紗の着物の湖面に佇む少年

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湖面に佇むその少年は、紗の着物を着てそれはそれは美しく、桜色の唇が印象的だった。 僕は、自分のすべての力を使っても、彼を救いたいと思った。 コトトン、コトトン 電車がトンネルを出て、森の中を進み、もうすぐ湖の上の橋にかかる。 彼は車窓の景色を楽しみに帽子で視線の先に影を作った。 すでに電車の中には灯りが付いて、帽子で遮らないと外が見えない。 ああ、やっと休み取れたけど、忙しくてすっかり遅くなってしまった。 すでに空には星が瞬き、月の明かりで木々の枝には明暗がくっきりと浮かんでいる。 その日、彼は一人旅で山間にある一件宿の温泉に向かっていた。 中でも宿の近くにある湖の景色は格別で、昼間の景色しか知らない彼は楽しみにしている。 ガタタン、ガタタン、シャーーーッ、シャーーーッ、 電車が、鉄橋に乗った。 木々が途切れ、一気に視界が広がる。 青い、青い、海の底のような。 深い夜の青の中、月明かりの下、銀色に光る水面が広がる湖に、風のさざめきが波を作る。 ああ、やっぱりきれいだ。 来て良かった。 息を飲んで見つめていると、まるで水滴が落ちたように湖の真ん中に波紋が広がる。 魚が跳ねたかな? そう思った時、そこに少年の姿が見えた。 どこか不可思議なその姿。 黒い髪に白い顔。 白い紗のような着物が透けて、美しく整った裸体の線が見える。 そして何より不可思議なのが、その少年は水面を一人歩いていた。 え? 少年と目があったような気がした時、視界は木々に遮られ、電車は鉄橋を降りて温泉宿のある駅を目指す。 彼はなにか心がざわめき、見に行きたい気持ちで満たされた。 電車を降りて、宿に行き、タクシーを呼んで貰う。 だが、宿の人は危険だと良い顔をせず、結局諦めることにした。 「あの湖には、なにか言い伝えがあるのですか?」 遅い食事を取りながら、宿の女将に聞いてみる。 「あそこはね、むかーし山雪崩で川がせき止められて、村が沈んでいるんですよ。 いっぱい死人が出たと噂が立って、夜は肝試しとかで若い人が行くことがあってねえ。 騒がしさに神様が怒ったのか、先々月の地震で道を崩して塞いでしまわれたのよ。」 笑ってそう教えてくれた。 だから、危ないと言われたのだろう。 今では湖の畔に行ける道は無いらしい。 残念だなと思いつつ、寝る前に露天の風呂に入る。 他に泊まる客はいないらしく、貸し切り状態でゆったりと目を閉じた。 「ぬしは、われをみたのか」 驚いて目を開き、脇の松の木を見上げる。 そこには先ほど見た、紗の着物を着た白い顔の少年が、松の枝の上に座って見下ろしていた。 「見たよ、見た。き、君は、……だれ?」 少年は、目の下に赤いラインを書いた化粧をして、桜色の唇が見るからに柔らかく形良く美しい。 美少年とは、こう言う物かと感心して見つめた。 「ながく、われをみたものはなかった なんじは、しんしょくか」 「いや、普通のサラリーマンで……神職じゃないと駄目なのかい?」 「よい。これも、おおみかみさまの、さいごのおこころづかいであろう」 「最後?どう言う……」 「われは、くずれる。ひとに、つたえよ」 「くずれる?!あの湖が?」 少年は、うなずいてくるりと背を見せる。 彼は慌てて立ち上がり呼び止めた。 「君は?君はどうなるんだい?」 自分のことなど考えたこともない。 少年は驚いたように振り返り、彼を見た。 「われは……きえるのみ」 「駄目だ!消えちゃ駄目だよ!崩れるだって?! ちょっと待って!えっと、ああどうするべきか……」 少年が、困った顔をする。 だからといって、どうすることも出来ない。