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響留との出会い
11月1日は、ハロウィンの翌日である。
人間の世界では何でも当てはまる事であるが、イベントがあるその日までは世間に用意されたイベント用のあらゆる物に付加価値がかかる。
逆に言えば、その日が過ぎてしまえば、付加価値がついたあらゆる商品がその価値を失う。
パッケージにハロウィンと書かれている物のうち、来年のその日に向けた商品に生まれ変われる物は、いったいどれくらいあるのだろうか。
私はほとんど無いのではないかと感じている。
それがニッポンの人間社会が作り出した消費循環システムである。
もったいない、物を大切にせよとその反面で人はいうが、消費循環システムの中にあっては、抗いようのない現実である。
では、ペットとして生きる私たちはどうか。ここでもニッポンの人間のシステムの中で、私たちは飼われ、そして生涯を終える運命にある。
野良猫は気楽と言われた時代は、もはや昔の事である。
外を歩けば車にひかれる可能性は高く、野良猫は駆除という言葉で捕らえられ、殺処分されるのが現実である。
それにしても殺処分という言葉のひどい響きには、言いようのない不快感を覚える。
ちなみに、行政が行うペットの殺処分は1年間で数万頭を超えるそうである。
さらに、善人のふりをして食事に毒を盛る人間、虐待目的で猫を捕らえるものなどが後が絶えない。
ペット保護法という法律が出来て、ペットに悪さをした人間を法的に罰する方法が作られたが、それでもなお悲劇は繰り返される。
憤りとともに、人間はどこまで心に闇を抱えているのかと、不憫にさえ感じることもある。
きっと人間も生きにくい世界で生きているのだ。
だがしかし、その世界を作ったのは、他ならない人間自身である。
響留が少し前に読んでいた本には、強いものが生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残ると書いてあった。それは遠い昔の恐竜時代から現代まで続く、進化の過程を説いたダーウィンという人の言葉のようだ。
なるほどね。
それは私たちにもいえることだ。
しかし、そうであっても私たちは私たちでありたい。
それが私たちの誇りである。
私は誇り高い猫族なのだから。
しかし、ダーウィンも知らないことを私たちは知っている。
肉体は滅びても魂は連綿と繋がっているのだ。
そして、全ての魂は再び大切なものに出会う日を楽しみにしているのだ。
歴史が繰り返されるように、魂もまた繰り返し出会い、別れ、きっと次こそは悲しみがないようにと、少しずつ全てがきれいになっていく。
私はそれが歴史の本質であると思っている。
さて、あの日、ハロウィンセールで売れ残っていた私は、響留と出会った。響留はたまたまペットショップで出会って、一目惚れして、つれて帰ったと後付けみたいに言っているが、響留は私の真の能力を知らない。
私はきみを待っていたのだ。
ずっとね。
そして運命という魔法を響留にかけていたのだ。
だが、もしあのまま売れ残っていたとすれば、私の運命はどうなっていたのだろうか。
人間の消費循環システムから外れたものの末路は、もはや商品にも戻れない悲惨なものなのだ。
それでも、もしそうなっていても、きっと私と響留は出会っていたと言い切れる。そう信じている。
それが私と響留の絆だ。
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