アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。

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アスファルトの照り返しも和らいだ夜の本町の歩道を、ゆっくりと歩く。 街路樹の葉のこすれあう音に耳を傾けると、秋の風が、こっちの木から、あっちの木へと、そこいらじゅうを、くるくると回っていた。 今、通り過ぎた定食屋の野菜炒めのコッテリとした油の匂いが、僕の背中についてくる。 よほど悪い油を使っているな、なんて批判めいたことを呟いてみたが、中華料理屋なんて、少し悪い油を使っている店の方が、流行っていたりする。 狭い歩道を猛スピードでやってきて、僕の横を走り過ぎた瞬間、自転車のブレーキの音が、背中で聞こえた。 自転車のブレーキのゴムと車輪のステンレスの摩擦が、遠藤賢司さんの吹くハーモニカの音と錯覚してしまう。 不協和音だが、何故か心地良い。 僕は、夜中の本町あたりを歩くのが好きだった。 本町というのは、東京で言うとどのあたりに似ているのかは知らないけれど、大阪の古くからのビジネス街である。 日曜日の夜ともなると、1人で歩くのは怖いぐらいひっそりとしている。 しかし、そんな夜中の本町にもやっている店はあるもので、僕は仕事の帰りに、備後町のその店に寄ることが自宅に帰る前の息抜きになっていた。 家には奥さんが晩ご飯を作って待っていてくれているのだけれど、週に2回ぐらいの寄り道は、奥さんとのコミュニケーションにも役立っているようで、少しばかりのアルコールは僕をして陽気たらしめるのでありまして、家庭にも円満な状況が発生する確率が上がるということのようであります。 それに、酔っ払うとすぐに寝てしまうので、奥さんも自由な時間ができて都合がいいらしい。 ただ、奥さんに言わせると突然に寄るよりは、前もって予告をしてから寄って欲しいと言うのだ。 なんでも結婚生活において、夕食の支度をしないで済むということぐらい嬉しいことはないんだそうで、朝に僕が玄関を出る時に「ひょっとしたら今日あたりに、帰りに寄り道するかもしれないよ。」なんて予告をしたなら、「やったー。絶対に寄って来てよ。」とくるのが大抵であります。 まあ、それで奥さんにとっても息抜きができるのなら、僕にとっても都合がいいというものではある。 10月ともなると、日の落ちるのも早くなって、お店に向かう道の暗さが心に優しく浸み込んでくる。 僕は、夜の音が子供のころから好きだった。 幼稚園の頃だか、小学生の頃だか覚えてないけれど、僕は中々寝付けない子供だったんだ。 夜の8時には親に寝るように布団に入ることを促されるんだけれど、まったく寝れない。 なので布団に入って、右に向いたり左に向いたりするんだけれど、それでも眠れなくて、仕方なく「クタリ」と力を抜いたら、色んな音が聞こえてくるようになる。 遠くに走る車のエンジンの音、さらに遠くの電車のレールの音、秋の虫の声、柱の時計の秒針の音、仕舞い忘れた隣の家の風鈴の音、近所の犬の鳴き声、近くを歩く酔っ払いの声、そんな音が何とも優しく、僕をその音のする場所へと空間をすり抜けて連れて行ってくれる。 誰かが、こんな夜中にも、仕事なのか、遊びなのか、兎に角、何かを起きていてやっているのである。 夜は静まり返っているのだけれど、どこかの暗闇で何かが動いている。 人がいるのである。 夜の暗さは、そんな郷愁にも似た懐かしさや、安心感を僕に与えてくれる。 そして、今日も僕は寄り道をしようとしていた。 バーと言えば高級そうなのであるけれど、見た目は喫茶店を改装したような作りで、カウンターとテーブル席は濃い色の木目調に仕上げているので、落ち着ける雰囲気はある。 本町にあるバー「アルカディア」だ。 今日も、カウンターの1番奥の席に座る。 僕は、絶対に他の客が来ないと解っている時は真ん中あたりに座るのだけれど、そうじゃない場合は、端っこに座る。 ずっと座っていられるからね。 電車の長いシートでもそうだ。 僕は1番端に座る。 これは誰でもそうだろう。 じゃ、1番端に誰か座っていたなら、どこに座るか。 見ていると、大概の人は端っこに座った人から、目測で1人分のスペースを空けて座る人が多い。 でも、僕は端っこから2番目に座る。 何故なら、端っこから2番目なら、次の駅に着いた時に座る位置をちょっとずらすだけで、後はそのままの位置で座っていられるからだ。 もし、スペースを空けたなら、駅に着く度に両側に座る人によって、位置を微調整し続けなきゃいけないからだ。 それは、微妙に面倒くさい。 それで思い出したのが、今日の朝の通勤電車での話だ。 僕はカウンターに座ってマスターに話しかけるともなしに話し出した。 こういう場合、大概は聞いていない素振りをするのだけれど、「ねえ、マスター聞いてるの?」と問いかけると、内容は聞いているようなのであります。 僕を一瞥して、また後ろを向いた。 それで、今日の朝の通勤電車だ。 長い座席の端っこにサラサラロングヘアーの20歳台の女の子が座っていた。 僕は、その横に座る。 眼鏡を掛けたその女性は、図書館で借りた分厚い本を閉じたまま膝の上に置いている。 「何を読んでいるのかな。」などと推測しながら、本の表紙は見ずに、少しだけ、ほんの少しだけ顔を女性に向ける。 顔はそのままに目だけを最大限横に向ける。 可愛い。 女性と言うよりは少女と言ってもいいぐらいに見た目が若い。 するとどうだ、とてもいい香りが漂ってきたのであります。 僕は香水の事は解らないけれど、すごくいい香りである。 グレープフルーツのような柑橘系がベースになっているようだけれど、そこにローズの香りや紅茶のアールグレイの香り、甘い南国の果実のような香り、そんな香りがミックスされていて、どうにも爽やかで色っぽい風が僕の鼻をかすめる。 とはいうものの、その香りは、若い女性の香りではあるものの、これは香水なのであって、その若い女性の香りそのものではないぐらい解る。 とはいうものの、間違いなくその女性の皮膚に塗られた香水が、女性の体温によって、その女性の皮膚から蒸発している彼女自身の匂いと混ざって発せられているものである。 まったく関係のない女性ではあるのだけれど、その彼女を少しばかり独占したい気分になるのは僕だけだろうか。 盗撮をしているような、彼女の1部を盗んでいるという後ろめたさと罪悪感。 勿論、盗撮なんてしたことはないのだけれど。 盗撮じゃなく、盗嗅か。 密かに、女性の香を嗅ぐ。 そんな不埒なことを考えながら2駅ほどウットリとしていた。 今日はラッキーな朝やなあ。 なんてことを考えていた。 なのであるが、少し変なのである。 たしかにウットリとするいい香りだ。 女性のセンスもいい。 でも、よく鼻の穴の、そのまた奥の匂いを分析するとあることに気が付いた。 この香りは、この香りの発生源は隣に座っているサラサラロングヘアーじゃない。 僕のまわりにまとわりつくように漂っている香り。 じゃ、誰なの。 その香りを、目を瞑りながら追っていくと、僕からすると女性の反対側に座っている人から発しているのである。 ゆっくりと、少しばかり顔を女性の反対側の人に向ける。 「そんなアホな。それはアカンやろ。」 そう呟いた。 隣にいたのは大学生ぐらいの年の男性だった。 やや小太りの男性は汗で、光っている首筋に香水を塗っていたのだ。 つまりは、僕は小太りの男性の香りに2駅もウットリとさせられていたのである。 何という誤算。 そして、無意味なウットリであったことか。 それにしても最近は男性も女性も付けられるユニセックスの香水も増えている。 これからは気をつけなければならない課題でだろう。 そんな話を僕は1人語りのようにカウンターに座って話している。 「ねえ、マスター聞いているの?」 そういうと、無表情でほんの数センチだけ首を縦に振った。 僕は1杯目に注文したビールを半分ほど流し込む。 「それにしても、中島みゆきさんは可愛いよね。」 マスターに向かって話はするけれども、聞いているのだろうか。 僕が中島みゆきさんを好きになったのは、2年前である。 それまでは、みゆきさんを知ってはいたものの、歌の1曲さえ終わりまで聞いたことがなかった。 そんな僕が、ある日突然に、こころを奪われてしまったのである。 それは、2年前の夏の事だ。 「ねえ、マスター聞いてる?」 マスターは相変わらず無表情である。 ある日、僕はみゆきさんの歌っている姿をユーチューブで見ることがあった。 そして、その瞬間である。 体中の血の成分に恋した時に出るホルモンが200パーセントの濃度で放出された。 「好きだ。どうしようもなく好きだ。」 そう思った。 それは歌が好きになったというのではない。 みゆきさんが好きになったのである。 みゆきさんという存在そのものに、心奪われたのである。 あるいは見た目なのだろう。 そして思った。 「中島みゆきさんって、こんなにも可愛かったんだ。」 本当にそれまでは、興味がなかったんだよね。 どちらかというと、野暮ったいイメージだった。 でも、中島みゆきさんって可愛い、そう思ってから、他のビデオなどを見るたびに好きになっていった。 中でも僕の気持ちを決定づけたのは、夜会「シャングリラ」の冒頭の「怜子」だ。 黒のノースリーブのミニのワンピース。 ステージの中央に置かれた椅子に足を組んで歌う、その足がセクシーなのであります。 「え、そこなん。」 なんて、大阪に住んでいるみゆきさんのファンがいたらツッコミがありそうだけれど、好きになるポイントなんてそんなものだ。 キムタクのファンだって、そうだろう。 あの映画のこの部分の演技が上手かったから、ファンになったんです。 なんて人は、いないに違いない。 たぶん、「きゃー、カッコイイ。」という具合に、パッと見でファンになったのだろう。 僕の場合も、「こんな可愛い女の人っているんだ。」という偶然のパッと見で、素直に思った訳でありまして、その他の理由はない。 それにしても、あのシャングリラの怜子は、どうしょうもないぐらい素敵だ。 何が良かったかって、セクシーな足や二の腕もそうだけど、歌っているときの目なんだよね。 その目の中でも、白目の部分である。 色んな角度からのカメラワークに合わせて、みゆきさんも視線を変える。 そのカメラがみゆきさんの白目を捕らえた。 もう、だめだ。 白目でセクシーさを表現できる歌手は、今までいただろうか。 みゆきさんの白目は、このシャングリラの怜子のときだけじゃない。 白目に注目をすると、どのシーンも白目が活きているんだ。 これが計算された白目であったなら、これはそうとうな男垂らしなのかもしれない。 それは、嫌だ。 「嫌だ、嫌だ、イヤ、イヤ、イヤーン。」 ワイシャツの胸の乳首のあたりを両手の指で摘まみ上げて、上半身を左右に振る。 こんなギャグで笑ってくれるのは、50才以上の中年だけだろけれど、やってしまう。 それにしても、こんなお店で、「イヤーン。」は、恥ずかしかったな。 「ク、ク、ク。マスター、今の僕のギャグはちょっと恥ずかしかったよね。ねえ、マスター聞いてるの?」 どうして、こんなにもマスターは無口なんだ。 そんでもって、みゆきさんの夜会「シャングリラ」のシーンである。 僕はこの時、初めて白目の存在意義に気がついた。 そう、白目なのであります! みゆきさんの白目は、絶品だ。 それにしても、神様は憎らしい演出をしてくれるものである。 人間という生き物に白目をお作りになられた。 そもそも白目なんて、人間が生きるということにおいて、必要のないものである。 僕も今まで、白目について考えることもなかった。 それでも、よく考えてみると、生理的に言っても、見るという目の器官に必要なものは、黒目だけでいい。 白目がなくても、全然大丈夫なのだ。 さらに言えば、黒目も必要がない。 水晶体と網膜さえあれば、物を見ることが出来る。 それなのに、それなのに、ああ、それなのに、白目は存在する。 不思議である。 人は進化をするときに白目を必要としていたということだろうか。 そして、この黒目と白目というコントラストであることが、また目という器官を魅力的に見せる。 「黒と白。」 これは、あたかも陰と陽を暗示しているようだとは思わないかい。 完全なる組み合わせ。 そして、完全なるバランス。 そして、完全なる美。 それが、目という器官の持っている潜在的な姿である。 そして、みゆきさんの白目だ。 ああ、みゆきさんの白目をずっと見ていたい。 とはいうものの、みゆきさんの白目を見ると言うことは、みゆきさんは、僕以外の別の人を見てるということになるのでありまして、それはひどく寂しいものでありますから、黒目も、見せてくれー。 そして、僕を見つめてくれー。 と、叫びたくなる。 シマッタ!!! 今僕は、感極まって、あるいは叫んでしまったのではないだろうか。 「ねえ、マスター。僕、今、何か言いましたっけ。今僕、何か叫んじゃった?ねえ、マスター、聞いてるの?」 ただ、頷くだけなんだね。「そうだ、マスター。ビールもう1杯とピーナッチョください。」 シマッタ!!! ピーナッチョって言っちゃったよ。 勿論、僕だって普段はピーナッツって言ってるんだよ。 