自分はあの湖に住む主なのだ。 彼が、考えを巡らし、対応を探る。 「そうだ!どこが崩れるんだい?詳しく教えてくれるかな? えっと、ああ、ここは風呂で何も書く物が無い。 ちょ、ちょっとすぐ上がるから、僕の部屋まで来てくれよ。」 少年は、きょとんとして、愛らしくこくんと頷く。 彼は慌てて風呂から上がり、旅館からペンと紙を貰うと大慌てで部屋に戻って、窓から手を振り少年を呼んだ。 「で、どこが崩れるんだい?」 湖の絵を描いて、鉄橋を目印にする。 少年は、少し首を傾げ、崩れそうなところを指差す。 うわ、可愛い…… 彼はなんだか、魅入られたように少年の仕草に頬を赤らめた。 小さな指が愛らしく、ふわりと花の香りがして大きく息をつく。 だが、今はそんな状況じゃ無い。 「ああ、えーと、まだ、どのくらい持つ?」 「わからぬ、つぎに、おおあめがふれば、だめとおもう」 「うーむ、ここの近くに家はあったかな?」 スマホを取りだし、マップの衛星写真で周囲を見る。 そこは決壊すると、山の麓の住宅地を直撃だ。 最近出来た家が多く建ち並び、恐ろしい被害を生むだろう。 天気アプリで見ると、まだ今週は晴れが続く。 「これはマズい。良し!任せろ!お前を消してたまるものか! い、いや違う。湖だ、あんなきれいな湖は守らなくちゃ。 いいな?!しばらくは少しうるさくなるが我慢しろよ!」 少年は、不思議な顔で首を傾げて、こくんと頷く。 彼は、よし!と、突然スマホであちこちに連絡を始めた。 怪訝な相手も、彼に言われたらどうしようもない。 すぐに!すぐに!と、急かされて翌日から地盤調査が始まり、そして本当に危険だと言うことで補強工事が始まった。 彼は頻繁に旅館に泊まり、工事の進行を確認に来る。 一人でいると少年が夜、ふわりと窓に来て、不思議な顔をした。 「くずれるさきが、みえぬようになった あなたさまは、どこのおおみかみさまでございますか?」 「おっ、きたきた。今日はいい物持ってきたんだよ。」 彼がにっこり笑って、桜色の美しい杯を出して、とっておきの日本酒を差し出す。 神なら日本酒。 日本人の常識だ。 「なんと!よきかな、うれしきことよ ひさしく、そなえものも、みぬようになった」 「そうなのかい?さああさあどうぞ。」 とくとくと注ぐと、頬を赤らめて嬉しそうだ。 桜色の唇を杯に付け、飲み干して,ああ……とうっとり声をもらした。 「よきかな、かみのびしゅは、あいかわらず、びみなこと」 少年は美味しそうに日本酒を何杯もおかわりして、彼の横にちょこんと座った。 「湖には祠もあったようだから、地元の人にはお供えするように言っておくよ。 そうそう、自己紹介してなかったね。 僕は、今のところこの県の知事です。えっへん。 議員には若造扱いで悔しい思いしてたけど、今回のことで、ちょっと見直された。 ふふふ……いや、たまの一人旅もいいもんだね。 マジで崩れそうだったから、予備予算回して、指名入札させて急いで工事入ったよ。 補強を先にやったようだから、もう安心していいよ。 というかさ、君のおかげだ。沢山の人の生活と命が助かった。 ありがとう。」 少年には、そんなことはどうでもいいんだろう。 とにかく酒が気に入ったようで、ほんのり頬を染めてうれしそうににっこり笑う。 「おおみかみさま、またおいでくださいませ」 少年が、酒瓶を持って酌をしてくれる。 しっとりした姿が、酒を美味くする。 「ああ、いい……いいねえ……もちろん、また君の美しい姿を見に来るよ。 目の保養になるのでね。」 月明かりの下で、微笑む少年は美しい。 それは神様相手に不純な動機だが、最強の動機だった。
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