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本編
いつから世界はこんなにも味気なくなったのだろう。
耐える胸の奥、私は独りで泣いていた。
灰色の町並みは、ただただ私を責めるばかりで。
だから、だろうか。
その中で貴方だけが色を持っていたのは。
だから、だろうか。
私がまるで祈りにも似た気持ちで貴方に近付いたのは。
「お一つ、どうぞ」
湿気た空気を鼻で嗅いだ君は、雨の降る気配を察したのだろう。
徐に傘を広げて、僕をその中に呼び寄せた。
「こっちに来て」
泣き出しそうに震えた声。
僕はそれに抗うことが出来ないのだ。
ふらふら、ふらり。
頼りない足を前に進めて、僕は君の元に行く。
こんな僕たちにも雨は優しく降り注ぐ。
食パンを焼いて、バターを塗って、お気に入りの曲を口ずさむ。
そしたら、貴方が部屋から出てきて、私を後ろから抱き締めるの。
その瞬間、世界が変わった気がした。
昨日の雨なんてまるで嘘みたいに。
昨日の悲しみなんてまるで嘘みたいに。
私はただの幸せな女の子。
貴方が嬉嬉としてそう言うから、私も少しは信じてみようと思う。
今日は昨日の雨が嘘のように晴れていて、けれども昨日の名残のように、ぽつんと水溜りだけが寂しそうに残っていて。
僕は君と水遊びをした。
きらきらと輝く世界の中。
僕は君と出会えたことに感謝したい。
昨日、傘を差し出され、毒林檎を食べて。
けれども僕は、そんな人生でも良いんじゃないかと思うんだ。
大切にすることと、犠牲になることの違いは一体何なのかしら。
優しく生きていきたい。
逞しく生きていきたい。
何者にもなれなくていいから、ただただ、群れることなく、明日を信じられる強さを。
私はただ、それだけを欲していたはずなのに。
貴方までも欲しくなったのは、どうしてなのかしら。
「こんなにもいい天気の日は、ちょっとだけ懐かしくて、逃げ出したくなるね」
そう言った君の目の前で、昔の自分を捨てられないのは僕の弱さ故か。
君の悲しみの種を救うような強さを僕は持っていなかったみたいだ。
あぁ、僕の耳に、さよならの呼び声が聞こえてくる。
貴方にキスを強請る。
貴方は優しく笑ってキスしてくれる。
でもね、私は知っているの。
その唇に触れたことがあるのは私だけじゃないってこと。
その唇に触れさせたいと貴方が思っているのも、決して私だけじゃないってこと。
「お下がりなんてやめて」
私の言葉に、貴方は困ったように笑うだけ。
蜂蜜をかけた林檎を手に、君は僕の前にやって来たっけ。
赤く色付いた唇をあげて、君は僕に笑いかけてきたっけ。
「お一つ、どうぞ」
くらくら、くらり。
僕はそんな君に眩暈がして、見事君の罠にハマったというわけだ。
くらくら、くらり。
僕は一齧り、何も知らずに口にした。君の、毒林檎を。
ゆっくりと瞬きをする。
そうすれば、まるでこの世界から逃れられるとでも思っているみたいに。
貴方が私から離れた方が良いと思っていることには、随分前から気付いていたわ。
でも、私は信じたくなかったのよ。
貴方の腕に抱かれたあの子を見るまでは。
ねぇ、だから。
そんなのは、嘘だと言って、違うと言って、私を信じさせて。
いつだって君は囁き声でそう言うのだ。
まるで捨てられた子どものように。
僕はそんな君の手を振り払うことが出来なかった。
まるで騙されたピエロのように。
君は僕の肩に縋りつく。
啜り泣いて、僕を求める。
それでも本当は君も気づいているんだろう?
だからいつだって君は言う。
「違うと言って」
釣り合わないことくらい分かっていたわ。
それでも、あの子に憧れてやまないのはどうして?
今にも壊れそうなことにも気付いていたわ。
けれども、貴方を手放せないのはどうして?
さようならと今にも告げそうな貴方のその口元が寂しげに。
あぁ、さようならの予感しかしないわ。
限りなく残念な真実を挙げるとするなら、僕がかなりの強かな男だってことかな。
たぶん、君が思っているよりも、ずっと。
僕は狡い人間だ。
それでも君は僕を愛してくれるというから、最後の最後まで、甘えても良いだろうか。
君は僕を恨むのかもしれない。
君は僕に愛想を尽かすのかもしれない。
それでも君の中に僕が居続けることが出来るのなら。
わかっていたわ。
そろそろ終わらせなければならないってこと。
貴方は優しいから、優しくて残酷な人だから、いつも私の側にいてくれた。
それがどれほど酷いことか。
貴方は気付かなかったのでしょう?
