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五分あればー③
「…え?」
喉から出たのは、言葉にもならないようなかすれた空気だった。信号は青だろ?なんでトラックが交差点に入ってくるんだ?
「人が轢かれたぞ!」
「おい、救急車呼べ!」
「女の子が下に…!」
一拍遅れて周りの声が耳に入る。そうだ、彼女を助けなくては。俺はふらふらと歩道まで突っ込んだトラックへと駆け寄る。
「大丈夫か!今助けるからな!」
俺は気を失っている彼女の手を掴み、必死で引っ張る。どうやら正面からぶつかられたわけではないようだが、左肩から先が車体の下に轢かれてしまっている。
「ガソリンが漏れてる!そこのあんた、危ないからこっち来い!」
「彼女が下敷きになってるんだ!頼む、手伝ってくれ!」
「もう無理だって!いいから離れろ!」
制止する声に構わず、俺は握った手に力をこめる。無理なわけないだろう、だって彼女は手が届くところにいるんだから!
「くそっ…絶対助けるからな!」
彼女からの返事はない。血でぬるぬると滑る手をもう一度掴みなおす。
もっと俺に力があれば。いや、時間さえあれば。
その考えが電撃のように脳裏によぎり、俺は放り出された鞄を急いで開ける。
「頼む、止まってくれ!」
祈りを込めてレバーを引く。会社を出てもう一時間は経っているはずだ。たった五分でも構わない、どうか止まってくれ!
「おやおや、ずいぶん大変なことになっていますねぇ」
喧騒がぴたりと止まると同時に、背後から芝居がかったような大げさな声が聞こえた。
「お前は…」
「こんばんは、道路小路モクアミです。またお目にかかりましたね」
「お願いだ、時間をもっと止めたいんだ!この状況を見てくれよ!」
「それは困りますねぇ。そちらの商品はあくまで五分という制限付きのものでして…」
「分かるだろ、五分じゃとても足りないんだ!何を差し出したっていい、頼む、頼みますお願いですからぁ!」
俺はモクアミの足元に縋りつくように抱き着き、ひび割れたアスファルトに頭をこすりつける。
「そうですねぇ…代償を頂けるというなら話は別です。支払いはそちらのミス・下敷きではなくあなた持ちでよろしいのですね?」
「か、金ならいくらでも用意して見せる!どうか俺に時間を売ってくれ!」
「まさかまさか、お金では買えませんよ?時間のお代としていただくのは、あなたの時間です」
モクアミの白い指先が俺の手からレバーを取り上げる。
「交換レートは一対一。求めた分と同じだけ、あなたの時間を頂きます」
「寿命でもなんでも持って行ってくれ!俺は彼女を助けたいんだ!」
「ふむ、見たところレディ・アンダー・ザ・カーのお体を引っ張り出すだけなら二十分もあれば足りるでしょう。そこまで外傷もないみたいですし、救急車が来ればきっと助かりますよ!おめでとうございます!」
貼り付けたような笑みを浮かべ、モクアミは俺に向けてレバーを差し出した。
「そのレバーを倒せば、取引は成立です。あなただけの時間が始まります」
俺はすぐさま装置をひったくり、レバーを倒した。俺の人生の時間の、たった二十分。彼女を助けるためには安すぎるくらいだ。
*
折れたガードレールを隙間から突っ込み、てこの原理で持ち上げて少しずつ空間を作る。モクアミが言ったように、彼女を助け出すのにそう時間はかからなかった。
左手は赤黒く腫れてひどく傷ついているが、きっと命に別状はないはずだ。
俺は彼女を抱え上げ、素早くトラックから離れる。ガソリンが漏れてるのが本当なら、真に危険なのはこの後の方かもしれない。時間は決して無限ではないのだ。
凍り付いた群衆を避けて交差点からやっと抜け出した時、再び時が動き始めた。
「救急車、救急車を呼んでくれ!」
俺は懸命に声を張り上げる。何人かは目の前から俺が消えたこと、もしくは突然現れたことに気が付くかもしれない。そんなことは些細なことだ。
彼女は俺の腕の中で、荒く呼吸をしている。近づいてくるサイレンを聞きながら、俺はようやく安堵の息をついた。
*
彼女が病院に運び込まれ、手術が終わったころには深夜になっていた。俺はパイプ椅子に座り、鎮静剤によって眠り続ける彼女の顔を眺めていた。
綺麗な顔に傷がついてしまったが、きっとそのうち治るだろう。いや、痕が残ったとしても構わない。
「こんばんは、お代を頂きにまいりました」
「……」
「おや?今になって支払いが惜しくなりましたか?」
「いや、後悔なんてするわけないさ。さっさと持って行ってくれ」
どこから入ってきたかなんて無意味な質問はしない。この青年が何者かなんてことに興味はなかった。
彼女が生きている、それがもっとも意味のあることだ。
「それは結構。嫌がる相手から無理やり、では私も後味が悪いので。では、今から始めてよろしいですか?」
モクアミは俺の背後に立ち、俺の顔を覗き込む。
「ああ、彼女の命に対して俺の寿命二十分じゃ安すぎるくらいだ」
「寿命?違いますよ。言ったでしょう、私が頂くのは、あなたの”時間”です」
そう告げられた途端、胸を強く抑えられたような衝撃を感じた。
一秒、二秒、息もできないような苦しさは続き、俺は床に転がり落ちる。
「心停止からの蘇生率は一分ごとに十パーセント低下するらしいですよ。ここは病院ですし、誰かが気づいてくれれば助かるかもしれませんね。とはいえ、二十分以内は何をしてもあなたの鼓動は止まったままですが」
上から言葉が降ってくる。俺は胸をかきむしり、喘ぐように必死で酸素を吸い込むが、どんどん目の前が暗くなっていく。
薄れゆく意識の中で最後に目に映ったのは、胸ポケットから零れ落ちた小さなベルベットの箱だった。
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