12人が本棚に入れています
本棚に追加
そりゃそーだ①
「本当に、飲ませるだけで良いんですか?」
「もちろん!一口飲めば効果覿面、どんな相手も貴方の思うがままです!たとえ三回回ってワンダーフォーゲルをしろと言っても、『そりゃそーだ』と納得して気分よく登山してくれるでしょう!」
目の前の青年はぺらぺらとしゃべり続け、白い手が光に群がる虫のようにグラスの上を飛び回る。
「危ない薬って訳じゃないですよね?」
「おや、信じられませんか?まあ酒場で会ったばかりの男からもらう薬など、まともな人間なら手を出すような代物ではありませんが」
そういって青年はおおげさに肩をすくめて見せる。彼の言うとおりだ。そもそも、どうしてこんなことになっているんだっけ。
「気が進まないというなら結構です、無理にお渡しは致しません。それでも、どんな怪しい手段でもいいからその男をどうにかしたいと仰ったのはあなたでは?」
「……」
そうだ。私を救えるのは、私しかいないのだ。
一回り以上年上の私の恋人は、いつだって私のことを大切にしてくれていた。髪型にも服装にも、どんな些細な変化にも気づき、それを褒めてくれた。私たちは心の底から愛し合っていたのだ。
「でも、彼が理解してくれればそれでいいだけで、こんな薬なんて使わなくても……」
「話し合いの機会さえも遠回しにかわされ続けているのに?そんなお優しい性格だから裏切られたのでは?」
「……私、そんなことまで話しましたか」
「ええ。まるでドラマの様なお話にわたくし、思わず感動してしまいました」
わざとらしく目元をぬぐう青年の言葉には、一つ単語が抜け落ちている。ドラマの前に、「昼」とか「泥沼」とかそういう言葉が入るべきなのだ。
そう、私が陥っている状況は、結局は不倫の失敗という言葉で言い表されてしまうだろう。既婚を隠していた職場の上司。私が結婚という言葉を口に出すと、彼はまるで愉快な冗談を聞いたかのように笑って見せた。
「……馬鹿だって思うでしょう、あんな陳腐な話に騙されて本気になったなんて」
「いえいえ、純粋な思いの強さには心を打たれました。だからこそ、こうして貴重な道具をお譲りするのです」
白々しく言ってのける青年の顔に張り付いているのは、相変わらずの仮面の様な笑みだけだ。私に向かって差し出された掌の上の小瓶には、「そりゃそーだ」と書かれたカラフルなラベルが貼られている。
何から何まで、悪い夢のような話だった。
*
余りにも怪しい話だとは思う。だが、結局私はその小瓶を手に取ってしまった。藁にも縋る思いというか、ある種の現実逃避というのか、どっちにしろ追い詰められていたのは確かなのだ。のらくらとした態度を崩さない彼に正面から向き合い続けるのは、相当にしんどい。
それに、青年の言葉には何とも言えない魔力のようなものを感じたのだ。本当に危ない薬だとしても構わない。どうにか彼に一泡吹かせてやりたいのだ。
しかし、知人とはいえ飲み物に一服盛るのは案外難しい。薬は飲ませればすぐに効果を発揮するらしいから、チャンスは二人っきりの時だ。
でも、私を疎ましく思い始めた彼はなんだかんだと理由を付けて私を避けている。社外で二人きりになるのはなかなか難しいかもしれない。
「まずはそこをどうするか、かな……」
自販機の前でため息をつき、缶コーヒーのプルタブを引く。どうにか二人きりになっても、自然に飲み物に薬を混ぜることができるだろうか。不思議の国のように、「私を飲んで」と書いて机にでも置いてみようか。
「やあ、君も休憩中?」
「……!」
背後からかけられた声に、思わず飛び上がりそうになるのを何とかこらえた。
いつも通りの清潔そうな髪型に、柔らかく細められた目元。しわ一つ見あたらないワイシャツにアイロンをかけたのは、彼自身ではない。私は会社に来るたびに地獄の様な気持ちを味わっているのに、この男の内心はネズミにかじられた程のダメージもないのだろう。
「どうしたの、そんなに怖い顔して。まるで人でも殺せそうな目つきだよ」「……よくそんなことが言えますね」
私がなんとか絞り出した返答を、彼は快活といっていいほど爽やかに笑い飛ばして見せた。しかし、出来の悪い教え子を試しているかのように、目の奥は笑っていない。
「僕は君のことを信じてるからね。僕を困らせるようなことはしないって」
信じてるのではない、軽んじているんでしょう。私が大したことをできるはずがないと。職場に何もかもぶちまけることも、あなたの家族をめちゃくちゃにして自分も傷を負うのも覚悟で裁判沙汰にすることもできないと高をくくっているのでしょう。
「……」
しかし、その言葉は形にならず、お腹の底の方へ沈んでいった。私がうつむいたのをどう解釈したのか、彼は肩先が触れ合うほどに近づき、私の腰に腕を回す。
「心配なんかしなくていいよ、君さえ黙ってれば問題はないんだから。落ち着いたらまた旅行にでも行こうよ、温泉に行きたいって言ってただろう?」
休憩室の扉の影、決して廊下からは見えない角度だ。関係を持つようなってから、彼がこのようなオフィスの死角を徹底的に把握していることに気づいた。
廊下に人の気配を察知し、彼はまるで何事もなかったかのように私から離れて背を向ける。
「じゃあ、僕は戻るから」
最後にほんの少しだけ私を気遣うような視線を残し、彼は去っていく。
「……痛」
気づけば、手のひらに自分の爪が食い込むほど強く握りしめていた。
何度こうして自分の気持ちを押し殺してきたんだろうか。急な予定の変更にも、深夜の唐突な電話にも私は応えてきた。それなのに、彼は私を従順なペットのように扱おうとしている。
いや、無理な要求にも応えてきたからこそ、だろうか。結局私は、彼にしっぽを振ることでしか気を引けない、哀れな子犬に過ぎない。
「……っ」
いや、違う。今の私には切り札があるのだ。
缶コーヒーを一息に飲みほし、大きく息をつく。
ワンサイドゲームはもうおしまいだ。どんな手段を使ってでも、私は彼と同じプレイヤーになるのだ。
最初のコメントを投稿しよう!