でも、時々ピーナッチョがでちゃうんだよね。 それがさあ、昔付き合ってた女の子と喋る時にさ、何故か語尾にチョとか、チュなんて言葉をくっ付けて遊んでたんだよね。 赤ちゃん言葉なんか使っちゃっててさ、ククク、イヤダー、バカーなんてさ。 シマッタ!!! 知らないあいだに昔を思い出して、カウンターをバンバン手で叩いてしまったよ。 誰も見てないふりをしてくれてるけれど、これじゃ周りの人にイタイ人だって思われてるよ。 ここは、ちょっと挽回しなくちゃいけないだろう。 左手で髪を掻き上げて、ペンを取り出し、コースターに何やら、アルファベットを書いてみる。 このアルファベットに意味は無い。 ただ、人はアルファベットを見ると、インテリと勘違いする人が多いのだ。 うん。 これでさっきのテーブルをバンバン叩いたのは、少なくとも帳消しになったはずだ。 ただ、コースターに書いたアルファベットが、HANAKUSOというローマ字だったことが、失敗である。 何となく鼻の穴がムズムズするので、そう書いてしまったのか。 ローマ字とは小学生でもあるまいし、それに鼻くそとは見られたくないよ。 「あ、マスター、コースター見てた?え?何を見たって?いや、見てなかったらそれでいいんだ。いや、本当にいいんだよ。」 それにしても、ローマ字ってどうなのだろうと思う。 僕は、いまだにローマ字のぬかるみから抜け出せていない。 先日の休みの日に、百貨店に行った時のことだ。 「と、と、と、、、。」 「と、と、と、とり、とり、、、。」 「と、と、と、トリウム???」 エスカレーターの横に貼られた広告のポスターのブランドの名前が読めない。 「これ何て読むんやろ。」奥さんに尋ねた。 「トリンプやん。」 これでトリンプと読むとは、ビックリだ。 「ねえ、マスター。トリンプって知ってる?」 あれ、また無視なのか。 でも聞いていたのか後ろを向いたまま、首を縦に振った。 勿論、トリンプというブランドは聞いたことはあるが、それほど興味もなかったのだろう。 女性下着のブランドだもの。 どんな綴りかなんて考えたことがなかった。 「Triumph」 どう読んでもトリンプとは読めない。 勿論、どこかの国の言葉だろうから、ローマ字読みをしても、正解の発音にならないのは解るのだけれど、余りにも違いすぎるじゃない。 これは、誰でも感じていることだと思うだろうけど、子供のころから英語をもっと勉強していれば良かった。 高校や大学時代でも、やっぱりその必要性を感じて、いろんな英会話の本やテープなどを買って挑戦したけれども、いつもギブアップして終わってしまった。 英語が話せれば、カッコいいんだけどなあ。 「ヘイ、レイディー。」 なんて、サラサラロングヘアーのアメリカの女の子に声を掛けられたかもしれない。 アメリカの娘は発展家が多いからね、すぐに「アイラブユー。」なんてことになってさ。 「おお、ジャスミン。アイラブユー。」ってね。 そんでもって、ジャスミンも「おお、アイライブユー・ツー。」なんてことになる。 ククク。 もう、あれだよ。 「ジャスミン。チュー。」 「ボンゾウ。チュー。」 ボンゾウとは、僕の名前だ。 「ジャスミン。チュー。」 「ボンゾウ。チュー。」 なんてさ。 「チュー。」 「チュー。」 ってさ。 「ねっ。そうだよね。マスター。ねえ、マスター、チュー。」 いや、マスターにチューは気持ち悪い。 それにしても、僕のチューに無視とは、これ如何にだよ。 そんでもってさ。 英語が出来ないという、その元凶は小学生のローマ字教育にあるんじゃないだろうか。 そう最近は思うんだよね。 日本語の音韻をアルファベットに置き換えるという作業を一所懸命に練習したお蔭で、アルファベットを日本語の音韻で読む癖が付いてしまったようだ。 小学生の時に、今もあるのか知らないのだけれど、4本の線が入っていて、下から2本目が赤い線のアルファベットの練習用のノートがあった。 僕はその線に、削りたての鉛筆で、きっちりとアルファベットを書くという作業が好きだった。 白い蛍光灯の下で、お尻のところをかじった鉛筆の木の香りに、まだ知らない外国の文化を感じながら、線からはみ出さないように、大文字と小文字の練習をしていた。 小学生にとって、アルファベットを書くということは、すごく大人になった気持ちがしたものだ。 その後、中学生になってから、英語を勉強するようになったのだけれど、もうその時にはアルファベットを日本語の音韻で読む癖に洗脳されていた。 これからの国際時代を乗り切るためには、ローマ字は一番後に教えてもいいんじゃないだろうか。 小学生の1年生ぐらいで英語を教えればいい。 もう、直接、英語から入るべきなんだ。 ローマ字は高校生になってから、やればいい。 小学生に教えちゃ駄目だ。 文部省の偉いさんは、この僕を見てほしい。 今でも、ルイヴィトンというアルファベットを見ると、心のなかで「ルイスビトン」と言っている自分がいるんだ。 勿論、ルイヴィトンであることは、いくら僕でも知っている。 でも、あのアルファベットを見たら、ルイスになっちゃう。 エルメスもそうだ。 ココロの中で一度、「ヘルメス」と言ってから、それをまた、頭の中でエルメスに変換して、然る後に、エルメスと発音しているんだよね。 疲れる。 アルファベットのブランド名が氾濫している現在、この作業を頭の中で繰り返すのは、疲れる。 こんな被害者を出さないためにも、小学生の1年生から英語教育をと叫びたい。 ローマ字はいらない。 「ねえ、マスター。そう思わない?ねえ、マスター聞いてるの?」 「そのトリンプっていう呼び方は、日本だけですよ。英語では『トライアンフ』って発音するらしいですよ。」 「あらまあ。何でマスターそんなこと知ってるの。あ、ひょっとして仕事が終わったら女装が趣味だったりして。あ、怒ってるの?ねえ、マスター。」 やっと喋ったと思ったら女性の下着の話だものね。 びっくりだわ。 マスターは、また後ろを向いて、首を横に振った。 「いっそのこと、日本語では、「トリウムプ」と言うことにしたらいいのにね。」 また、無視。 「はい、ピーナッチョとビールッチョです。」 とマスターが、テーブルに、コトリと静かな音で置いた。 それはないだろう。 ピーナッチョは、ツとチョで似てるじゃない。 ビールのルとチョは似合わないだろう。 それにしても、普段は無口なのに、こういう時だけ、そんなことを言うんだね。 それも無表情でよく言えたものだ。 というか、僕が言ったピーナッチョっていう話も、ちゃんと聞いていたんだね。 そういえばさ。 このバターピーナッツというのは、僕は大好きなだけど、バターって書いてあるのに、本当にバターを使っているのは少ないんだよね。 マーガリンみたいな植物性の油脂だったりする。 これってズッコイよね。 僕はバターが大好きだから、ここはこだわりたいんだ。 朝もね、食パンを焼いて食べることがあるんだけれど、バターをたっぷり塗るのが好きなんだ。 焼いたトーストにバターを角切りにして、そんでもってパンに乗っけるわけ。 そんでもって、その角切りのバターが何個も乗っかったパンを、更にトースターに入れてバターを溶かすんだ。 もう、斜めにしたらバターが滴り落ちてくるよ。 でも、それを食べるのが美味いんだね。 ただ、食パンを焼くのは、トースターじゃなくてフライパンが1番美味いんだな。 表面がすべすべに焼けて、中がしっとりとしててさ。 でも、バターが滴り落ちるまで塗れないのが難なんだ。 バターをたっぷり塗った食パンってビールのあてにもなるよね。 「ねえ、マスターさ、そう思わない?」 少しだけ頷く。 ってさ、首を縦に振ったけど、それは僕の意見に同調してるの、否定してるの。 あ、そうだ、みゆきさんの話だったね。 「ね、そうだよね、マスター。」 僕は、みゆきさんが大好きだって言ったよね。 とはいうものの、それは大スターとファンという関係を望んでいるわけではないんだよね。 僕は、みゆきさんとのロマンスを夢見ているんだ。 「ロマンス。」 素敵な言葉だ。 その言葉を聞くだけで、胸が高鳴る。 とはいうものの、みゆきさんも僕も、しいて言えばさ、しいてね、結構なお年頃だって言っても可笑しくない年なんだよね。 これは急がなきゃだよね。 だってさ、いくら好きだとは言っても、おじいさんとおばあさんになってからのロマンスなんて、切なすぎるよ。 「ふがふが。みゆきしゃん。口吸わせてくれへんかの。ふがふが。」 この口吸うとは、「キッス」のことだよ。 勿論、キッスという言葉は、おじいさんになっても覚えているのだろうけれど、自分がおじいさんだと自覚をすると、こんな言葉を使ってしまうんだね。 おじいさんという言葉を自分に当てはめたときに、自分でおじいさんを演じることになるんだ。 人を、ある言葉で括ってしまうことは、その人を固定化してしまうことになる。 ある人を、バカだという言葉で括ってしまうと、その人はバカを演じようとする。 ある人を、優しいという言葉で括ってしまうと、その人は優しい人を演じようとする。 僕は、人から男前って言葉で括られてるから、人前では男前を演じてるんだね。 ってさ。 「ククク。僕は男前を演じているんだよ。でもさ、男前に加えて頭もいいでしょ。みんなの嫉妬に怯えてるんだよね。同性の嫉妬は怖いものね。ね、マスター。ククク。」 あ、ごめん。 また、カウンターをバンバン手で叩いちゃったよ。 「マスター。ごめん。カウンターをバンバンしちゃったね。」 僕は、少し猫背になって、みんなの視線をかわそうとする。 そんでもってさ、さっきのおじいさんという言葉でくくる話だよ。 世間から、おじいさんという言葉をなくしてしまえば、おじいさんなんて存在しなくなる。つまり単なる人であって、その方が潔い気もしないかい。 とはいうものの、僕は愚でかつ凡なのでありますからね、きっとおじいさんになったら、おじいさんという言葉によって、おじいさんになってしまうんだろうな。 寂しいな。 そして、みゆきさんとの会話だ。 「ふがふが。みゆきしゃん。口吸わせてちょー。」 「何言ってんの。おじいさんにもなって、キスなんて。」 「ふがふが。ええやんか。ばぶばぶー。」 赤ちゃん帰りもしている筈だ。 そんでもって、「ぶちゅー。」とね。 「ふがふが。ばぶばぶ。みゆきしゃーん。口吸わせてーな。」 「何言ってんの。今、無理矢理ぶちゅーって、やったやないの。」 「え?わしゃ、知らんで。まだ、口も吸わせてもろてないし、ご飯も食べてない。」 少々、認知も入っている訳だ。 なんてことになる道理でありまして、時間がたつと言うことは、かくも悲しいものであるのかもしれない。 こんなのは、ロマンスじゃない。 胸の高鳴りも、「救心」が必要な、高鳴りになって、どうするの。 なので、急がなきゃという訳なんだ。 「ねえ、マスターさ、どう思う?」 あ、そうだ。 みゆきさんの白目だよ。 さっき、みゆきさんの白目は絶品だって話したよね。 そんでもってさ、みゆきさんの白目は神様がくれた贈り物だと確信するようになったことがあるんだ。 みゆきさんのコンサートに行くために東京へ行ったんだね。 その時に、次の日に時間があったんで、青山の岡本太郎記念館に行ったんだ。 そこで、みゆきさんの白目についての僕の考察を確信したんだね。 2階にある岡本太郎さんの作品を1つひとつ見ていたのだけれど、あることに気が付いた。 岡本太郎さんの作品は、目を意識して描かれた作品ばかりだったんだ。 その時は、動物をモチーフにした絵が多かったんだけれど。 そのどれもが、これでどうだっていう感じの色遣いと、踊るような筆遣いで、岡本太郎さんらしい迫力のある絵ばかりだったんだよね。 それでさ、抽象的な形をした素材の組み合わせも多い中に、目だけはしっかりと目として描かれていたんだ。 その目を描いた作品を見ていると、丸い丸い黒い丸がある。 黒目だ。 そして、その黒い丸の両側に、白い白い三角が描かれている。 白目だ。 岡本太郎さんぐらいの芸術家になると、白目を白で表現しなくても、白目という生物の器官を表現できる筈である。 白でなくても、そして三角でなくても、白目というものを描くことができる。 なのに、どの作品の目にも、白い絵の具で白目を描いている。 その白い絵の具の筆のタッチも、間近で見ることができた。 果たして、どうして岡本太郎さんは、白目を白い絵の具で描いたのか。 それは、白目は白であるがゆえに美しいからである。 岡本太郎さんも、白目の魅力に取りつかれてしまった1人の男性であったのだと、その時に僕は確信したんだ。 あるいは岡本太郎さんは、白目を描きたいために、黒目を描き、2つの目を描き、その目の持ち主の人間や動物を描き、作品を作ってきたのじゃないかな。 これは、間違っていないと思う。 ところがだ、ところがである。 岡本太郎さんは、死ぬまでその白目を完成させることができなかったに違いない。 何故なら、中島みゆきさんを知らないからである。 あるいは、知っていたのかもしれないが、みゆきさんの白目には気が付かなかったのだろう。 みゆきさんの白目の可愛さを知っていたなら、岡本太郎さんの絵は全く違ったものになっていたことは疑いもない。 だって、あんなに、あんなにだよ、可愛いみゆきさんの白目に気が付いて、こころを奪われない男性なんているもんですか。 