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そりゃそーだ④
勘定を持つという彼に遠慮なく甘え、私は先に店を出た。待っていなくていいという言葉通り、さっさと駅に向かって歩き出す。
空を見上げると、見事な満月が輝いていた。たったそれだけなのに、思わず笑顔になってしまう。こんなに晴れやかな気分は久しぶりだった。
「おや、すっきりとした顔をされていますね?なにかいいことでもおありで?」
「……あなたは」
「こんばんは、いい夜ですね。道路小路モクアミです」
私に声をかけたのは、あの夜「そりゃそーだ」を渡してきた青年だった。
「その顔だと、話し合いはうまくいったようですね?私も微力ながら尽力できたこと、非常に嬉しく思います」
「ええ、おかげさまで」
今晩話し合いをするなんて、言った覚えはないんだけど。まあ、私の記憶にないだけか。
「ずいぶん複雑な事情をお持ちの様でしたが、お顔を見る限りでは全く心残りがなさそうですね?いったい『そりゃそーだ』を使ってどんな命令をしたのか教えていただきたいものですが……」
「いいですよ、と言いたいところですけど……」
私は眉を下げて困ったように笑う。
「実は、よく覚えていないんです」
「……ほう?」
青年は続きを促すように私の顔を覗き込む。
「何か言いたくないご都合でもおありですか?記憶をなくすほど飲まれているようには見えませんが……」
「いえ、飲んじゃったんです」
私が、と付け足すと、モクアミは大きく目を見開いた。
「彼と続いても別れても後悔はするだろうなと思ったので、『そりゃそーだ』は自分の飲み物に入れました。それで私にどうして欲しいか聞いたんですけど、覚えてないってことは『僕のことは忘れて幸せになってくれ』とでも言われたんでしょうね」
モクアミは零れ落ちそうなほど大きく目を見開き、おまけに口まで開いている。
黙っていれば美形と言えなくもないのに、台無しだ。
「それはそれは……いやはや、実に予想外です。まさか相手に判断をゆだねてしまうとは……つまらないことになりましたね。いや、だからこそ面白いのでしょうか」
モクアミは良く分からないことをぶつぶつと言っているが、彼が面白いというからには確かにそうなのだろう。今の私なら、何でも肯定してしまいそうだ。
スイッチを切り替えたようにモクアミはもとの薄笑いに戻り、白い手首の腕時計をちらりと見る。
「……『そりゃそーだ』の効果は六十分ほどです。余計なお世話ですが、妙な人間に声をかけられないうちに早く帰った方がよろしいかと。ああ、もちろん六十分経っても飲んだ間に聞いた命令は継続するので、ご心配なく」
「そうですか。じゃあ、お言葉通りに帰ります」
「ええ、お気をつけて」
私はモクアミに別れを告げ、歩き出す。立ち並ぶ屋根の隙間から、満月が私を追いかけてくる。
自分の選択が正しかったかどうかなんて分からない。
それでも、今の私に後悔が一切ないことだけは、胸を張って言えた。
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