第9章 二重生活の女

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第9章 二重生活の女

結果論だけど。あの夏休みの軽井沢での遭遇のあと、わたしは星野くんとの間の距離をほんの僅かながら縮められたのをようやく実感することができた。 それまでは同居してても何となく腫れ物に触るような感じというか。プライベートな事柄まで踏み込んじゃいけない、相手に厚かましいと思われたくないって気遣いが強すぎて、何となくそれぞれ遠巻きに離れてお互い様子を見てるような距離感になってたんだと思う。 だけど、それまでわたしに伝えずにいた彼の隠された事情をいざ知ることになったら。そういうことだったのか、と改めて納得すると同時に、なんだか視界がぱっと開けたようにそこはかとない安心感を得られた気がする。 結婚する前からずっと、星野くんはごく普通に穏やかに振る舞っていて悩みなんて特にないって顔つきでいたけど。どこか打ち解けない、開放できないものを抱えてる気配があって、それがずっとわたしには引っかかっていた。 何故だか星野くんの人柄については疑う気にならなくて、実は性格的に裏があるとか想像もつかないくらい酷い行状がある、とかは全く心配してなかったけど。 他人には打ち明けられないつらい苦しい事情とか、一人で何とか解決しなきゃいけないと思い込んで抱えてる深刻な問題とか。そういうものはあの様子じゃ放っといたら向こうからは教えてくれないんだろうな、と漠然と感じたから思いきって後先考えずに行動に出てしまった。 嫉妬に駆られてとち狂った不倫され妻ってわけでもないのに。普通こっそり旦那のあととかわざわざ新幹線で軽井沢くんだりまで尾けるか?と改めて思い返すと我ながら呆れないこともない。だけどこうなってみるとやっぱり結果オーライだった、そこまでやってよかったのかもなって思う。 彼と香那さんが抱えてた問題は、当事者たちにとっては真剣な、二進も三進もいかない重いものだと思うけど。それを知ったこちらの方はそういうことか、と腑に落ちたというか。何というか、星野くんらしい。と理解できてどこかすっきりするような気持ちになれた。 彼にずっと前から特別な、かけがえのない異性がいたこと自体すごく心が浮き立つ喜ばしいことだなんてあえて言い張るつもりはないけど。恋をしてようがしてまいが、そもそも彼と付き合いの浅いわたしなんかが嘴を挟んでどうこう意見することでもない。 それより、わたしを信じてきちんと向き合って本当のことを打ち明けてくれたのを。よしとして感謝しなきゃいけないんだ、ってそれだけを心に留めておくことにして、わたしはこの問題を自分の中で整理してしまい込んでから普段通りの日常に戻ったのだった。 「…茜さん」 朝、二人で向かい合って朝食を摂っている最中。相変わらず起床が早くて気づくと先にキッチンに立っている彼と、だったら洗濯機はわたしが回す、とかわあわあ押し問答しながらそれぞれ奪い合うようにできることを分担しつつやっと何とか人心地ついたところ。この曜日は朝食担当はどっちで洗濯はこっちの係、とかはっきり決めていっそ当番表でも作っときゃいいじゃないかとか思われるだろうけど。 わたしだって安直にそう考えてた。でも、明日の朝にこれはわたしがやるね、と前の晩に取り決めて念押ししておいた家事でもちょっとでも起きるのが遅れると、容赦なくさっさと片付けられちゃうから。どんなに気をつけていてもうっかりすると、 「種村さん、昨夜帰り遅くて疲れてるみたいだったから。…なにも洗濯のためになんか無理して起きる必要ないよ。ぎりぎりまで寝て少しでも体力温存してた方がいいよ」 とか既に洗い終えた洗濯ものをせっせと干しながら背中越しにあっさり言い渡される羽目になる。 とにかく向こうは常に朝が早い。無理して起きてる様子がないし、当たり前の顔つきでいつでもわたしより先に起きて平然とすいすい動き回ってるのを見てると、多分朝に強いのは彼の天然の生まれつきなんじゃないか。と諦めの感情すら湧いてくるほどだ。 そう考えればこっちが朝に弱いのも持って生まれた性質だから。爽やかにすっと起きられないのも必ずしもわたしが怠け者だからってわけじゃない。と内心で自分に言い訳してみる。もっとも多分、星野くんの方もそう解釈してくれてることは間違いないが。アラームを何回もセットしては無意識に止めてしまうわたしを、だらしがないと軽蔑してる表情は決して見せたことがない。 「茜さんは毎日夜遅くまで頭と神経を使う、集中が必要な仕事に打ち込んでるんだし。睡眠たっぷり取らないととても身体が保たないよ。家事なんて、時間に余裕がある方がやればいいだけなんだから。休める時は休んだ方がいい」 いつも生真面目な顔でそう言って、わたしのことを起こすまいと朝は物音を立てないよう気をつけてる節すらある。 そりゃ、何て自己管理のできない女なんだ。と呆れた眼差しを向けられるよりは優しく思いやりのある態度で接してくれた方がありがたいに決まってるが。 愛もない相手にここまで寛容に、親切になれるって。本当に人間ができてるにも程がある。星野くんなら大概のどんな人とも平和に摩擦なく共同生活を遅れそうだ。実は偏屈そのものなわたしと違って。
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