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居間からは母たちの笑い声が聞こえてきた。
手紙を手にしたまま惚けていた私はその声にはっとした。馴染みのない人物の物語を読んでいるようだった。あの兄が、あんな男が。静かなる衝撃が凪いでいた私の心の内を揺さぶってくる。
手紙からすすり泣きすら聞こえてきそうだった。
両手で顔を覆って背中を丸めて俯いて、しまいには小さくうずくまってしまった人物が私の目の前にいるかのようだった。インクの文字がところどころ滲んでいる。水分を含んで乾いた紙がごわごわになっていた。
この涙の主は私よりもずっと兄のことを知っている。
私の気持ちをすべて吐露しても、おおそらく主ほどのものは出て来ない。
兄の死はこの人の心を打ち砕いてしまっていた。
ふと、子供のころに庭の柿の木に兄と一緒に登ったことを思い出した。部屋の窓を見る。あの時の柿の木は広げた枝にみずみずしい葉を宿らせている。梅雨空から差し込んだ日差しに緑が輝いていた。
柿の木の根元では雪合戦もした。母が作ってくれた毛糸の手袋は、私が黄色で兄が赤色だった。雪玉をまるめながら幼い兄は鼻を赤くして笑いころげていた。
いままで思い返すこともなかった記憶がいまになって次々に浮かんでくる。
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