
雨は激しくなる一方で、雨粒がアスファルトにぶつかって白い水しぶきが上がる。
かりかりと、鉛筆の音がする。
ずいぶん長い手紙を書いているらしい。
…小学校から『愛の鐘』が鳴った。
ああ、もう五時かと、私はテレビゲーム台を振り返った。
そこには、便箋と封筒、鉛筆が残されていた。
几帳面な小さな字…米粒のような大きさなのに楷書でキッチリと書かれている。そういえば、経理の仕事をしている友人が、こんな文字を書くなと思い出した。
綴られた手紙には、繰り返し『死んでお詫びします』と書かれていた。宛名は聞いたこともないような地方の信用金庫宛になっていた。
私は便箋を丁寧に三つ折にして封筒に入れると両面テープのシールを外して封をした。レジから切手を取り、ベロリと裏をなめて封筒の左上に貼り付ける。
そして、テレビゲーム台の上にそっとのせてみたが…何も起こらない。
当たり前だ。
店に現れる客たちは、この文房具屋で代金を支払って手紙を書く。
あの若い女は、代金を支払えなかった。
だから、手紙がここに居残ってしまったのだろう。
私は雨ガッパを羽織ると、店の斜め前にある郵便ポストに手紙を投函した。
安物の封筒に雨粒が染みを作った。
米粒のような鉛筆の文字が滲む。
かさっと封筒がポストに吸い込まれていくと、私は途端に余計な事をしてしまったのではないかと激しく後悔をはじめた。
ポストに入れてしまった手紙は、必ず宛名先に届いてしまう。
その事を、あの若い女が望んでいたのか。
作り物の笑顔の裏側で、何を思っていたのか。
通りすがりですらない、ただの文房具屋に人の心の奥深くなどわかるはずも無いのではないか。
いつものように、忘れてしまうことだ。
私はしばらく、ポストの前でぼんやりと立ち尽くしていた。
また、明日には新しい客が手紙を書くために店に来るのだろう。
それだけは揺らぎなく、私の日常なのだと思った。
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