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五分あればー①
『ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください。ドアが閉まります』
アナウンスを聞いた俺は必死に階段を駆け上がるが、軽快な発車ベルは鳴り終わり、目の前で電車が去っていく。
くそっ、次の快速は十五分後だ。俺は内心で悪態をつき、ホームのベンチに座り込む。
別に急いでいるわけではないが、各駅停車は混雑するから嫌いなのだ。帰宅ラッシュをとうに過ぎても、この路線は込み合っている。
帰りがけに社員証を探してなければ、あの五分があれば今頃は空調の利いた電車の中で帰路についていたはずなのに。
そんな非現実的なことを考えながら、俺は胸ポケットから煙草を取り出した。
「おや、禁煙ですよ、ここ」
「え?」
俺に声をかけたのは、色白の軽薄そうな青年だった。
ベンチには誰もいないと思っていたが、気がつかないうちに隣に座っていたらしい。俺は煙草の箱を胸ポケットにしまう。
「…すみません」
「気持は分かりますよ、窮屈ですよね。よくお吸いになるんですか?」
「…いえ、ストレス解消程度です。落ち着くんですよ」
「何かイラつくことでもおありで?」
なんだこいつは。線が細く見えるが、こちらの顔色も気にせずにぐいぐいと話しかけてくる。はっきり言って不快だった。
「失礼、急いでるので」
「おや?次の快速はまだ先ですよ?」
立ち上がろうと浮かせた腰が中途半端なところで止まる。
「先ほど走ってくるのを見かけたもので。違いましたか?」
「そうですよ。電車を目の前で逃したから、急いでるんです」
眉間にしわを寄せて不愉快を表明しても、青年は意にも介さず薄笑いを浮かべている。
快速に間に合っていれば、あと少しだけ早く駅についていれば、妙な奴に絡まれることもなかったのに。
「突然ですが、あと五分時間があれば…って思ったことはありませんか?」
「!」
心を読まれたような衝撃に、一瞬鼓動が跳ねる。青年は相変わらずのにやけ面だ。
「おや、自己紹介もまだでしたね。私はこういうものです」
青年は足元の革鞄から名刺を取り出し、俺に渡す。
「なんだこれ…どうろこみち?」
「どうろこうじ、と読みます。道路小路モクアミです」
「芸人か?」
「人を笑顔にする、という点では似たようなものですね」
胡散臭い。芸人ではなく詐欺師かもしれない。俺は少し距離を取るように身を引く。
「ああ、どうか警戒しないでください。私はあなたの力になりたいのです」
青年が再び鞄の中から取り出したのは、おもちゃの様なチープな装置だった。
「コントの練習に付き合ってる暇はないんだ。悪いんだが…」
「暇がない!そんなあなたにこそお勧めしたいのです、この『五分あれば―』を!」
芝居がかった口調で装置を持ち上げると、青年は白い歯を見せて笑った。
装置の造りはシンプルだ。金属の土台から赤い持ち手が付いた取っ手が伸びており、それはスライドして動かせるらしい。まさにレバーのように。
「使い方は簡単!あと少しだけ時間が欲しい、そう思った時にこのレバーを引くだけ!するとあら不思議、あなた以外の世界は五分間だけ止まってしまうのです!これがあれば駆け込み乗車なんて必要ありませんよ!」
「それが本当だとしたらアインシュタインもびっくりだな」
「おや、信じられませんか?では効果を御覧に入れましょう!」
そしてモクアミはレバーを引いた。思わず息を飲んでしまったが、当然何も起こらない。
「…なんだ、脅かすなよ」
だが、モクアミは手品が成功したマジシャンのように穏やかな笑みを浮かべている。ちょうどその時、電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。
「まあ暇つぶしにはちょうど良かったよ、じゃあな」
「一つだけ注意していただきたいのは、連続して使えないということです。一度使ったら六十分は間を空ける必要があります」
最後まで訳の分からないことをいう青年を置いて、俺は快速電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、俺は大きく息をつく。変人と話しているうちにずいぶん緊張していたらしい。無意識に胸ポケットに手をやり、俺は妙なことに気づく。
この柔らかさは、煙草ではない。恐る恐る指を入れ、触れた生暖かいものを摘まみだす。
薄茶色くて手になじむ起伏がある小さな物体は、よく見覚えのあるものだった。
「っ!?」
それは、人間の耳だ。電撃の様な不快感が腕を走り、思わず取り落としてしまう。
しかし、腕に生じた鳥肌も収まらないうちにそれは作り物だと気づいた。拾い上げれば手触りはゴムそのものだし、手品用のジョークグッズか何かだろう。
問題は、なぜそんなものが俺のポケットに入っているか、だ。電車に乗る直前まではラッキーストライクが入っていたのは確かだ。偶然こんなものと入れ替わるとは思えない。
となると、あのモクアミと名乗る青年の仕業か。時間を止めるだの妙な話をしておいて、どうにかすり替えたのだろう。話の規模の割には地味で厭らしい仕掛けだ。
本当に時間が止められるなら、ぜひとも試してみたいものだ。俺は鼻で笑い、気味の悪いおもちゃを鞄にしまう。
しかし、ファスナーを開けたところでその手は止まった。
「…なんだこれ」
そこには、モクアミが持っていたのと全く同じ「五分あればー」が顔をのぞかせていたのだ。
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