だから最後も私に言わせるのね。
本当に、酷い人。
それでも、私は貴方が好きでした。
「さようなら」
「さようなら」と告げた君の顔が脳裏から離れないのは、きっと君が優しすぎたせいだ。
離れたいと思ったのは僕の方なのに。
そのはずなのに。
どうしてこうも、君はいつだって僕の心を掻き回すんだ。
そんなこと、聞いていない。
別れが辛いなんて、一番初めに言っておくべきだろう。
降り注ぐ雨の優しいうちに。
切ない想いはいつまでも心に残るから。
そしてそれは、重い枷みたいに私を縛り付けるから。
雁字搦めにされたまま、さようならを告げたあの日から今日もまた眠れぬ夜が過ぎて行く。
貴方にも、そんな日は来るのだろうか。
そんな夜は誰と過ごしているのだろうか。
少しでもいいの。
ほんの少しでも、私を、思い出してくれていたら嬉しいのに。
君には感謝しなくてはならない。
もし、君と出会えていなければ、こんなにも苦しいなどと思うこともなかったのだから。
こんなにも世界が哀しくも愛しいものだと知ることもなかったのだから。
さようならだと囁いた君は決して間違えてはいなかった。
後悔はしていないよ。
けれど、雨雲の下、こんな日は懐かしいあの日々を思い出してしまうんだ。
穏やかな風なのに燻るのは昨日の名残りかな。
匂いは優しく私を過去へと誘う。
それでも、忘れられないことは鉛のように。
もしもあの日、貴方に「さようなら」ではなく「大好きよ」と言えていたのならば。
ここにも鮮やかな花が咲き誇ったのでしょうか。
貴方もまた、私に愛を返してくれたのでしょうか。
例え、君と別れたとしても。
世界は何も変わらないのかもしれない。
それでも空には星々が瞬いている。
それでも海には夕日が落ちてゆく。
君には、そのことを知っていて欲しい。
そう思うのは、僕の我侭なんだろうね。
結局、帰る場所は見つからなくて、中途半端な私は元にいた場所にも帰れなくて。
雪は私を幻想的な世界へと連れてゆくけれど、その身が悴む程の寒さと共に、私は見知らぬ故郷を探している。
とてつもなく、寂しくて。
私は何処へ向かえばいいのかな。
貴方はもう私のものではないのに。
朝日の中、覗く自分の顔はあまり好きにはなれない。
あの日の僕が、君を手放したあの日の僕が、今の僕を責めているような気がしてしまうから。
さようならのうたを貴方は口ずさんでいた。
穏やかな海を私はただ見つめるばかりだった。
夕日の落ちてゆくその様を。
思い出すばかりでは何の解決にもなりはしない。
取り戻したいのなら、もう一度歌わなくちゃならないのかもしれない。
だから、そっと歌い続けていよう。
貴方の愛した、やさしいままの自分であれるように。
やさしい雨音はあの頃への回帰路線。
僕はさようならのうたを歌っていた。
穏やかな水面。
夕日に照らされる美しい君の横顔。
潮風が僕らを攫い、そのままふたりだけの小宇宙で暮らしていけたらいいね。
そんな小さな願いさえ、大きな罪には抗えなかった。
どうしようもなく懐かしくなる。
それはこの地に吹き抜ける風のせいかしら。
再び二年前のあの雨の日が始まるのかもしれない。
チョコレートケーキだけが私の罪を甘く溶かし、許しを得た気がした。
例え、この場所に戻ってはいけなかったのだとしても。
泣きたいのなら無いてしまえ。
緩やかに続く下り坂を、今日の僕は全力で駆けてゆく。
君がこの街に戻ったと知り、嬉しくないわけがなかったのだから。
早く会いたい。
どうしようもなく、これが最後なのだと知っていたから。
迷子の子どもが啼いていた。
夕方五時の公園で。
ブランコだけが寂しく揺れている。
ブランコで遊ぶ子どもは一人だけ。
それでも空は優しいから。
それでも橙色の夕焼けが愛に満ち溢れていたので。
子どもは泣いてさようならをした。
残された私は、たった一人きりで鳴いていた。
離れてゆく子どもの手に、幾重もの未来を重ねて。
「どうして? どうしてそんなこと言うの?」
彼女は瞳に涙を溜めて、僕を見つめた。
「折角、再会したのに……」
君の涙は僕への誘惑。
振り払って、僕は公園を去ってゆく。
とてもじゃないが、僕の涙は見せられなかった。
貴方たちは無意識のうちに私の心をずたずたに引き裂くのね。
ちっとも気付いていないのでしょう?
ずたずたに引き裂かれた私の心はまるでぼろ雑巾のよう。
私だって、女の子なのよ。
……愛して欲しかったに決まっているわ。
去った後、思ったんだ。
君の人生を捻じ曲げる必要などあっただろうかって。
こんな僕に振り回されて、君はきっと恨んでいるのだろう。
でも、それで良いんだ。
恨んで怒って、悲しんで。
そのまま、ずっと、僕のことを忘れないでいて。
君の中で真っ白になってしまうより、悲しい記憶として残っている方が何十倍も嬉しいのは、どうしてだろう。
人間の九割は嘘でできている。
またね、なんて嘘ばっかり。
守れない約束をしてはいけないわ。
……いいえ、いいえ。
さようならと告げたのは私の方だったかしら。
カラカラ、カラカラ。
最近、骨の軋む音が大きくなってきている。
不安を覚え、空を仰ぐも、繰り返されるのは自分の鼓動のみ。
トクトクと速く可愛らしい君の鼓動は、ちっとも聞こえやしない。
今度こそ。
パチンと鼓膜に響く終焉の踊り。
鈴蘭のように鮮やかに。
気球は高くどこまでも。
空に溶けてなくなるまで。
貴方だけが、私の中に取り残されている。
まるで水の中にいるみたいだ。
呼吸さえままならない。
苦しくて、苦しくて。
息も出来ずにただ死を待つのみで。
ふとした気の緩みで、身体中を満たしている泡という生命力が流れ出てしまいそうだ。
こんな風に生きてゆくのなら、僕はもういっそ死んでいきたい。
隣に君がいない世界なんて、どうせ耐えられやしないのだから。
もしも、貴方の瞳に映る景色を見ることが叶っていたのなら。
私はこんなにも苦しまなくて良かったの?