たぶん、描く作品、描く作品、すべてが中島みゆきさんの肖像画になっていただろう。 狂ったようにみゆきさんの絵を描いていた筈である。 そして、世間から気持ち悪いオッサンと思われたことだろう。 岸田劉生の麗子像のようにね。 麗子像って怖いよね。 「ねえ、マスター。麗子像って怖くない?ねえ。」 まったく無視。 あ、でも、美味しいね。このピーナッチョ。 それにしてもさあ。 僕が前から疑問に思ってたことがあるんだ。 ピーナッチョってさ、売ってる種類が3種類あるんだよね。 落花生とさ、これは解るんだ、殻付きだから、テレビなんか見ながら殻を割って食べるのって楽しいんだよね。 そんでもってさ、バターピーナッチョがある。 これも解るんだね、そのまま食べればいいんだから。 でも、解らないのが、薄皮の付いたピーナッチョなんだよ。 あの薄皮って意味あるのかな。 大概はさ、あの薄皮を取って食べるんだよね。 でも、付いてる。 殻を割って取るのは大変だと思うよ。 複雑な機械が必要だろう。 でも、そこまでやったんなら薄皮も取ればいいのにと思うんだよね。 薄皮剥くぐらいは、殻取ったんだから簡単に出来るだろうに。 ねえ、そう思わない。 でも、そんなことは誰でも考えると思うんだよね。 あれを作ってる人も思っているんだよ。 でも、薄皮を残して作ってる。 だから、敢えて薄皮を残してるのかもしれないと思い始めたんだ。 誰かの陰謀なのかもしれないよ。 或いは、フリーメイソンあたりなのか。 しかし、よく考えてみるとさ、薄皮付きのピーナッチョを初めて作った会社の、社長の個人的な願望を実現させるための小道具として作り始めたのかもしれないな。 社長の陰謀。 この社長は、すんごく甘えたさんの社長さんだったんだね。 でさ、ピーナッチョを彼女に食べさせてもらいたかったんだ。 ところがだ、神様も憎いことをしてくれるもので、この社長はものすごく口が臭かったんだ。 彼女に「ピーナッチョを、お口アーンで食べさせて、ばぶー。」 なんてさ、赤ちゃん言葉でおねだりをする訳。 甘えたさんは、赤ちゃん言葉を使うことが多いんだよね。 でも、彼女は社長の財産目当てで付き合ってて、そこに愛はなかったのね。 社長の臭い口にお口アーンで食べさせた時に、もし社長の唇に指でも触れてしまうことがあったなら、気絶しそうだから、お口アーンで食べさせてっていわれても、「イヤダー。」なんて断ってたのね。 そんでもって、何度も何度も断られるものだからさ、社長も対策を立てた訳なんだ。 社長の唇に触れなくても、お口アーンをしてもらえる方法。 それが薄皮付きのピーナッチョだったんだね。 薄皮が付いてるからさ、その薄皮を持って社長の唇の前まで持ってくるんだ。 そして、唇に触れないぐらいの距離でさ、アーンって大きく開けられた社長の口に、薄皮を摘まんだ指に力を入れて中のピーナッチョを飛ばすんだ。 薄皮から押し出されたピーナッチョは、スポーンっと飛んで行って、めでたく社長の口の中に入るって仕掛けだったんだ。 これを社長が考えて薄皮付きのピーナッチョを作ったんだね。 まあ、これは推測だけれど、悲しい話だよね。 でもさあ、もしだよ、みゆきさんがピーナッチョを食べさせてくれるんだったら、お口にスポーンでもいいなあ。 「はい、ボンゾウちゃん、アーンして。ピーナッチョ食べさせてあげるね。」ってね。 「ありがとう、みゆきさん。」 「はい。」スポーン! 「はい。」スポーン! 「はい。」スポーン! スポーン、スポーンって、何かやっぱり寂しい。 でも、みゆきさんにアーンしてもらって嬉しい。 寂しい、嬉しい、寂しい、嬉しい。 あーん。もう気がおかしくなっちゃうよ。 「バン、バン、バン。」 おっと、危なかったよ。 また、テーブルをバンバンするところだったよ。 でも、今は咄嗟の判断で、テーブルから僕の膝に軌道を修正したからね。 自分の膝バンバンなら周りに迷惑を掛けてないだろう。 「ねえ、マスター。今の、膝バンバンだったから、大丈夫だったよね、周りに迷惑かけてないよね。」 えっ?結構音が大きかったからビックリしたって? それは、ゴメンナサイ。 それに、満面の笑みで口をアーンって開けてたって? それは、非常に恥ずかしいね。 もうしないよ。 うん、しない。 それにしてもさあ。 その社長さんて、気の毒な気もするよね。 口が臭いって言われてもさ、社長さんも歯磨きしたり、口臭を消すシュッってするやつ使ってただろうに。 僕もさ、最近年のせいか体臭が気になってね。 年と共にだんだん臭くなっているようなんだ。 これじゃさ、もしも、もしもだよ。 みゆきさんと出会ってさ、もしもだよ、デートが出来てさ、もしもだよ、ちょっと良い雰囲気になったときにさ、臭い匂いで嫌われるんじゃないかって思うとさ、ハイターのお風呂に入りたくなるよ。 真っ白になっちゃったりしてね。 そんでもってさ、もしみゆきさんとデートってことも100%無い訳じゃないやん、、、。 大都会東京のホテルの1室。 白いレースのカーテンを閉めると、みゆきさんは言った。 「シャツを脱がしてあ・げ・る。」 遂に待っていた瞬間がやってきたのであります。 ボタンを上から1つ、また1つ外していく。 「何、この匂い。雑巾の腐った匂いがする。とういうかドブの匂い?」 臭い匂いに戸惑いながらもシャツのボタンを最後まで外すと、その下に、まだらに黄色くなった僕の下着が現れる。 「何、このまだらの黄色は、、、。もう、最低!」 みゆきさんには最低で、僕には最悪だ。 どうにも、うまくいかない。 妄想であっても、うまくいかないのでありますから、現実は、確実にうまくいかないに違いない。 というか、現実は、会えるところまでいかないと、僕の理性でもはっきりと想像できる。 ならば、会えないのだから、臭い匂いや、まだらな黄色は気にしなくてもいいのだけれど、どうも気になるんだよ。 もともと、汗かきであったもんだからさ。 寒い冬でも食事をしたら必ず手の甲に汗がにじんじゃうんだよね。 夏はもうシャツが体に引っ付いて脱げないぐらいボトボトに水分を吸っている。 でも、ちょっと前までは汗をかいても「うわー。きラキラ水だ。綺麗だなあ。」なんて冗談を言ってたんだね。 首からでる黄色い汗も、僕は「トパーズ水」と呼んでいたんだ。 まだ若干の余裕があった。 でも、そのキラキラ水やトパーズ水が、どうも臭い匂いの原因のようなのである。 仕事場の女性からは、雑巾の腐った匂いと言われるんだ。 雑巾の匂いじゃないんですよ。 雑巾の腐った匂いなんですよ。 最悪だ。 特に最近は、自分でも匂うような気がして、休みの日にはインターネットで、「汗がドブの匂い。」とか「シャツが黄色くなる」なんてキーワードで検索を繰り返し繰り返し、そして更に繰り返し調べるのだけれど、それでも解決策が見いだせずに、ションボリとなっていたんだ。 僕はもともと汗かきなので、夜はお風呂、朝はシャワーを必ずするし、朝シャワーから出ると、体に制汗剤を塗りたくるし、下着のシャツには汗のにおいをバラの匂いに変える消臭剤をスプレーしまくるし、そんなことをしていても匂ったり黄色くなったりするのでは、もう堪らないじゃないですか。 泣きたいよー。 最近は、家に帰ったら真っ先に下着のシャツを脱いで、洗面所で汗の黄ばみが取れるという「ウタマロ」という石鹸でゴシゴシと予備洗いをするようにした。 僕が先日も洗面所で、「♪クッサイさん消えろー、消えろー。黄色いさん、なくなれ、なくなれー♪」なんて、デタラメな鼻歌を歌いながらウタマロでゴシゴシしていたら、その横で奥さんが悲しそうな目で凡を見ていた。 「もう、やめてー。悲しすぎるやん。もう、臭くてもいいやん。」 と、泣きそうにつぶやいた。 どうも、僕の臭いさんと黄色いさんは、僕の家庭を悲しくさせるようなんだ。 どうして神様は、ここにきて僕に臭いさんと黄色いさんという悲しいギフトをくれたんだろうね。 ♪人のー、恋路をー、邪魔するやつはよーうー、馬に蹴られてー、死ねばいーい♪ とはいうものの、神様だから死なない訳なんだけどね。 何とかならないものだろうかね。 「ねえ、何とかならないかなあ。ねえ、マスター。」 無言。 「えっ。臭い?ねえ、臭い?僕、今、クサイの?」 泣きたくなっちゃうな。 ほんと。 でも、まあみゆきさんに会える日までに消臭の対策を考えればいいか。 臭いんだから、仕方ないもんね。 それにしてもさあ、昨日の夜もみゆきさんのDVD見てたんだけれどさ、コンサートのね、「歌旅」のね。 どうしてみゆきさんて、あんなに可愛いんだろうね。 特に1曲歌った後に、天井を見上げたり、横を向いたりして、決め顔を作ってくれるんだ。 その時の表情がこれまた、いいんだね。 僕がカメラマンなら、この決め顔だけで1冊の写真集が出来るぐらい撮りまくっちゃうな。 100枚の写真を撮ったら、100枚ともベストショットだ。 普通のグラビアアイドルでは、こうはいかない。 100枚撮っても、その内使える写真は、1枚あるかどうかだ。 後の99枚は捨ててしまうゴミみたいな写真なのである。 それにくらべて、みゆきさんはどうだ。 100枚の内、捨てるショットは1枚もない。 つまりは、1瞬1瞬が、1秒1秒が、すべて可愛いという事なのである。 こんな女性は他にいない。 「え、何マスター。ヨダレが出てる?」 シマッタ!!! 最近、涙腺も緩くなったけれど、ヨダレの線も弱くなったんだよね。 それでも、みゆきさんだからヨダレが出るんだね。 だって素敵なんだもの。 だいぶ前の事だけれど、みゆきさんの2012年のコンサートに行った時のことだよ。 その時に東京に行ったんだね。 東京。 憧れの空間。 緊張するよね。 20代に東京へ行った時は、そんなことはなかった。 東京と言えば、ドラマの舞台で知っている憧れの土地で、行くことが楽しくて仕方がなかった。 でも、今は緊張をする。 みゆきさんが普段の生活をしている東京だということが、更にドキドキ感を増長させているのかもしれない。 20才代のときに友人と東京へ遊びに行こうという事になった。 すると、その友人のお母さんは「東京なんかに行ったら、生き馬の目を抜かれるで。」と反対したそうです。 時代も変わって、今こんなことを言うお母さんはいないだろうね。 とはいうものの、この言葉の意味は今この現在にも残っているようで、僕はすっかりみゆきさんに生き馬の目を抜かれた状態にさせられてしまったようだ。 もう何を見ても興味が湧かないし、何をしたいという衝動も湧いてこない。 出るのはため息ばかりだ。 みゆきさんという愛する人に、逢いたくても逢えない、得ようとしても得ることが叶わない。 人のこころを、一瞬ハイにして、その後、ズタズタに、クニャクニャに、ボロボロにして、鬱屈させて、落ち込ませて、絶望を思い知らされる病気。 、、、、恋わずらい。 東京国際フォーラムでの、初めてのコンサートは、その恋わずらいの特効薬に果たしてなったのかは、覚えていないけれど少し元気が出たと思う。 何しろみゆきさんを直に見れるんだから。 この直に見れるという事は、よくよく考えれば、ただ事ではありませんですよ。 エライことなんですよ。 まさしく、みゆきさんと「合体」できるということなんだ。 恋していない人は、「そんなん、合体できるわけがないやん。」と思うかもしれない。 ステージと客席は離れてるんだし、僕が座った席なんか2階の後ろの方だ。 そう思う人は、想像力が欠如しているのである。 コンサート会場というものを、この空間をよくよく観察するがいい。 目を閉じて、自分自身とその外の空間に意識を集中してみてください。 何があるか。 そこには何もない。 「でも、距離があるし、空気もあるやん。」という反論があるかもしれない。 でも、空気とは何か。 窒素と酸素と二酸化炭素から出来ているものである。 そしたら、その窒素でも酸素でもは、何で出来ているか。 それは、原子から出来ている。 では、原子は何から出来ているかと言うと、 原子核と電子から出来ている。 原子核と電子の間には、何もない空間があるだけだ。 殆どがスカスカの空間。 そして、最近の説では、電子は質量も大きさもほとんどゼロだという。 つまりは、僕とみゆきさんの間は、スカスカで何もないということだ。 僕とみゆきさんを隔てるものは、無いもないということを意味する。 しかも、ここが重要な点であるが、みゆきさんは生きている。 そうするとどいうことか。 みゆきさんは呼吸をしているのです。 呼吸とは何か。 「ねえ、マスター聞いてる?ここからが大切な部分だよ。」 あれ?今、マスターは頷いたのかな、ただ下を向いただけなのかな。 そんでもって、呼吸だよ。 つまりは、呼吸とは、みゆきさんが吸い込んだ酸素を、みゆきさんの体内で代謝して、水と二酸化炭素に分解することである。 そして呼気として排出される。 そういう人間の生理現象。 なので、その排出された水と二酸化炭素は、間違いなくみゆきさんから発せられたものであって、みゆきさんの体内のミトコンドリアで生成されたものなのであります。 つまりは、今の今までみゆきさんの体内の一部であったものなのです。 するとどうなるか。 みゆきさんのミトコンドリアで生成された二酸化炭素分子が、コンサート会場の空調によって拡散して、客席で見ている僕の吸気として、僕の鼻や喉を経由して、僕の肺に入るということなんだ。 