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#01.Ordinary world
オレはゲイではない。
彼に対する感情は特殊なものだ。手を触れると壊れてしまいそうな存在。憧れに似た不思議な感覚だった。思いを告げなかったのは正しかっただろう。自分でもどうしたいのか分からなかった。あの容姿に魅かれていたのは確かで、キスしたい衝動に駆られたこともある。身体を欲したことも……
だが一線を引くことができた。それでよかったんだ。何もその時の感情で傷付け合うことはなかった。きっとその欲望を露にしても報われなかっただろう。
――オレは “正しい選択” をした。
職場で知り合った女性と結婚し、子供も儲けた。彼女は勤務先の病院で受付を担当していた。挨拶に始まり、何度となく会話を交わし、いつの間にか親しい関係を築いていた。それは自然な流れで、彼を忘れようとしたからではない。側にいると落ち着くのが彼女で、ずっと側にいてほしかった。
家庭は円満だ。時には些細なことで口喧嘩もするが、彼女に不満はない。完璧とは言えないが、それも含めて愛している。この暮らしに満足しきっていると強く言い切るわけでもないが、この家庭が安住の地になっている。
――オレは“幸せ”なんだ……
これにいったい何の不満があると言うんだ? ぽっかり空いた穴なんて、きっと誰にでもあるものさ。完全に満たされた感覚に浸れるのはSEXで絶頂に到達した時ぐらいだろう。満たされない何かが潜伏しているのなら、そんなものはずっと心の奥深くに沈めておけばいい。荒波を立てて船が転覆しないよう、それに重たい鉄の蓋をして、自然分解されるのを待てばいい。考えては駄目だ。それを放置して流されてはいけない。 計器を狂わせる磁場の強力な海域に潜り込んだら、船はその渦中に飲み込まれ、それに乗っている家族もろとも溺れ死んでしまう。 だから、沈めておいたほうがいいんだ……
穏やかに時が流れ、繰り返しのような変化の小さな日々を送る。
そしてまた今日も同じ節を繰り返しのように綴る。
普通の世界“ordinary world”という平和に感謝して……
「パパ」
娘の小さな手がオレの頬に触れた。ベビーベッドの上で空を掻いている。毎朝の習慣で、オレはその小さな天使――ルーシェの頬や額にキスをした。ライトブラウンの巻き毛と同系色の瞳は母親譲りだが、不思議と日によって顔がどちらかに似てくる。
「今日はパパにそっくりだなぁ〜?」
指でマシュマロみたいな頬をつつくと娘は笑った。つられてこっちも笑顔になる。
「いってらっしゃい」
妻の声。こちらも毎朝かかさない。妻は必ず出かける前にはキスをする。彼女いわく
「喧嘩をしても、こうすれば気持ちが穏やかになれるでしょ」
夫婦円満の秘訣らしい。
本当にそうなんだろうか。苦笑気味にそれに応じるオレに、妻は拗ねた顔で「もう〜とぼけちゃって。大事なことよ」
とぼやく。
こんなやりとりも今日に始まったことではなく、これは喧嘩の素にはならない。
時には妻へのご奉仕もしているからだろう。――これも夫婦円満の秘訣なのかもしれない。
――to be contined――
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