そのことで、一体私は誰を恨めば良いの?
貴方をこんなにも愛しているだけなのに。
それだけなのに。
喉元にある傷を触ったら、ちょうど自分を絞殺出来そうだった。
このまま、死んでしまおうか。
君はもう隣にいないし。
あと幾ばくかの命だ。
少し早めたところで、大したことではないだろうから。
……僕が死んだ時、君は、僕のために泣いてくれるんだろうか。
ごめんなさい。
もう貴方を忘れる事なんて出来ないわ。
決して。
ごめんよ。
もう君を抱き締める事は出来ないんだ。
絶対に。
世界に溶け出すは幸福のお菓子
おやすみ、世界
滲んだ明日に託すは希望
世界は広く
言葉は宇宙
僕は空飛ぶ夢を見る
地球はまんまるく出来ている。
私は今日もあいを探している。
雨が、降り出した。
傘は、忘れ去られたまま。
僕は、君を心から愛していた。
***********
僕の父は、詩人だった。
父の作品はベストセラーになるような、教科書の一番初めのページに載せてもらえるような、そんな立派なものではなかったけれど。
いつも、国語の便覧の、一番隅の方に載っていた。
小さく掲載されている自分の作品を、毎年、彼は誇らしげに僕に見せてくる。
それが僕の父だ。
彼は自分の作品を十分に堪能した後、国語の教科書の一番初めのページを開く。
自分の作品が一度も載ったことがないその場所を、愛おしそうに撫ぜ、何故か泣きそうな表情をするのだ。
そんなに教科書に掲載されたいのか、と思い、僕も同じように毎年、そのページを何とはなしに眺めていた。
父と肩を並べながら。
その初めのページには大抵いつも同じ人の詩が掲載されていた。
その人は、名前から予想するに女の人らしく、繊細かつ情緒に富んだ作風だった。
一度、父に聞いてみたことがある。
「お父さん、ここに載っている人と知り合いだったりする?」
ちょっとした好奇心のようなものだった。
知り合いじゃないだろうと思っていたし、知り合いだったとしても、ちょこっと顔を合わせたことがあるとかそんなところだろう、と。
だから、父が酷く切なげな表情をして、遂ぞ僕の質問に何も返さなかったことは印象的な出来事だった。
そんな父が先日、亡くなった。
長い闘病生活の果てのことだった。
そして、その翌日、死んだ父の後を追うように、母も死んだ。
彼女は家のリビングで首を吊っていた。
警察の捜査が入るも、結局、自殺ということだった。
警察が僕に手渡したのは、たった一枚の紙きれだった。
母が死ぬ前に握っていたものだ。
そこに書かれていたのは、一つのURLだった。
警察はそのサイトも調べたけれど、特に何も気になるものは見つからなかったのだとか。
「何か心当たりはありませんか」
彼らの質問に、僕は何も答えられなかった。
でも、ほとんど直感的に、そのサイトが母の死の原因のような気がしていた。
僕の母は、自殺をするような人ではない。
なぜなら、彼女は父の葬式で僕にこう言ったのだ。
「しばらくは苦しくなるかもしれないけど、二人で一緒に頑張っていこうね。お父さんの分までちゃんと生きていこうね」
確かに、疲れた顔をしていたのかもしれない。
けれど、その瞳は十分生気に満ち溢れていたはずだ。
僕は渡された紙きれに書かれたサイトを開いた。
淡い黒を背景に、掲示板の機能だけがつけられている、とてもシンプルなサイトだった。
そこには、二人の男女の愛が綴られていた。
交互に紡がれるその言葉たちは、どこか懺悔の色を纏っていた。
まるで会話のような、物語の断片のような、そんな愛の文通は詩的な表現で描かれていた。
彼らは出会い、そして別れた。
原因は、どうやら男の家庭に子供が生まれたことだった。
しかし、二人は未だ愛し合っていた。
逢瀬を重ねることは出来ずとも、愛を伝え合うことは出来たのだ。
その情緒溢れる文才を、この掲示板という形をした「手紙」に載せて。
彼らは愛し合っていた。
幸せな家庭のその裏で。
僕や母さんを愛するフリをした、
その裏で。
母が死んだ原因も、記憶にある父の切なげな表情の原因も、すべてを理解した僕は思う。
愛なんて、糞くらえだ。
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