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五分あればー②
悩んだ末に、俺はそれを持ち帰ることにした。金属をその辺のゴミ箱に捨てるわけにはいかないし、なによりモクアミの言動が気になったからだ。
もし、本当に時間を止めることができるなら。電車を降り、人気のない住宅街に入ったところで俺は装置を取り出す。
一度だけ深く息を吸い、目を閉じてレバーを手前に引いた。
恐る恐る目を開けるが、何も変化は見られない。
「……ふん、子供だましにまんまとひっかけられたわけだ」
しかし、そう思えたのは一瞬だけで、すぐに俺は違和感に気が付く。静かすぎるのだ。
まだ真夜中というわけでもないのに、通りの家からはテレビの音どころか物音ひとつ聞こえてこない。妙な焦燥感に駆られながら、俺は帰路を急ぐ。
コンビニに通りかかり、中途半端な位置で開いたままの自動ドアと電灯の周りで標本のように釘付けになっている大きな蛾を見たとき、それは確信に変わった。
今、この世界で動いているのは俺だけなのだ。
なるほど、ポケットにおもちゃを仕込んでから鞄に装置を忍ばせるなど簡単なことだったろう。
俺はぴくりとも動きやしない自動ドアの前で馬鹿みたいに突っ立ちながら、笑った。
*
次の日も俺はいつも通りの時間に起きた。時間を止められる能力を得たとはいえ、制限がないわけではない。無意味に朝寝坊をして使うことは得策ではないと判断したのだ。
それに、こんな都合のいい能力に代償がないというのも疑わしかった。本当はあの青年は悪魔か何かで、この装置を使うたびに俺の寿命が減ったりするのではないか。そんな不安もあり、俺は時間を止めるのには慎重になろうと決めていたのだ。
心配ない。時間を止めるなど、物語では主役が使うような反則級の能力だ。使いどころを間違えなければ、ごく普通の会社員の人生など失敗するはずがない。鞄の中から覗く赤いレバーを確認し、俺は朝日さえつかめそうな万能感に浸っていた。
それからの数日は、まさに”ツイて”いるというのが相応しいくらいの調子のよさだった。いつでも失敗を取り返せるという自信にあふれた態度が功を奏し、取引先との商談は全て好調に進んだ。また、余裕を持った仕事ぶりも高評価だった。
当然である。六十分に一度の制限をフルに活用したとすれば、俺は一日を二十六時間で過ごせるのだから。現実には睡眠をとる必要もあるのでそこまで使えることはないが、それでも他人よりも多くの時間を持っているというのは大きなアドバンテージだ。休息するのも思いのままだし、当然作業に使ってもいい。
時間が止められるからと言って大それたことをやらずとも、成功はつかめるのだ。想像していた代償の請求も来ない。俺はだんだんと、この装置の使い方に慣れだしていた。
*
しまった、もう終業時間か。時計の長針が頂点を過ぎたのを確認し、こっそりと鞄の中のレバーを倒す。
あの青年に出会ってから数か月、職場での高い評価を得た俺にはより難しい仕事が回されるようになっていた。たった五分とはいえ積み重ねれば結構なものになる。俺にとっての一時間はもはや六十五分になっていた。
「…ここまでにしておくか」
俺はため息をつき、時間が動き出したのを確認して帰り支度を始める。
人目がある中では大きな動きが出来ないのが難点といえば難点だ。それをうっかり忘れて瞬間移動まがいの騒ぎを起こしてからは、周りの目には気を付けている。
人がいなくなるのを待って使えばいいだけなのだが、一時間に一回しか使えないと思うと、機会を待つわずかな時間さえロスに思えた。使える物なら最大限に活用したいというのが人情ではないだろうか?
今の俺は枕元にレバーを置き、朝起きたらすぐに五分間の余剰を使えるようにしている。さすがに一時間ごとにアラームをセットする気にはなれないが、あの青年がまた現れて「十分あればー」をくれないかとは真剣に考えている。
が、そんな空想ばかり言ってもしょうがない。俺は会社を出て駅へと急ぐ。乗るのはいつもとは反対方向の都心へと向かう電車だ。今日は待ちに待ったデートなのだ、遅刻するわけにはいかない。
電車の中で携帯電話を取り出し、時間を確かめる。これなら約束の十分前には着いているだろう。それもこれも、レバーによる積み重ねのおかげだ。
しかし、誰かといる時には時間を止めてもあまり意味がない。特に恋人と二人きりの時なら尚更だ。デートは二人で時間を共有することにこそ価値があるのだ。止まった時間の中で、俺だけが彼女の顔を見つめて何になるだろう?
俺はレバーを鞄の奥底にしまい込む。
どうせさっき使ったばかりだし、仕事中のように神経質に時間を気にする必要はない。鞄をしっかりと持ち直し、俺は改札へと向かった。
ベンチに彼女の姿はまだない。想像通り、俺が先に到着したようだ。
俺はそっとコートの上から胸ポケットを抑える。そこにある小さな箱の感触は、期待と不安をかえって増長させるようだった。
「お待たせ!」
一服する間もなく、改札から出てくる人の流れに交じって彼女が現れた。慌てて俺は箱をポケットへと押し戻す。今これを彼女に見られるわけにはいかない。
「あ、もしかして煙草?」
「いや、吸ってないよ。禁煙はなんとか継続中さ」
「嘘言っても匂いで分かるんだからね?…でも、今日は本当に吸ってないみたい」
「だろ?信じてくれよ」
「うん、ごめん。それに、吸ってたとしても私が遅れたのが悪いんだし」
彼女は少し唇を尖らせる。つやつやとした桃色が中心に向かって鮮やかに濃くなって、美しい珊瑚のようだ。
「だから吸ってないんだって…それに、まだ約束の五分前じゃないか。謝る必要ないだろ」
「でも、最近いつも待たせてばっかりだから悪いと思って…でも、先を越されちゃったね」
「気にしてないよ」
「なんか不思議。前は私が待たされてばっかりだったのに。最近どうしちゃったの?」
「遅刻しない魔法を覚えたんだよ」
冗談めかして俺は笑うが、彼女は本気で不思議がっているようだ。
「君を待たせることの罪深さに気づいたのさ」
「もう、冗談ばっかり。悪い気はしないけどね」
彼女は笑って俺の隣に並ぶ。
「いつもの店を予約しといたよ。今日はまだ限定メニューも売り切れてないらしい」
「本当?じゃあ急がなくっちゃ!」
と、彼女は身を翻し、ふざけるように走り出した。美食家の彼女は、好物を食べているときの笑顔がもっとも可愛らしい。最高の環境でその表情を見るためなら、仕事を早く切り上げるのも高級店を予約することもまったく苦にならなかった。
とはいえ、最近は仕事が忙しくなってなかなか時間が取れないのが辛いところだ。
「早く、置いてっちゃうよ?」
交差点で振り向いた彼女が笑う。片手を上げて応え、俺も駆けだそうとしたとき、轟音と共に彼女の姿が消えた。
いや、消えたんじゃない。上書きされたのだ、横合いから突っ込んできたトラックに。
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