勿論、肺で吸収される訳ではないのですが、みゆきさんの二酸化炭素分子が、僕の肺細胞に直接触れるのであります。 そして、触れるのは二酸化炭素分子だけではない。 みゆきさんからは、体内の揮発性の不純物質や、ミトコンドリアで生成された水が、不感蒸泄として、呼気や皮膚から拡散して、これもまた凡の皮膚や肺細胞に直接触れるのだ。 不感蒸泄だよ、不感蒸泄。 すごい専門用語だよ。 詰まりは、みゆきさんの汗が蒸発して、空気中に漂っているって訳。 それが、空調で、僕の目の前にまで、飛んできているっていう訳。 そして、ひょっとしたら、その水蒸気を、凡が呼吸しているかもしれないという訳。 これこそ正に合体と言わずに何といおうか。 「分子レベルでの、みゆきさんとの合体。」 考えただけで、ゾクゾクする。 僕は、深く瞑想状態に入ることで、ここまでの過程を、脳内にありありとイメージできる。 「あ、やめろ。やめてくれ。」 「ああ、だめだ。」 「この会場から立ち去ってくれ!お願いだ。」 瞑想状態で、僕はイメージと戦っていた。 僕のイメージでは、みゆきさんの呼気から発せられる水蒸気と合体するはずだったのね。 でも、そのイメージに、勝手に加齢臭の漂う中年のオッサンとか、首筋に汗を書いた肥えたニイチャン、にんにくラーメンを食べた後のTシャツの学生とかが入り込んできたのだ。 臭いオッサンの水蒸気と首筋に汗の水蒸気、にんにくラーメンの水蒸気、そして、臭いオッサンの二酸化炭素、首筋に汗の二酸化炭素、にんにくラーメンの二酸化炭素が、僕の身体にまとわりついてくる。 「ああ、息が出来ない!」 もし、息をしたなら、臭いオッサンの水蒸気と二酸化炭素や、首筋に汗の水蒸気と二酸化炭素、にんにくラーメンの水蒸気と二酸化炭素を吸い込んでしまう。 「ああ、もう限界だ。苦しいよー。」 人間は息を1分間も止めていることができない。 我慢できずに息を吸ってしまうだろう。 するとどうなる。 臭いオッサンと合体! 首筋に汗のニイチャンと合体! にんにくラーメンの学生と合体! 「助けてくれー。僕は合体なんかしたくない!」 すると、僕の肩を叩く人がいた。 マスターだ。 「大丈夫ですか。目を瞑ったかと思ったら、自分で自分の首を絞めて、バタバタと苦しそうにもがきだしたらから。ビックリしたよ。」 「マスター。ありがとう。でも、僕、今皆の注目を浴びちゃたのかな。ごめんね。恥ずかしいね。」 するとマスターは、無言で大きく頷いた。 やっぱり疲れてるのかな。 そうだ、今日はこれで帰ろう。 ゆっくり寝りゃ回復もするさ。 店を出ると、もう肌寒い空気が僕の高ぶった気持ちをクールダウンしてくれる。 御堂筋まで出て、歩いて帰ることにした。 御堂筋線は北から南へ向けて一方通行だ。 そのヘッドライトがキラキラと僕を照らしているようだ。 ロマンチック。 でも、1人ぼっちのロマンチック。 ここに、みゆきさんがいてくれたらなあ。 「ねえ、ボンゾウちゃん。ヘッドライト、キラキラ輝いて綺麗だよ。」 「うん、そうだね。でも、みゆきさんの方がキラキラ輝いているよ。」 「きゃー。嫌だ恥ずかしい。ボンゾウちゃんもキラキラしてるよ。」 「みゆきさんが、キラキラだよ。」 「ボンゾウちゃんが、キラキラよ。」 「みゆきさん、キラキラ。」 「ボンゾウちゃん、キラキラ。」 「みゆきさん、キラキラ。」 「ボンゾウちゃん、キラキラ。」 「みゆきさん。」 「ボンゾウちゃん。」 「みゆきさん。」 「ボンゾウちゃん。」 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。 御堂筋の銀杏の木の下で、ボンゾウとみゆきさんのイチャイチャは、朝まで続くのであった。 「ねえ、みゆきさんさあ。ボンゾウちゃん、みゆきさんって、言い続けるのも疲れるね。」 「だって、もう御堂筋の道端で7時間も立ったまま、ボンゾウちゃんみゆきさんって言い続けてるんだよ。みゆきヘトヘトだよー。」 「僕もヘトヘトや。」 「じゃ、もうボンゾウちゃんみゆきさんって言い続けるの止めて、モーニングでも食べて帰らへん?」 「そううしよか。リポビタンも飲んでいいかな。」 「あたしも、飲むーっ。」 どこまでも、どこまでも、みゆきさんに傍にいて欲しい僕なのであります。 それにしても、また妄想してしまったようだ。 やっぱり疲れているのね。 淀屋橋から京阪電車に乗り込むと、ウトウトと寝てしまいそうだった。 ================================================ 次の週の水曜日。 僕は、またお店に寄り道をしてしまう。 「マスター。ビールね。それと、、、アテは何かあるかな。」 「今日は、豚の生姜焼きがありますよ。」 「いいねえ。じゃ、それお願いします。」 ここの店は、定番のメニューもあるのだけれど、日替わりで何種類かを用意している。 それがまた、結構イケル。 アテといっても僕好みの濃い味付けのボリュームのあるおかずだ。 バーと言っても、居酒屋的でもある。 それにしてもさあ、豚肉ってやっぱり、焼いたりカツにしたりするのが美味しいよね。 僕はどうも、あの冷しゃぶという料理に疑問があるんだよね。 「美味い。」と感じたことがない。 たまに奥さんも作ることがある。 御膳に乗った冷しゃぶを見て、「冷しゃぶか。」とココロの中で残念に思っていると、奥さんが「冷しゃぶは、好きじゃなかったよね。」と言った。 奥さんは、僕が冷しゃぶという食べ物を、それほど好きでないことを知っている。 それなのに、わざわざ作って、僕が好きでないことを確認する。 どういうことなの。 たまにこういう無意味なことが起こるのでありますが、僕に料理を作ってくれるなんて人は奥さんしかいないので、まあ、仕方がないということなのであります。 さて、その冷しゃぶだ。 大きめのサラダボウルか深皿に、レタスやキャベツ、玉ねぎなどの野菜をたっぷり敷き詰めて、そこに豚か牛の薄切り肉を沸騰したお湯かだし汁に、まさしくしゃぶしゃぶとくぐらせて、それを冷水で冷やす。 それを先ほどの野菜の上に乗せて、周りにミニトマトなどで色合いを添える。 こんな感じでどこの家庭でも作られているのじゃないですか。 如何にも涼しげで夏の暑い日には、見た目は食欲の出る1品であります。 とはいうものの、その味というか食感が問題なんだ。 風呂上りによく冷えたビールを喉にいっきに流し込んで、さて件の冷しゃぶを箸で摘まみ上げ、ゴマダレかポン酢につけて口に入れる。 「硬い。」 まず、その肉を噛んだ時に、そう思う。 冷水で〆ているので肉が硬くなるのは解る。 それに、肉が硬いのは、僕はそれほど嫌じゃない。 でも、その硬くなった肉を咀嚼しても、焼いた肉を噛んだ時ほどの旨味を感じないのです。 これは僕の味覚が鈍感なのかもしれないけれど。 でも、ここまではまだいい。 1番問題なのは、肉の脂身だ。 これも冷やされて固まっている。 口の中に入れると、その固まった脂身の食感が気持ち悪い。 ややザラッとした固まった脂身が、口の中に入れても、すぐには解けずに暫らく口中にとどまっている。 ナンセンス。 溶けない脂身を口の中に入れたまま、モグモグと口を動かす。 動かすけれども、まだ解けずに口の中にある。 どうも、無意味な時間と行為だ。 仕方がないから、口中にあるゴマダレの旨味を先に呑み込んでしまって、味の無くなった、まだ溶けていない脂身と硬くなった赤身を、どうも納得のいかないまま、モグモグしたあとに飲み込むことになる。 悲しい。 この冷しゃぶを、ゴマダレを絡ませて、電子レンジでチンしたらダメかなという気持ちも出てくるのでありますが、それは言っちゃいけないだろう。 でも、溶けない油は、納得がいかないものであります。 脂もしくは油というものはね、口の中で溶けるから美味しいんだ。 油の旨味を感じるには、液体でなきゃいけない。 その油が、塩や酢、砂糖などの調味料と混ざり合った時に、人に感動を与える食材となるのだ。 高温に熱した中華鍋に、油をたっぷり入れて、包丁の腹で「パン。」と叩いて潰したにんにくを入れる。 食欲の湧く香りが油に移るのが堪らないのよね。 そこへ薄く切った豚肉を投入して、いっきに炒め揚げよう。 仕上げにオイスターソースや醤油などの調味料を回しかけると、「ジャン。」と如何にも元気の出る香りが鼻孔にはいる。 「さあ、たべるぞ。」 そんな勢いが好きだ。 こっちの方が、豚肉を食べるということにおいて、誰でもが好きなはずであり、美味しいと感じるはずなんだ。 夏の暑い日でも、そんな料理の方が、食欲が湧く。 だから、冷しゃぶという豚肉の調理方法は、どうも納得がいかない。 わざわざ、気の抜けた味になるように調理をして、どうするのよ。 料理というものはね、食材をさ、より美味しくする行為であるはずなんだ。 それなのに、どうして冷しゃぶなんて料理が、消えることなく残っているのか。 もっと美味しい調理方法があるのに、わざと気の抜けた調理をするのだろう。 自虐的調理方法。 なのであるのだけれど、今日もどこかの家庭で冷しゃぶが作られようとしているのだ。 みなさん、あれを美味しいと思っているのですか。 それを知りたい。 そして、僕の家庭でも、これからも何度か冷しゃぶが食卓に上るだろう。 そして、奥さんが聞くのである。 「冷しゃぶ、嫌いだったよね。」 どういうことなの。 「ねえ、マスター。冷しゃぶって意味解らへんと思えへん。ねえ、聞いてる?」 「おまたせしました。」 ブタの生姜焼きをカウンターに置いたときに、少しだけマスターが笑った気がした。 十草の柄が渕に染めつけられている素朴な浅鉢に、キャベツの千切りと豚の生姜焼きが盛られている。 タレにすりおろしたショウガが入っているのだけれど、食感に細く短冊に切ったショウガが一つまみ上に添えられていて、咀嚼するときに辛味が増してビールがすすむ。 タレを多めに掛けてくれているので、キャベツを最後に食べることを考えてくれている。 「うん。マスター美味しいよ。それに濃い味付けがいいね。」 マスターは少し頭を下げたようでもある。 この濃い味付けには白ご飯が最高に合うだろう。 でも、ここはバーである。 酒を飲むところなのである。 なので、白ご飯はメニューとしてあるのだけれど、注文すべきじゃない。 とはいうものの、今目の前に豚の生姜焼きを見ながら、白ご飯を食べたい衝動に小さな身悶えする自分がいる。 「ねえ、マスター。やっぱり豚の生姜焼きには、白ご飯も合うよね。」 なんて、言ってみたけれど、それがどうしたんだ。 白ご飯が食べたいという気持ちが増しただけだ。 それにしても、白ご飯とビールを一緒に食べたり飲んだりしてはいけないという理屈は、本来はないだろう。 食べたいものを食べたい時に、飲みたいものを飲みたい時に、好きなように飲み食べすればいい。 でも、僕の子供の頃、僕の家庭では父親が晩酌をするのだけれど、日本酒を飲みながら、おかずを食べる。 そして、お酒が終わった最後にお茶漬けでご飯を食べるというのが習慣だった。 なので、白ご飯とお酒は相容れないものだと教えられたのだ。 白ご飯はお酒を飲んでそのあとに食べるもの。 でも、僕はある時期、数か月だけれど禁酒をしたときがあった。 いつもお酒を飲んでウトウトと寝てしまったりするので、何か人生の何分の1かを損しているのじゃないかって思ったんだよね。 そして、禁酒をした。 でも、実際は何も変わらなかった。 その空いた時間は、何もしないで過ぎて行った。 でも、その時に気が付いたこと。 白ご飯でおかずを食べると最高に美味しいってことだ。 刺身だって、お酒を飲まない人が刺身を食べているのを見ると、それまでは可哀想に、なんて思ってたけれど、これが意外にも白ご飯と刺身の組み合わせが美味しいことを知った。 なら、どうしてお酒を飲むのってことになる。 とはいうものの、最初の1杯のビールは最高に美味い。 これは間違いがない。 じゃ、何故。 「ねえ、マスター。どうしてお酒を飲むんだろう。」 「それは、飲んでる自分に聞くのがいいんじゃないですか。」 「、、、それが、解らないんだなあ。」 そんなことを考えていると、白ご飯を注文する前に豚の生姜焼きを食べてしまった。 「ねえ、マスター。それにしてもさあ。みゆきさんのまゆ毛って可愛いよね。ねえ、マスター聞いてるの?」 マスターは、他の客の料理を作りながら1瞬振り返る。 前に、みゆきさんの白目は絶品だって言ったけれど、まゆ毛には気が付かなかった。 迂闊だった。 それは、みゆきさんの白目があまりにも美しいせいだったのかもしれない。 白目しか見ていなかった。 でも、目というものの近くにありながら、その白目をさらに引き立たせているものを見落としていた。 まゆ毛。 みゆきさんのまゆ毛は、ある時は凛々しく、ある時は切なく、またある時は艶っぽく。 そのステージの登場人物に合わせて、その訴える表情が変わる。 こんな美しいまゆ毛の女性を僕は今までに見たことがない。 そもそも、まゆ毛という顔面に生えている毛というものは、あえてそこに存在させなければならない理由はない。 まゆ毛は、無くて良いものだ。 しかし、人間にはまゆ毛がある。 その存在の意味を説明する人は、汗や異物が目に入らない為の器官だという。 