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そりゃそーだ③
隠れ家風の居酒屋の、奥の個室がいつもの場所だった。落ち着いた雰囲気の照明が暖かくテーブルを照らす。待ち合わせの三十分前から、私は予約を入れていた。
悩んだ末、先に飲み物を頼んでそこに薬を仕込んでおくのはやめにした。彼の気分が変わったらおしまいだし、少しでも怪しまれることは避けたい。重要なのは薬を飲ませた後なのだ。
食事をしているうちに彼が離席するタイミングを狙うのが最も自然だろう。私はため息をつき、グラスを口に運ぶ。甘いカシスオレンジが体に染み渡るようだ。
「お待たせ。遅くなったね」
グラスの中身が半分ほど減ったころ、仕切りのカーテンが開いて彼が入ってきた。
「いつものことですから。先に飲んでますけど」
「いいよ、別に。すいません、ウーロンハイをひとつ」
若い店員が静かに頭を下げ、去っていく。私は動揺を隠して静かに聞く。
「……ビールじゃないんですね」
「健康診断の結果が悪くて叱られてね。プリン体って知ってる?君も気を付けた方がいいよ」
そう言って彼は朗らかに笑う。
「……奥さん、お元気なんですか」
「ああ、まあね。二人目だからもう大騒ぎもしてないよ。それより上の子が赤ちゃん返りし始めて、そっちの方が大変だね」
「……そうですか」
「自分から聞いておいてそんな顔をするのはずるいんじゃないかな?別に僕は家族の話をしたいわけじゃないし」
大人の男の人なのに自分のことを「僕」という、その柔らかい響きが好きだった。
「君だってこんな話が聞きたいわけじゃないでしょ?そろそろ君の話を聞かせてよ」
細いフレームの奥の瞳が、楽しそうに細められる。私がミスのない報告を上げたときに喜んでくれる、その表情も好きだった。
「いえ、聞きたいです。もっと話してください、ご家族のこと」
「言っておくけど、危害を加えようと思っても無駄だよ」
「そんなこと私にはできませんよ、分かるでしょ?」
笑って私はグラスを空ける。ちょうどよく料理を運んできた店員に、新しい飲み物を注文した。
「もうあなたに会うのは終わりにしようと思ってるんです。だから、最後の思い出代わりに聞かせてください」
「……特に面白いこともないんだけどな。保育園への送り迎えの話でもしようか」
「ええ、お願いします」
彼の娘は今三歳になる。私と付き合い始めたのは四年前だから、ちょうど奥さんの妊娠期間と重なるわけだ。
「さっきも言った通り、何だか最近わがままが始まっちゃってね……毎朝出発するまでに駄々をこねて大変なんだ」
「奥さんはどうされてるんです?」
「どうしても時間がないときは迎えに行ってもらうけど、基本は家にいてもらうね。まだ三か月だけど、何かあったら怖いから」
「じゃあ今日も奥さんに行ってもらったんですか?」
「まあ、そうだよ。どうせ今日は残業しなきゃいけなかったしね。その分明日は家族サービスさ」
「大変ですね。お休みはとれてるんですか?」
「この年になるとそれなりに休めるものだよ。君はどうなの、最近は?」
「……ちょっとずつ休みはとってますよ」
「そうか、ならよかった。でも、この会社じゃまとまった休みを取るのは難しいから、大したことはできないだろ」
「そんなことないですよ。ねえ先輩、『イニシエーション・ラブ』って小説知ってます?」
「いや、僕は小説は全然。何、はまってるの?」
「ええ、とても面白い話なんです。短い時間でもできることがあるんだなって考えさせられちゃいました」
そうですよね、きっとあなたは知らないですよね。あなたが職場で家族の話をするたび、私がどんな気持ちでいたか。
私がどのくらい休んでいたかも、中絶手術にどれくらいの時間がかかるかも。
「そうだ、これ、忘れないうちに」
彼は鞄から小さな封筒を取り出し、私に手渡した。
「……なんですか、これ」
「僕たち、終わりにするんだろう?誰かと行きなよ、温泉。他の男でも友達でも、君ならいくらでも相手がいるだろう」
「……」
笑うと目じりに細かいしわが寄る。辛いことを隠すときに、眼鏡を触る癖があるのもよく知っていた。
「ちょっといいかな、お手洗いに」
「……はい」
席を立つ彼を、ただ見送る。
彼のグラスは三分の一ほど残っている。何かを入れても一息で飲み干せる程度だろう。絶好のチャンスだった。
鞄の中の小瓶に視線を向ける。彼の職も家族も何もかも奪える力が、私にはある。もちろん、それを使わないという選択肢だって。私さえ耐えれば、誰も不幸になることはないのかもしれない。
封筒を持つ手が震える。薄い色の小瓶が、怪しく光っているような気がする。
でも、それでいいんだろうか?彼が私から奪ったもの。そして、彼が私に与えたもの。どちらもなかったことになんてできない。できるわけがない。
私は意を決し、小瓶を手に取って薬を注ぎ入れた。錠剤は小さな泡を発しながら、すぐに溶けて消えていく。
戻ってきた彼が席に着くのを待ち、私は声をかけた。
落ち着いた声が出せているといいんだけど。もしかしたら、これが最後になるかもしれないのだ。私は今、上手く笑えているだろうか。
「ねえ、一つお願いがあるんですけど……」
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