タイムバレット〜竜馬VS21人の侍〜

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 坂本龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が江戸幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商酢屋を京都での拠点にしていた。慶応3年10月頃には近江屋へ移った。近江屋は醤油商として蛤御門の変以降土佐藩の御用を務めており、その屋敷は土佐藩志士の基地的な存在であった。  坂本龍馬が暗殺されるという風聞は当時から広く流れており、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪れて、国事を2時間ほど語り、伊東は「新選組と見廻組が狙っている」と告げたという。薩摩の吉井幸輔は「四条ポント町位ニ居てハ、用心あしく」として土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めたが、龍馬は「(薩摩藩邸にこもることは)実にイヤミにて候ば」と返答し、近江屋に留まった。また山田藤吉を従僕として雇い入れたのもの用心のためであった。  近江屋は誓願寺への逃亡も容易な土蔵を構えており、龍馬はそこに滞在していたが、11月12日頃から風邪をひいていたため、11月14日には近江屋の二階に移っていた。  11月15日(グレゴリオ暦12月10日)、七ツ半(午後五時)頃、中岡は書店であった菊屋を訪れた。中岡は主人の息子である鹿野峰吉に手紙を渡し、錦小路の薩摩屋[8]に持参して、返事は近江屋に持ってくるよう告げた。中岡は途中で土佐藩士の谷干城の下宿を訪れたが、不在であったためそのまま近江屋に向かった。  六ツ半(午後七時頃)、薩摩屋からの返書を持った峰吉が近江屋に到着した。  その頃龍馬と中岡は何事か話し合っていたが、峰吉が中岡に返書を渡した後、岡本健三郎が入ってきた。  小半時ほど雑談した後、龍馬が腹が減ったと言い出し、峰吉に軍鶏を買いに行かせ、用事があった岡本も峰吉と同行した。峰吉は四条小路の島新に向かい、軍鶏肉を購入して近江屋に戻ったのは五ツ半(午後九時頃)だった。  夜になり客が近江屋を訪れた。 谷干城が中岡から聞いた証言によれば、客は十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。応対に出た山田藤吉は、名刺を龍馬のもとに持っていった。藤吉は戻っていったところで斬られた。谷は藤吉が龍馬らが襲撃された八畳間で倒れていたと証言した。峰吉はこれに対して、藤吉が階段下で斬られていたことから、取り次いだ形跡はないとしている。  今井信郎は刑部省の口上書において、五ツ半頃、松代藩士を名乗って応接を求め、四名が部屋に上がっていったと証言している。  藤吉が倒れ、大きな物音がすると、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と叫んだ。このあと二人の刺客が奥の八畳間に乱入、一人は龍馬の前頭部を横に払い、一人は中岡の後頭部を斬った。龍馬は奥の床の間にあった刀を取ろうと振り返ったところを右の肩先から左の背中にかけて斬られた。  龍馬は刀をとって立ち上がったが、抜くには至らず、鞘のままで刀を受け止めた。しかし刺客の刀は鞘ごと刀を削り、龍馬の前頭部に大きな傷を与えた。  龍馬は「石川(中岡の別名)、刀はないか、石川、刀はないか」と叫びつつ倒れた。  中岡は刀を屏風の後ろにおいており、刀を抜くこともできずに鞘のままで防戦していた。しかし最初の傷が深く、両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断されるほどであった。  また臀部を骨に達するほど斬られたが、中岡は死んだふりをしていた。刺客は「もうよい、もうよい」と叫び、引き上げた。  間もなく気がついた龍馬は、刀を灯火にかざし「残念残念」と言い、「慎太、慎太、手は利くか」と言った。中岡が「手は利く」と答えると、龍馬は六畳間のところに行き「新助医者を呼べ」といった。それからかすかな声で「慎太、僕は脳をやられたからもうだめだ」と言い、昏倒した。中岡は痛みをこらえ、裏の物干しに出て家人を呼んだが返答がなく、屋根を伝って北隣の道具屋井筒屋嘉兵衛の家の屋根で人を呼んだが返答はなく、そのままそこにとどまった。  凶行時、近江屋主人の井口新助は、妻子とともに一階の奥の間にいた。河原町通りを隔てた真向かいにあった土佐藩邸に知らせようとしたが、見張りがいたため引き返した。新助は妻子に落ち着いて声を立てないよう言い、裏口から土佐藩邸に向かった。  新助の連絡を受け、下横目の嶋田庄作が駆けつけた。  同じ頃、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた峰吉が戻った。嶋田は周囲を警戒し、峰吉が室内を確認したところ、階下で倒れていた藤吉と、部屋で倒れている龍馬を発見した。 また井筒屋の屋根の上にいた中岡も発見された。  現場には犯人のものと思われる刀の鞘が残されていた。続いて嶋田、新助、新助の弟新三郎、新助の妻と子が上がり、力を合わせて中岡を室内に戻した。  その後、土佐藩邸から曽和慎八郎が到着し、続いて陸援隊の谷干城、毛利恭介が駆けつけた。龍馬はこの頃すでに事切れていたという。更に土佐藩医師の河村盈進が到着し、中岡と藤吉に手当を行った。  中岡は峰吉に、陸援隊に伝えるよう言い、峰吉は白川の土佐藩邸に向かった。  報を聞いて陸援隊士の田中光顕が薩摩藩の吉井幸輔をともなって駆けつけた。  陸援隊士本川安太郎も駆けつけている。中岡はこの際、土佐藩らに襲撃された際の状況を伝えている。  また隊士たちに後事を託し、鯉沼伊織(香川敬三)には岩倉具視への連絡を頼んだ。  また海援隊隊士の白峰駿馬らも現場に駆けつけたという。  藤吉は16日の夕刻に死亡した。中岡は11月17日の夕刻に死亡した。  月齢 20.9、中潮。  中岡は最後まで速やかな倒幕を訴えていたという。  18日、海援隊と陸援隊によって三人の葬儀が行われた。龍馬と中岡の墓碑銘は木戸準一郎(木戸孝允)が筆を執った。  下弦、月齢 21.9、中潮。  龍馬と中岡の死は倒幕派に大きな衝撃を与えた。岩倉具視は「何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る」と嘆き、太宰府にいた三条実美は寝食を忘れるほど慟哭し、12月20日には両名のために祭壇を作って霊を祀っている。由利公正も同士とともにその霊を祀っている。    
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