凡は進化論を否定している。 進化論で今の人間にまで到達する過程を説明することは不可能だ。 それでも、まゆ毛じゃなくて、まつ毛なら、頷ける。 瞼の上下についている短い毛。 進化論なんて知らなくても、感覚的にホコリなどの異物が目に入らないようにしているんだなと感じられる。 しかし、まゆ毛はどうだ。 汗などの異物が入らないようにというなら、こんな一文字の線じゃなくて、額全部がまゆ毛であってもおかしくない筈だ。 その方が汗や異物を防ぐ上で、強力だ。 でも、額には毛がない。 毛が生えていないのは額だけじゃない。 顔にはほとんど毛が生えていないのです。 生物が生きていく上で、顔には毛が生えていた方が良い。 女性の1番気になる紫外線だって、毛があった方が影響は少ないし、皮膚ガンなどの病気にもなりにくい。 なので、理屈からいうと顔に毛は必要なものだ。 なのだけれど、人間の顔には毛がないのである。 薄い皮膚が剥き出しだ。 思えば神様も、けったいな仕掛けをしてくれたものだ。 何かの目的というか、何かをさせるために、わざと人間の顔を素っ裸にした。 その理由を考えるに、毛がない方が便利であるからだと思う。 何に対して便利なのか。 自分のこころや体の状態を、他人に見せるためだ。 向かい合った2人は、それぞれの相手の顔の皮膚の色や、皺のいきかたなどを見て、相手の気持ちを察するのである。 少し皮膚が赤くなったから、僕に惚れてるのじゃないだろうかとか。 「だいたいね、女性ってみんな僕を見てるんだよね。へへへ。ほら、あの子も僕を見てる。ねえ、マスター、僕見られてるよ。へへへ。どうしよう。へへへ。」 すると小さい声でマスターが言った。 「ヨダレ出てるから、これで拭いて下さい。それから、椅子をクルクル回転させて回るのは止めてください。」 シマッタ!!! 僕を見ている女性を探すのにクルクル回転ちゃったよ。 バレリーナかって、マスターもツッコミを入れてくれたら僕の失態もカバーできるのにな。 そんな小さな声で言ったら、余計に恥ずかしいじゃない。 僕は、少し落ち着いた表情で、僕を見ている女性に会釈をした。 この会釈をするための1回転は仕方がないだろう。 あ、そうだ。 まゆ毛の話だったよね。 人の顔が素っ裸なのは、人に自分のこころや体の状態を見せるためだって話だよね。 そんでもって、皮膚が赤くなったら僕に惚れてるとか言ったよね。 それとか。 青白い顔の色だから、病気なんじゃないだろうかとか。 眉間に皺がよっているから、難しいことを考えている振りをしているなとかね。 素っ裸の皮膚だけの顔は、相手に、自分の表現したい気持ちや、或いは隠したい気持ちを、意図する、しないにかかわらず、勝手に相手に伝えてしまうものである。 でも、顔に毛が生えていたら、そんな表情を見て察すると言うことはできない。 つまりは、顔に毛が生えていないという事は、人の心を察するという優しさ、そして自分のこころを見せたくないという臆病さを、人間に与えるために、神様なりの人間に対する工夫というか神様のゲームなのかもしれない。 神様も上の世界から、その人間の表情を見て笑っているのだろうか。 これを最大限に利用出来るのが男女関係であって、恋の駆け引きをするための小道具を与えてくれたのかもしれない。 そして、その小道具である顔の皮膚を最大限に駆使できる人が、みゆきさんであるともいえる。 見ている人すべからく虜にしてしまう技。 そして、まゆ毛は、その表情をさらに演出する顔の中の名脇役と言ったところか。 もちろん主役は白目である。 しかし、脇役と言っても誰でもが、というかどんな身体の器官でもなれる訳じゃない。 これは、まゆ毛じゃなきゃ務まらない大切な役なのである。 だって、鼻でこころを伝えられるかっていうと難しいだろう。 じゃ、口ならどうかというと、鼻よりは動かし易いけれど、そんなに口をパクパク動かすのも恥ずかしい。 ここはやっぱりまゆ毛じゃなきゃならないのであります。 そして、そのまゆ毛を自在に操ることができるのが、みゆきさんだ。 みゆきさんなら、まゆ毛をほんの1ミリ動かすだけで、嬉しさ、寂しさ、怒り、切なさ、どんな表情でも作ることができる。 小悪魔だ。 ただ、みゆきさんのような小悪魔なら、いつまでもいつまでも、そのイタズラに翻弄され続けてもいい。 夜会などのDVDを見ても、そこには何十何百ものまゆ毛のみゆきさんがステージに立っている。 そして、そのどれもが素敵なんだなあ。 特に僕が好きなのが、眉尻を下げたまゆ毛だ。 夜会のDVDの「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」の、って題名長すぎるやん。 そのDVDの中のさ、お祭りの衣装を着たみゆきさんのまゆ毛は最高だよ。 みゆきさんの八の字になったまゆ毛。 これは絶品中の絶品である。 普通の人が、この八の字のまゆ毛にしたらなら、「トホホ」という心の感嘆詞がつく顔になる。 それは美とはほど遠い、情けない表情だ。 それを見て感じるのは同情と哀れみと蔑みぐらいなものだ。 実に悲しい。 それがである。 それが、みゆきさんの手に掛かると、というか、みゆきさんのまゆ毛に掛かると、まったく別の表情になる。 見る者を魅了する表情。 ある時は、「しっかし、バカだね。あたしって。」って感じの、開き直った笑顔だったり、 ある時は、「なんで、こんなアホな女が生まれきたんやろ。」っていうような女性の性を受け入れたときの諦めの表情だったり、この女性を抱きしめたくなるような表情なんだ。 どんなシーンの八の字でも、すごく魅力的なんだ。 そこには、共通して「美しさ」が、その表情の底に流れている。 本来ならマイナスなイメージの八の字を、美しいという輝きに変えてしまう。 やっぱり、これは、小悪魔というより、美と愛の女神ビーナスだ。 貝殻の上に立った全裸のビーナス。 そう、みゆきビーナス。 両手で、バストと大事な部分を隠している。 でも、やだ。 みゆきさんが全裸だなんて、ウヒヒヒヒ。 「ねえ、マスター。全裸だって、全裸。ウヒヒヒ。ってさ、全裸だもんね。」 シマッタ!!! またヨダレが出ていた。 最近は涙腺も弱くなったけど、ヨダレの線も弱くなっちゃったよね。 それにしても、僕の敬愛する岡本太郎さんも、目を意識した作品は描いているように思うけれど、まゆ毛を強調した作品は、知らない。 とはいうものの、僕は岡本太郎さんの考え方生き方が大好きな訳で、絵についてはまったくの素人なので、全部の作品を見た訳じゃないんだけどね。 岡本太郎さんは、美を追求するのに、じっとその対象を凝視して、その中にある美を探ろうとしたのじゃないかと思う。 それには、目が必要であり、目と言う体の器官に興味を持たれたのではないだろうか。 それに比べて、眉毛と言うのは、それ自体何もしない。 ただ、目の上の空間に、とぼけたように、或いは、ひょうきんに乗っかっているだけだ。 だから、岡本太郎さんも、眉毛に目を向けなかったに違いない。 惜しい。 もし、岡本太郎さんが、みゆきさんのまゆ毛の美しさに気が付いていたなら、取りつかれたように、まゆ毛の絵を描き続けていたはずだ。 そして「無意味な美」というものを発見していただろう。 或いは、「余裕の美」とも言える。 真実の美であるとか、究極の美であるとか、そんな探究をも笑い飛ばすような。 すっとぼけた、何となくというあり方の、可笑しみのある美というものもあるのだということに気づいて、歌でも歌いながら絵を描くようになっていたかもしれないと思う。 そして、みゆきさんだ。 その美しいまゆ毛は、どうにも愛おしい。 そして、思う。 みゆきさんと出会うのが、平安時代でなくて良かったということ。 もし、平安時代に、みゆきさんに出会ってたなら、まゆ毛を引っこ抜いて、その上の額のとんでもないところに楕円形の眉を墨で描いたみゆきさんと出会うことになる。 みゆきさんなら何でもいいという僕でも、会えば笑ってしまうだろう。 やっぱり、現代に出会ったからこそ、みゆきさんのまゆ毛から、無意味な美を知ることができたのである。 「おでこにまゆ毛のみゆきさんだって、想像しただけで笑っちゃうよね。ねえ、マスター、聞いてるの?」 シマッタ!!! あまり笑いすぎたから、両手を上にあげて盆踊りのようにブラブラさせてしまった。 それにしても、僕はみゆきさんに会えるんだろうかね。 そしてデートできるんだろうか。 そうだなあ。 初めてのデートは、やっぱり近くの公園とかがいいなあ。 歩いて30分ぐらいのね。 そんでもって、みゆきさんは僕のためにお弁当を作ってくれてるわけ。 そんでもって、公演のベンチに2人座るよ。 勿論、僕とみゆきさんだ。 みゆきさんとデートしてるのに、知らないオッチャンが僕の隣に座ってたら、おかしいものね。 知らないオッサンの手作りのお弁当を公園で食べるなんて気持ち悪いだろう。 カップルの横に知らないオッサンが座っていても自然なのは、昔のゲートの無かった時の天王寺公園ぐらいだ。 まあ、みゆきさんとのデートに、オッサンが僕の隣に座るなんてことは誰も思わないと思うけどね。 心配性なものだからさ、そんな不自然な偶然も想像しちゃうんだな。 そんでもって、みゆきさんのお弁当だよ。 もう、想像しただけでヨダレを流しながら通天閣の周りをバンザイしながら走り回りそうだよ。 「レレレレーッ。」なんて意味のない言葉を叫びながらね。 きっと満面の笑みだよ。 どんなお弁当なんだろう。 小さなおにぎりに、甘い玉子焼き、厚揚げを甘く炊いたものや、ひょっとしたらフライなんて入れるのかもしれない。 いや、そんな豪華なお弁当じゃなくてもいいんだ。 みゆきさんが作ったお弁当。 よし、これからの目標は、みゆきさんの手作りのお弁当を食べること。 これにしよう。 またハードルが高くなっちゃったな。 こうなったら、もっとハードルを上げて、みゆきさんに食べさせてもらっちゃおう。 「はい、ボンゾウちゃん。あーん。」 みゆきさんが甘い玉子焼きを箸でつまんで僕の口元に持ってくる。 僕は、大きな口を開けて、「あーん。」なんてしたいのだけれど、恥ずかしい。 人に食事を食べさせてもらう時の「あーん。」ほど間抜けな顔はない。 そんな間抜けな顔をみゆきさんに向けるなんて、無理だ。 とはいうものの、みゆきさんに「あーん。」で食べさせてもらいたい。 だから、「あーん。」と言いながら、やや斜めに外側に顔を向けて口を開ける。 箸でつまんだものを、口と言う穴の開いた空間に入れると言う行為は、その穴に直角に箸を向けて入れなきゃいけない。 でも、僕の口は斜めを向いている。 だから、みゆきさんも箸を斜めに向けて、僕の口に入れようとするのだけれど、斜めにした箸は力が入らない。 つまんだ甘い玉子焼きを落としちゃうよね。 僕は口を間抜けに開けたまま、みゆきさんと落っこちた甘い玉子焼きを見つめる。 僕の目標は、たとえ妄想であっても、いつも最悪な状況になってしまう。 「うわーん。ごめーん。みゆきさん、ごめーん。」 「私は、みゆきさんじゃありません。」 シマッタ!!! 僕はカウンターに座っていた知らない女性に土下座をしてしまっていた。 おまけに弱い涙腺から涙まで流してさ。 見上げると、その女性は可愛い。 サラサラロングヘアーで白のニットのワンピース。 ウットリ。 シマッタ!!! ウットリ見とれていたら、そのまま床に座ったままだ。 もう3分ぐらい経ってしまったのか。 女性は、僕を無視してカウンターで前を見ている。 それにしても、可愛い。 そんでもって、僕の好みである。 「儚げな女性」 僕は、華奢な人が好きである。 そして、儚げな人が好きである。 僕の人間の本能が、優秀な血筋を残そうとするのなら、違う人を好きになっても良さそうなものだと思うのです。 健康で、活発で、頭が良くて、美人で、そんな人を好きになるように遺伝子が組まれている筈なのです。 でも、儚げな人を好きになってしまう。 それは一体どういう神様の趣向なのでありましょうか。 そんでもって、世の男性や女性はどうなんでしょうかね。 儚げな女性を好きになる男性は何パーセントぐらいいるのだろうか。 僕の推理では、結構な人数がいる計算なんだけれどね。 そして、女性はどんな人が好きなのだろうか。 きっと男前とか金持ちとかなのでしょう。 でも、街ゆく人を見ていると、やっぱりそうでもないように思えてくる。 可愛い女性がゴッツイ男性を引き連れて歩いてたりするのを結構な確率で見る。 或いは、不細工な男と絶世の美女、頭のいい男性とパッパラパーの女性、世間には首を傾げたくなるようなカップルが多い。 全部ごちゃ混ぜにしちゃうと、ちょうど平均がとれて平和な社会になるのかもしれない。 それはそれで深い神様のお考えなのだろうか。 とは言うものの、華奢で儚げな女性が好きな僕でありますが、結婚という実験の相手の奥さんは、丸い。 丸いという形状は華奢と対照的な位置にある。 どうにも、僕という人間は、欲しているものが得られないのか、欲しているものと違うものを選択してしまう厄介な生き物であるようだ。 とは言うものの、丸い奥さんは大切なんだけれどもね。 先日、京阪電車で淀屋橋に向かうときに、向かいのシートに可愛い女性が座っていた。 彼女は、バッグからリポビタンDを取り出した。 女性が社内でドリンク剤。 どうも疲れてるんだね。 彼女は、飲もうとしてキャップを回すのだけれど、これが開かないのだ。 リポビタンの瓶を左手に持って、キャップを右手で持ち、お腹の位置ぐらいに持ってきて、一瞬「うん。」と力が入るのが解るのだけれど、キャップは回らない。 それで、またもう1回「うっ。」とやるが回らない。 バッグからハンカチを取り出して、キャップに巻き付け「うっ。」と気合いを入れるが回らない。 何度やってもキャップはピクリともしないので、結局はリポビタンを飲むのを諦めた。 リポビタンのキャップを回せない女性を、僕は初めて見たのでありますが、果たして普通の女性はリポビタンのキャップを回せないほど、か弱い生き物なのでありましょうか。 見守っていてあげなければ、すぐに枯れてしまう弱く儚げな純真な白い花。 それが、女性という存在なのですね。 きっとね。 それならば、何としてでも男性は助けてあげなきゃね。 そして、そんな場面で愛が縁を結ぶ。 先日の電車の女性には声をかけられなかったけれども、どこか都会の片隅にけなげに咲いている白い花があるはずだ。 そんな花に僕は愛を捧げよう。 とはいうものの、今の僕の周りには、そんな白い花は見あたらないのですけれどね。 何処を見ても太い茎でバカデカイひまわりのような花ばかりなんだけどなあ。 力強い花。 ただ、そんなパワフルな花も可愛いものでありますが。 それにしても、電車の中のリポビタンのキャップを開けられなかった女性は、普通の生活は、どんなだろう。 きっと朝は低血圧で起きれないと思うよ。 だって儚げなんだもの。 美人で儚げは、大体において低血圧なものだ。 ちなみに、奥さんは高血圧だ。 朝食はというと、朝は、食欲はないんだけれど、 健康のために無理をして食べる。 きっと和食だな。 ご飯にお味噌汁、それに玉子焼きとおしたしぐらいで簡単にすませる。 ちなみに、奥さんは痩せるために寒天を食っている。 そして、その後お菓子を食べる。寒天の意味あるのかと思う。 そして、仕事だ。 白いワンピースが、殺風景な仕事場に優しい花を咲かす。 少し開いた窓から、爽やかな朝の風が迷い込んで、儚げな美人のロングヘアーを揺らすよ。 儚げな美人はね、きっといい匂いがするんだ。 初恋の香り。 まあ、それはどんな香りなのかは解らないけれどもさ、ベビーローズのようなね、そんなフェアリーな香りなんだ。 儚げで美人だから、みんなに助けられてね。 それでも、真面目にきちんと自分の仕事をこなすんだ。 けなげだね。 応援したくなるよ。 そして、仕事が終わる。 仕事仲間から誘われるけれど、断る方が多いかな。 人見知りではないけれど、お酒を飲んで騒ぐのは苦手なんだ。 でも、時々、今の自分を変えたくなって、「ひと足の途絶えだした公園通り、メッキだらけのけばい茶店」に入ってみたりするわけ。 本人にとっては、すごい冒険なんだ。 たったそれだけのことが、自分を変えるきっかけになるかもしれないと信じて。 そんでもって、家に帰ると疲れているんだけれど、両親の手伝いなんかしてしまうんだなあ。 少しでも親に楽をさせてあげたいからね。 そんな1日の終わり。 自分の部屋に戻って、やっと素顔の自分にもどれるんだな。 机の上を見ると、何日もキャップを開けることが出来ないでいるリポビタンDが5、6本置いてある。 そして、ため息をつきながら思わずもらしちゃう。 「ああ、どうして、あたしは何も出来ないのかな。」なんてさ。 僕から見ると、そんな風に自分が思うほど、何も出来なくはないんだけどさ。 こんな自分にしか生まれてくることのできなかった自分自身の性を悲しむことはあっても、両親にはいつも感謝しているんだな。 美人はさ、子供の頃からチヤホヤされてるから、一体にこころが優しいんだね。 人から優しくされる分、人にも優しくしたいんだね。 素敵だね。 なんて想像しているけれども、僕はいまだかつて儚げな美人と、恋に落ちるなんてことは勿論、話もしたことがない。 こんど、京阪電車でリポビタンDのキャップを開けられない女の子にあったなら、助けてあげなきゃね。 「あのお嬢さん、リポビタンのキャップ、開けましょうか。」ってね。 「ありがとう、兄ちゃん。昨日な腹立つ男おったから、思い切りグーで殴ったったら、指の骨折れてんねん。助かるわ。」 なんて、現実の女性は強い生き物であるのかもしれない。 シマッタ!!! 立ち上がるのを忘れて、妄想しちゃってたよ。 それにしても、僕の妄想ってヒドイのかな。 これはどうするべきか。 何もなかったように、立つべきか。 それとも、何か床に座っていた理由を言いながら立つべきか。 「いやあ。ごめんね。実は、僕はさ、俳優でね。今度の舞台の役に入りこんじゃっててさ、つい演技の練習をしちゃったよ。驚かせて、ごめんね。」 なんて理由はどうだ。 いや、マスターがいるから、こんな嘘をついちゃったら、もうお店に来られない。 仕方なく、そのまま無言で立ち上がった。 カウンターに座り直して、横の女性を見る。 僕に気が付いたのか、女性と目があった。 「あじゃーれ、あじゃーれ、はっぱふみふみ。」 どうしたんだ、この女性は。 ビックリしていると、彼女が言った。 「あ、ごめんなさい。私、よく妄想しちゃうんです。今も宇宙人と話をしている妄想しちゃってたの。」 妄想のひどい女性って怖い。 それに宇宙人ってさ。 「はっぱふみふみ」って大橋巨泉じゃあるまいし。 こういう女性は危険だ。 無視をすることにしよう。 それが賢明だ。 「あ、マスター。タンカレーのソーダ割りください。ライムも絞って。」 すると彼女が言った。 「あ、中島みゆきさんのファンですか。」 いや、僕は今ね、君を無視しているんだ。 だから、どうか話しかけないでくれ。 そう神様にお願いしたが、続けて話しかけてくる。 「タンカレーを注文する人の99パーセントは、みゆきさんのファンですよ。」 今は普通の会話だから、答えるべきか。 でも、怖い。 妄想癖の女。 「まあ、そんなところです。」 「私ね、初めてタンカレーって聞いた時は、牛のタンのカレーだと思ってたんです。ふふ。アホでしょ。」 妄想癖のある怖い女性に話しかけられて、内心ドキドキである。 シマッタ!!! 僕は今、内心ドキドキしている。 これはマズイ。 非常に、マズイ。 人間は、体の状態とこころの状態が、密接に関係してると言う。 脈拍が早い時や、興奮している時に出会った人は、それが相手に抱いている感情と脳が勘違いして、その相手を好きだって思うようになるということを心理学の本で読んだ記憶がある。 つまりは、今、妄想癖の女に話しかけられてドキドキしているこのドキドキが、この女性が好きだという感情と僕の脳は勘違いして、この妄想癖の女を好きだったと思ってしまう可能性があるのだ。 というか、もう既に可愛いなと思って見ている。 えっ、そうなん。 しかしこれは、シマッタということだ。 ただ、この妄想癖の女は、僕の好みの儚げな女性っぽいので、これはこれでいい。 それよりも、これからが危険なのである。 まだ僕は、ドキドキしているからだ。 もし、僕が家への帰り道に、誰かに会おうものなら、その人を好きだと勘違いしてしまうのだ。 これは、危険である。 ただ、これも可愛い女の子だったら、それは素敵な出会いとなるかもしれない。 でも、例えば野良犬なんかに出会ったら、どうなりますか。 僕は野良犬を好きになってしまうかもしれないのだ。 しかも、その野良犬も何かの拍子でドキドキしているときに僕に出会ったら、どうなりますか。 野良犬も僕を好きになってしまう。 相思相愛。 大阪のビジネス街で、野良犬と相思相愛。 そして、同棲。 僕は野良犬に、ジャスミンなんて名前を付けてしまうだろう。 「ジャスミンちゃん。可愛いね。」 なんて背中をなでなでしちゃう。 ジャスミンちゃんも、僕が好きだからさ、僕を甘噛みしたりするわけ。 気が付いたら、本気で噛んでしまって僕は青あざだらけになりますわな。 「ジャスミンちゃん。」 「ワン。」 「ジャスミンちゃん。」 「ワン。」 「ジャスミンちゃん。」 「ワン。」 精神がどうにかなりそうだ。 そんな生活は、やっぱり無理だろう。 今日は、野良犬に出会わないことを祈って自宅まで帰えろう。 「ねえ、大丈夫?」 心配そうに、彼女が僕を覗き込む。 「心配してたのよ。また妄想してるんじゃないかなって。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」 だから「はっぱふみふみ」は大橋巨泉さんだって。 それに、僕の心配をしながら、自分も妄想しているなんて、これはかなり高度な妄想だ。 半分現実、半分妄想。 素人ではできない妄想である。 それに、始めは「あじゃーれ、あじゃーれ」だったのに、今度は「だじゃーれ、だじゃーれ」と来たよ。 彼女の中では、違う意味なんだろうね。 それにしても、やっぱりちょっと怖いよ。 見た目はすごく可愛いのに、妄想がひどいって、僕はどうしたらいいのよ。 すると、彼女が言った。 「あたしもね、みゆきさんが好きなの。」 これは困った。 僕に話を合わせて来たよ。 これじゃ、話が長くなっちゃうよ。 どうしたらいいの。 「あたしね。みゆきさんのメイクってすごいなって思うの。だって、夜会でもさ、メイクで色んな人になって、演じてるんだもの。」 うん、それは中々のところをついているね。 僕は、みゆきさんは素顔が1番可愛いと思う。 DVDでも、メイキングの映像を見るのが好きだ。 素顔のみゆきさんが映っているから。 そこが普通の芸能人と違うところだね。 みゆきさんは素顔が1番可愛い。 これは間違いがない。 そして、ステージや写真のみゆきさんもまた、可愛い。 これはどういうことか分るだろうか。 みゆきさんの写真を、何枚でもいい、机に並べて見て欲しい。 その写真のどれをとっても、その他のみゆきさんの写真と違う表情を表現している。 ある写真は、アイドルのようだ。 そして、ある写真は、色っぽい。 そして、ある写真は、清楚だ。 どの写真をとっても、違うみゆきさんであって、そしてどの写真をとっても美しい。 これはどういうことか解るだろうか。 つまりは、素顔が美しいから、どんなメイクをしたって美しいという事なんだ。 さらに素顔が美しいという事は、どういうことかというと、素顔の基礎である骨格が美しいという事だ。 詰まりはね、みゆきさんの頭蓋骨が美しいという事なんだ。 こんな完璧な頭蓋骨の女性はまず世界中を探したっていやしない。 頭蓋骨というのは、脳頭蓋、顔面頭蓋、耳小骨、ウォーム骨からなる頭の骨だ。 このそれぞれの形もバランスも完璧なのがみゆきさんということだ。 あ、そうだ、素人はね、頭蓋骨と漢字で書かれてあったら、ズガイコツなんて読んじゃうんだろうな。 でも、僕は専門家だからね、頭蓋骨のね。 だから、頭蓋骨と書いてトウガイコツって読むんだね。 うん、ちょっと僕は素人じゃないんだよね。 それでさ、頭蓋骨が完璧だから、素顔も美しくて、さらにメイクをした顔も美しいのである。 すべての美の要素が、みゆきさんの頭蓋骨に集約されている。 僕の尊敬する岡本太郎さんは、白目の持つ美しさには気が付いていたのかもしれないけれども、頭蓋骨の美しさには気が付いていなかったのではないだろうか。 もし岡本太郎さんが、みゆきさんに出あっていたならば、岡本太郎さんの作品は頭蓋骨だらけになっている筈である。 太陽の塔だって、金の顔じゃなくて、頭蓋骨の塔になっていたに違いない。 夏目漱石や立派な事を成し遂げた人の脳みそは、東大だか、どこかの大学に今でも保存されているという。 そんなことをするぐらいなら、みゆきさんの頭蓋骨は、国立美術館にでも展示されるべきだ。 そして、これからの美を追求する人は皆、このみゆきさんの頭蓋骨を見て、本当の美しさを知るべきなのである。 小学生には、修学旅行で、みゆきさんの頭蓋骨を見ることを文部省は推奨すべきである。 そうすれば授業で美術なんてやらなくていい。 美と言うものを知ることが、美術の授業の目的なのだから、みゆきさんの頭蓋骨だけで、その目的が達成されるだろう。 何と愛おしいのだろう、みゆきさんの頭蓋骨は。 出来ることなら、その欠片をいつもポケットに入れておきたい。 とはいうものの、1部が掛けてしまっては、台無しになるだろうから、それは諦めることにしよう。 というか、みゆきさんには、いつまでも生き続けてほしいものね。 先日も、僕は梅田の交差点に立っていた。 交差点には若い女性も行き来する。 そして美人も多い。 そして美人を探す。 もう、綺麗な人が多すぎて困っちゃうよ。エヘヘヘヘ。 そして、歩いている人のその頭部を凝視する。 じっと見つめていると、その女性の頭蓋骨の大体の形が想像できるのだ。 ピンヒールのハイヒールにミニスカート、サラサラロングヘアーの少し目の離れた女の子が歩いて来る。 かなり可愛い。 やや唇からはみ出して引かれたルージュは、僕の好みである。 しかしだ。 その女の子の頭部を凝視することによって想像される頭蓋骨はと言うと、月並みなのである。 つまりは、月並みな可愛い女の子。 どういうことかというと、この女の子は可愛い。 そして僕好みだ。 まあ、それはいい。 でも、その可愛い顔は、これ以上に他の表現が出来ない顔なのだ。 つまり、美人の1つのパターンしか表現できない頭蓋骨なのである。 いくらメイクを変えたとしても、今の可愛い状態の延長線上の美人にしかなりえない。 ここがみゆきさんと違うところである。 みゆきさんは、完璧な頭蓋骨を持っているだけに、どんな美人にも変化できるのだ。 メイクだけで1000パターンでも、1万パターンでも、いろんな美人を表現できる。 とはいうものの、ここは梅田の交差点だ。 あまり女の子ばかり凝視していると、変なおじさんと思われてしまう。 僕は30分ほど女の子を探しただけで、帰ることにした。 シマッタ!!! また妄想している間に、自分で自分の頭蓋骨を触りまくっていたよ。 すると彼女が言った。 「頭蓋骨がどうかしましたか。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」 びっくりした。 まだ、半分妄想しているよ、彼女。 それに、今回は前回と同じ「だじゃーれ」だよ。 それよりも、トウガイコツって言ったよ。 ズガイコツじゃなくて。 何者なの彼女は。 素人じゃないよ、怖いよ。 どうも、彼女が近くにいるせいか、居心地が悪い。 それに、中島みゆきファンの女性って、どうも厄介なものだね。 何か、今日は酔えない雰囲気だ。 こんな夜は早く帰ることにしよう。 店を出る前に、ドアの所で振り返ると、彼女はカウンターを満面の笑みで「バンバンバン」と叩いていた。 どうも、厄介な人である。 帰り道、門真市から自宅に歩いていると、家の近くの空き地に花が咲いていた。 その花は、夜の十一時近くの、暗い細道の排水溝に沿って、空港の滑走路の誘導灯のように、光っているようだった。 その明るい黄色に、驚いたぐらいだ。 「ねえ、君。もう夜なんだよ。どうしてそんなに一所懸命に咲いてるの?」 訊いてはみたが、答えるはずはない。 ただ、そこに咲いていることが、愛おしかった。 でも、花は蝶や蜂などの昆虫が蜜を吸いにきて、受粉するんだよね。 こんな夜中に飛んでいる蝶や蜂を、いまだこの細道で見たことが無い。 昼間に咲きゃ、もっと蝶や蜂にも気が付かれようものを。 どうしたの?ねえ。 今までも、たぶん昨日も、たぶん一昨日も咲いていたんだろう。 でも、そんな花は目に入らなかったな。 それでも、可愛く咲いている花が、何故か愛おしくて、通り過ぎてから、振り返ってみる。 やっぱり、ただ咲いていた。 夜咲いているという、夜咲かなきゃいけなかった花に生まれてきたという、その花の性が切なくて、花なんか普段鑑賞しない僕でさえ、自宅に帰ってからもね、今まだ咲いてるのかな、なんて思い出してしまう。 そんなことがあって、次の日の出勤の時、駅までの路傍を見ながら歩いていると、普段気が付かなかったのだけれど、いろんな花が咲いていることに気が付いた。 田舎ならまだしもね、こんなアスファルトばかりの道にも花が咲いている。 そう思うと、駅までの道が急に愉快になった。 そういえば、何年か前に、路傍の雑草に水をやっているオバサンがいたな。 僕が駅に向かって歩いていると、オバサンが家の前にある雑草にジョウロで水をやっていたんだ。 その時は、ビックリしたよ。 なんでそんなことしてるのかなって。 でも、彼女もまた、路傍の花が美しいなと気が付いた1人なのかもしれないね。 その雑草も、年に1回花を咲かせるのかも。 いや、花を咲かせなくても、葉の緑だけでも美しいということに気が付いたのかもしれないね。 そんなことを思い出しながら、そしてちょっと得をした気分で、京阪電車に乗った。 長いシートに座っている女の子が、人目を気にせず化粧をしている。 人工の粉を塗ったり、人工の睫毛を張り付けたりね。 こっちの花も大変だ。 路傍で可憐に咲く花と、人工のもので男を引き寄せようとする花。 どうなんだろうね。 、、、、、いや、実際のところ、人工に作られた美人の花もまた、やっぱりいいのでありますが、こっちの花には縁がない。 最後の香水の1噴きで、ノックアウト。 どうも、僕はどんな花にも弱いようであります。 きっと、彼女も、たつきを立てるために、頑張っているんだろうな。 他人には分らないけれどもね。 電車が淀屋橋に着いてドアが開いたら、美人の花は僕などには一瞥もせずに、7センチのヒールをコツコツ言わせながら改札口に向かって行った。 学生時代に先生が、その国の文化の成熟度は、ボキャブラリーの数に比例するというような意味の事を言った。 例えば、色でも花でも、抽象的なことでもね、それを表す言葉が多いほど、文化的に成熟しているというのだ。 僕が路傍で見つけた、雑草と呼ばれている花も、実際には名前が付けられているんだろうね。 そして、それを知ればよりその花を見る時の気持ちも豊かになるだろう。 とはいうものの、その花にしてみれば、わざわざ人に名前なんか付けてもらわなくてもいいやという事かもしれない。 日本語が喋れたら、きっとこういうね。 「花なんて、咲いてりゃいいんだよ。」ってね。 昨日の夜は、布団に入ったけれども、なかなか寝付けなかった。 そして、頭の中で、「だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」が、回り続けていた。 そして、「はっぱふみふみは、大橋巨泉さんやちゅうのに。」というツッコミもまた、何度も何度も回り続けたのでありました。 ================================================================== 次の週の水曜日である。 お店に寄って帰ることにした。 ドアを開けて、思った。 シマッタ!!! 妄想癖の女がカウンターで泣きながらカウンターを「バンバンバン」と叩いている。 帰ろう。 これは危険すぎる状況である。 そう思った時にマスターと目があった。 これでは帰るに帰れない。 仕方なくカウンターに座った。 するとマスターが言う。 「彼女、あれから毎日お店に来てるんですよ。何でもあなたにもう1度会いたいそうです。」 カウンターを泣きながらバンバンしている妄想癖の女が僕に気が付いて、1瞬目が覚めたようになった。 やめてよ。 もう、永遠に妄想の世界に入っていてくれ。 そう願ったが、僕を潤んだ目で見つめる。 それは、さっきの妄想の涙か、僕への何かしらの感情の表れの涙なのか。 前者であってほしい。 「だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみっ。」 小さな小さな、そして可愛い声で僕に挨拶をした。 白く細い指の手の平で、ちょこっと敬礼をしたのは、可愛い。 見た目は可愛いんだけどね。 それにしても、小さな可愛い声の「はっぱふみふみ」は、どうだ。 普通なら、宇宙人との会話という人が聞いたら引いてしまうような「はっぱふみふみ」を、敢えて挨拶に使うというポジティブな作戦だろうか。 ポジティブな妄想癖の女。 これはまた、これで厄介なものかもしれない。 僕も、少しだけ頭を下げた。 「マスター、ビールください。」 取りあえずは、ビールを注文。 僕は、ずっと前を向いたまま無言でいる。 下手に妄想癖の女の話に乗らない方がいい。 「今日も来ちゃった。」 彼女は珍しく普通な感じで話しかける。 とはいうものの、これに乗っては危険すぎる。 今気が付いたが、彼女はミニスカートをはいている。 どうしたものだろうか。 ひょっとして、僕に対するアピールなのか。 しかも薄い黒のストッキングにシームが入っているなんて、これは少しドキッとする。 それにしてもさ、脚と言えばさ、みゆきさんの脚って素敵だよね。 あなたは、脚のきれいな女性は誰かと訊かれたら、何と答えますか。 「ねえ、マスター。芸能人で言うとさあ、誰の脚が1番綺麗だと思う?」 「朱里エイコ?」 そういえばさ、綺麗だったよね朱里エイコさんの脚。 でも、マスターって何歳なの、若く見えるけどさ。 僕も、あのダイナミックな歌い方は、迫力があって好きだった。 これが解るのは年寄りだけだよね。 それで、彼女は綺麗な脚線美の持ち主で、脚に1億円の保険を掛けたということが当時話題になってたよね。 1億円の保険を掛けるぐらいだからね、それは綺麗な脚に決まっている。 僕がもし、学生時代に訊かれたなら、「エレノア・パウエル」と答えただろう。 当時は、ミュージカル映画が大好きだったので、よく見に行ったんだね。 名画座などで、ミュージカルを上演する映画館が結構あった。 エレノア・パウエルとフレッド・アステアのダンスのデュエットは、本当にカッコイイと思ったね。 ビギン・ザ・ビギンのリズムにのせて踊っているのを見ていると、僕もタップダンスを習おうかなんて、何度思ったことか。 練習に練習を重ねたステップなんだけれど、映画の中では、いまちょっとやってみたら、ステップ踏めちゃったなんて感じで、すごく軽いんだよね。 日本人のタップのように、一所懸命ステップ踏んでますなんて重さがない。 そんなエレノア・パウエルさんの脚は、本当に綺麗だと思う。 でも、今、脚の綺麗な女性を訊かれたら。 それは、もちろん「中島みゆきさん。」と答えるに決まっている。 みゆきさんの脚そのものも無条件で美しいのだけれど、その脚の見せ方も憎いほど心得ているのであります。 僕がみゆきさんに惹かれた場面、夜会「シャングリラ」の「怜子」のシーン。 黒いミニスカートで椅子に座り怜子を歌うんだけれど、その組んだ脚が、脚が、脚が、美しいんです。 僕が、みゆきさんを好きになるきっかけになったシーンだって言ったよね。 「セクシー。」叫びそうになる。 こんな脚は今までに見たことが無い。 神様だって、人間の女性を創る時に、最高の美というものを作ることに挑戦したくなったんだろうね。 でなきゃ、こんな美しい脚が偶然にこの世界に現れる理屈が見当たらない。 いつまでも見ていたい脚。 それにね、この怜子のときの黒のワンピースも美しいよね。 白い肌と黒の衣装のコントラストが目に焼き付いて忘れられない。 そして、夜会「金環蝕」の「泣かないでアマテラス」。 これはもう、美しい以外の言葉が見つからない。 それに、歌う時のポーズが、セクシーでかつ独創的だ。 低く構えた姿勢から右脚だけが見えている。 その足首には鈴が付けられていて、曲に合わせてその鈴を鳴らすんだけれど、美しい脚と鈴の音が催眠術のように僕の意識の底深く刻み込まれていく。 「みゆきさま。僕はみゆきさまの恋の奴隷です。」 なんて、どうしてそうなるの。 悲しい自己催眠。 それから、「24着00時発」の「サーモン・ダンス」は、ブルーのワンピース姿が何と言っても素敵だ。 それでもって、ステップを踏みながら踊るんだけれど、もう夢の世界のようだね。 美し過ぎる。 過ぎたるは及ばざるが如し。 とはいうものの、みゆきさんのサーモン・ダンスは、過ぎてはいるけれど、まだまだ先に進む美しさをもっている。 完璧だ。 みゆきさんの、どのシーンを見ても、すべてが完璧だ。 でも、去年だったかな。 日光に遊びに行ったことがあったんだ。 その時に、日光東照宮の陽明門を見て、みゆきさんの脚が100%完璧でないことに気が付いた。 みゆきさんの脚は、100%じゃなくて、少し足りない99.9%だけ美しく完成されていたんだ。 まだ、0.1%の不完全さを持っているのだ。 つまりは、脚線美だけを見たならば、首里エイコさんに0.05%負けている。 だって、首里エイコさんは、脚に1億円の保険を掛けているほどですからね。 これは文句なく綺麗な脚だ。 そして、脚の動き、ステップを見たならば、エレノア・パウエルさんに0.05%負けている。 だって、あのステップは、世界中の人が認めたステップだ。 それだから、フレッド・アステアさんと踊ったって、なお彼女のステップが引き立つのである。 ということで、首里エイコさんとエレノア・パウエルさんにそれぞれ0.05%負けているから、みゆきさんは99.9%の完成度ということになる。 そうなんです。 これが陽明門の逆さ柱と同じ理屈になるわけなのであります。 東照宮の陽明門は、その柱の内の1本だけが、模様が上下逆になっている。 それは、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という理屈で、わざと柱の1本のデザインを上下逆にして、未完成にしてあるらしいのです。 だから、いつまでも美しくそこに存在していることが出来る。 みゆきさんの脚もそうだ。 完成までに0.1%足りないから、まだ未完成なのだ。 なので、みゆきさんの脚は、いつまでも美しく、そこに存在している。 美しさの原理の一致を発見したら、もう1度みゆきさんの脚を見たくなった。 「いやだあ。あたしの脚をじろじろ見て。」 と、妄想の女が言った。 「いや、見てないですよ。」 「いや、絶対に見てた。はっぱふみふみ。」 「はっぱふみふみって、見られてるっていう妄想をしてただけじゃないですか。」 「えっ、どうして妄想してたって解るんですか。」 「だって、はっぱふみふみって言ってたし。」 「そうなんだ。やっぱり妄想してたんだ。最近ね、妄想と現実がごっちゃになっちゃうことあるんです。どうしちゃったんだろう。あたし。」 「いや、僕もそういうことがありますよ。心配しないでいいと思いますよ。」 そう彼女に言った。 彼女は彼女で、妄想癖に悩んでいるんだ。 少しばかり同情したくなった。 「あたしなんか、生まれてきても良かったのかな。何の為に生まれてきたんやろ。あたし神様に聞いてみたいわ、あたしの生まれてきた目的を。」 そういうと、彼女はハンカチで目を押さえた。 「生きる目的なんて考えちゃダメだ。」 無目的に生きる。 これこそが、純粋に生きるという事なのだと思う。 人間と言うのはね、ただ生きているだけでいい。 それだけで、生きるという目的を毎秒毎秒、達成しつづけているのである。 最近、よく「人はみんな、生きているんじゃなくて、生かされているんだ。」っていうことを言う人がいるが、「バカヤロー!」って叫びたくなる。 そういう人は、だから感謝を忘れるななんてことを、如何にも素晴らしいことをいっているような顔をして披露している。 冗談じゃない。 生かされているっていう言葉はね、今生き残っている勝者の言葉だ。 今、苦しんでいる人の言葉じゃない。 生かされてるっていうからには、「誰によって」もしくは「何によって」という言葉が必要だ。 「生かされている」という言葉を使う人は、この「によって」をはっきりと付け加えて欲しいね。 この「によって」に引っ付く言葉として、大体において説明されるのは、「自然」であったり、「人」や「神様や仏様」だろうと思う。 「人は自然に生かされている。」 それは、ごもっともであります。 この地球がなければ、僕だって生きていけない。 今、北極の真ん中に放り出されたら、食べるものもないし、寒さを防ぐ家もない。 数時間で、死んじゃうだろう。 そういう意味では、亜熱帯地方は、自然に生かされている度合いが多いかもしれないな。 寒さで死ぬこともない。 1年中、ぽかぽかと温かそうだ。 そんな土地では、フルーツや木の実なども自然に生えている。 でも、そんな事実を今更、言ってどうなるのよ。 人は自然に生かされていると同時に、殺されてもいるという事実を再確認すべきだ。 世界中で、今でも飢饉で苦しんでいる地域がある。 天災によって、家族や友人を亡くした人もいるのじゃないだろうか。 そんな人は、自然によって生かされていなかったということになるよ。 どうも、そういう人にとっては、自然に生かされているなんて言う言葉は、非常に厳しい言葉である。 それに、もう1つ。 「人によって、生かされている。」 これは、僕もそうだと思う。 今、僕は寒さから守る服も着ているし、雨露をしのぐ部屋にいる。 外出すれば、電車にも乗れるし、畑を耕すことなく、食物を得ることが出来る。 どこかの誰かが、どこにもいる皆が、それぞれの仕事や、それぞれの役割を果たすことで、社会全体が回っている。 そういう意味で、僕は総ての人によって、本当に生かされていると思う。 勿論、やりたい仕事だけじゃないだろうし、ツライこともやらなきゃいけないこともあるだろうけれど。 兎に角、今は生きていることに間違いは無くて、それは、総ての人のお蔭だと言うことも間違いがない。 有難いと思う。 そして、その恩に報いるには、兎に角、自分自身が生きることだ。 ただ、悲しいかな、それは事実間違いがないのだけれど、ここでもまた、人によって殺されるという場合も存在する。 今、この今でも、世界のどこかで戦争を継続しているんですよね。 人によって、殺されている。 そんな、大きなことじゃなくても、日常でも、誰かによって傷つき、誰かによって泣かされるということが繰り返されている。 どうも、何とかならないものか。 それでもって、最後の「神様や、仏様によって生かされている」という言葉だ。 これが僕には許せないのであります。 神様っているのですか。 仏様っているのですか。 いるんだったら、どうして苦しんでいる人を助けてあげないのですか。 そう神様や仏様に問いたい。 僕の母親は、ガンで死んだ。 ある日、病院の先生に呼び出されて、母親に内緒で、母親がガンであることを告げられた。 その後、手術や抗がん剤など、苦しんで、悩んで、どん底に落とされたようになって、死んだ。 毎日、仏壇にお線香をあげて、お守りも身に付けてさ。 死ぬ前日まで、治ることを夢見ていた。 じゃ、神様に、仏様にお聞きしたい。 「僕の母は、仏さまによって、生かされていなかったのですか?」 確かに医療のお蔭で2年ほど延命したかもしれない。 でも、それって生かされていたのでしょうか。 これをね、仏教の偉いさんが説明するなら、前世の業によって、そうなったと説明するだろう。 因縁果報。 良いことをしたら、良い結果が待っていて、悪いことをしたら、悪い結果が降りかかる。 だから徳を積むようにと。 善いことをしなさいとね。 そんな理論を持ち出すなら、生かされているなんて言葉を出しちゃだめだ。 この世の苦のすべては因果応報だって言い切るべきなんだ。 決して生かされている訳じゃない。 だから、僕は「生かされている。」っていう言葉を宗教家が使うと、「バカヤロー!」と叫びたくなるのであります。 そして、生かされているという言葉を使う時は、その反対の殺されている部分を説明すべきだと。 とはいうものの、人間という生き物は、ひとりでは絶対に生きられないのであります。 その事実には、素直に感謝しながら、ぼくたちがすべきことは、ただ生きる。 それだけで、いいと思う。 そして、折角だから、今この瞬間は、生きているんだから、たとえ今が苦しくても、この生を大いに楽しむべきなんだ。 こんな僕でも、苦しみはある。 でも、そんな時、この同じ日本に、この同じ時代に、みゆきさんが存在してくれてるんだなと思うと、少し元気が出る。 考えてみれば、僕はみゆきさんに生かされてるんだなあ。 「ねえ、マスター。僕はみゆきさんに生かされてるんだよね。えっ。それは無理やりな理屈ですか、、、そうかなあ。」 彼女を見ると、満面の笑みで僕を見ている。 怖い。 そして言った。 「アイラブユー。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」 怖い。 どういう意味なんだ。 僕は、少し体を後ろにのけぞらせる。 「あのね。あたしの生きる意味はね、目の前の人を愛することだって。宇宙人の神様が教えてくれたの。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」 そして、カウンターを叩いた。 「バン、バ、バーン。バン、バ、バ、バーン。」 怖い。 だんだん、怖くなってくるよ。 宇宙人の神様って何なのよ。 それに目の前の人って、、、、ひょっとして僕のこと? 逃げ出したい。 それに、また半分妄想しているもの。 その上、カウンターを叩くときにリズムまで刻んじゃってるし。 バン、バ、バーンってさ。 無視だ、無視。無視に限る。 気を取り直して何か注文しよう。 「ねえ、マスター。今日の日替わりは何?」 「カレー豆腐があります。」 いいねえ。 このお店は、洒落たバーと違って、所謂おかずというものを出してくれる。 僕のように、お酒も飲みたいけれど、やっぱりアテもボリュームが欲しいという人には嬉しい。 カレー豆腐と言うのは、絹ごし豆腐をネギや玉ねぎと一緒に和風の出汁で煮て、カレー粉と片栗粉で味ととろみをつけた料理の事だ。 冷えたビールには、こんな熱々のおかずが合う。 それに、僕はカレー味というものが大好きだ。 特に、和風なカレーと中華風なカレーが好きなんだ。 あっさりとしていて、それでいてエキゾチック。 勿論、普通のカレーライスも好きだけどね。 カレーライスと言えばさあ、僕は簡単に作るカレーの方が好きなんだな。 たまにテレビで食通と言う芸能人が自分のカレーを自慢することがあるけれど、あれは大概においてダメだね。 みんな、玉ねぎを飴色になるまで炒めてさ、チャツネなんて余分なものまで入れちゃって、おまけにコトコト長時間煮込んじゃう人が多い。 何をしているんだか。 カレーと言う食べ物はさ、詰まるところ香辛料なんだ。 それをコトコト煮てどうするの。 揮発性の香辛料のいいところが全部飛んじゃうよね。 そうして、作ったカレーは、これまた大概に於いて濃厚だ。 まあ、たまに食べる分には問題はないけれどね。 僕みたいに、毎日でもカレーを食べたいなんて人には重すぎる。 挙句の果ては、この前テレビで見て笑っちゃったのは、作ったカレーを、わざわざ冷凍するっていうんだよ。 この人大丈夫なのと思ったね。 冷凍するというのは、よっぽど急速に凍らせなきゃいけないんだ。 普通の家庭の冷蔵庫でカレーを冷凍したらダメだ。 じゃがいもなんて、じゃがいもの水分が凍った時に、じゃがいもの繊維がズタズタに寸断されて、それを解答したらフカフカの気が抜けたようなじゃがいもになってしまうんだ。 フカフカのじゃがいもだよ。 フカフカのフーカフカ。 フカフカのフーカフカだよ、、、、ククク。食べられたものじゃない。 「えっ?今僕、フーカフカって言いながら鳥が飛んでるように羽ばたいちゃってたの?」 それはまた恥ずかしいことをしてしまった。 横の彼女を見ると、自分の脚をバンバンと叩いていた。 どんな妄想をしているんだろうね。 いや、妄想癖の女がどんな妄想をしていても関係ない。 無視を貫くのだ。 でもさ、カレーなんて食べ物は、ささっと簡単に食べるものなんだよね。 そうなんだけれど、僕はカレーを食べる時にこだわってしまう。 「あ、そうだ。マスターはカレーに何を掛ける?ソースなの醤油なの。えっ、マヨネーズ?それは変でしょう。」 「カレーに何掛けて食べる?」 そんな会話を学生時代にした記憶がある。 たぶん誰でも一度は同じような会話をしたことがあるのではないだろうか。 その時は、少数派であった醤油だと宣言する友人がいたので、僕も試してみたことがある。 普通の町の食堂で出されるようなカレーには、案外合いそうな組み合わせだ。 小さな発見が嬉しかった。 でも、何と言ってもカレーにはソースだよ。 家でもそうだ。 出されたカレーに、まず最初にソースを回しかける。 そして、おもむろにスプーンで端っこから、ちょっとずつ混ぜながら食べるのであります。 ところが、この行為がいけないのだそうだ。 「出されたカレーに、まず最初にソースを掛ける」という、この行為自体が、カレーを作った人にとっては、嫌な行為のようでありまして、特に、今の時代の女性には、叱責されるべき行為だということのようなのであります。 とはいうものの、僕は子供のころから、ずっとカレーに最初にソースを掛けて食べていたのでありまして、僕の親も、そんな風に食べていたのであります。 勿論、僕の母親は、その行為を責めたりはしなかったですよ。 それが普通だった。 「ちゃんと美味しく味付けしているのに。」 というのが、作った人の意見なのでありましょう。 でも、「まず始めに」ソースを掛けるんですよ。 これは、僕にとってはカレーを食べる時の儀式の1つなのでありまして、決して作って頂いたカレーを否定している訳ではないのであります。 食べる前にスプーンをコップの水にちゃぷんと浸ける人がいますが、あれと意味は同じなんです。 勿論、僕はスプーンをちゃぷんとはしないのですが、ちゃぷんとする人を叱責したりなどはいたさないのであります。 この点をはっきりさせないと、呑気にカレーを食べるということが出来ません。 もし、一口味を見てから、ソースを掛けたら、どうなのですか。 こっちの方が嫌でしょう。 一口食べて、少し首を傾げて、おもむろにソースを掛ける。 もし無言で、そんなことをされたら傷つくにちがいありません。 おしゃべりな人なら尚更だ。 「あ、ごめん。このカレー美味しいよ。本当に美味しい。それは事実なんだけど、、、ほんのちょっとね、ほんの少しだけ好みの味じゃなんだ。だからソースをちょっとだけね、ちょっとだけ掛けるね。ごめんね。」なんてぺこぺこしながら、ソースを掛けられたら、最悪でしょ。 食べ終わってから「あー、美味しかった。」って言っても、「ソースが美味しかったんでしょ。」なんて、大阪の女性だったら突っ込まれそうだ。 でも、僕はどんなカレーにだって、味を見る前に最初にソースを掛けるんです。 カレーの味とは関係ない。 なので、これっぽっちも、出されたカレーやカレーを作った人を否定していないのであります。 そんなことを考えながら、出されたカレー豆腐に七味を振りかける。 和風のカレーには七味だ。 でさ、カレーライスを食べ方というとね。 僕のカレーの食べ方は、格好悪いんだよね。 自分でもそう思うよ。 僕はカレーを食べる時は、カレーがたっぷりと掛けて食べるのが好きだ。 自宅では、まずカレーの掛かっているお皿の端や、カレーのてっぺんをご飯3割カレー7割ぐらいの割合で混ぜて食べる。 当然、白いご飯が残るので、そこに更にまたカレーを掛けてもらう。 そんでもって、またまたカレー7割で食べると、またまた白いご飯が残る。 そんでもって、またまたカレーを掛けてもらう。 こんなことを、3、4回繰り返して僕のカレーの儀式は終了する。 しかしながら、外で食べる時は勿論そんな事は出来ない。 何が悲しいといってカレーを食べていて最後に白いご飯が残る事ぐらい悲しいことはないのだ。 なので、運ばれてきたカレーに向かっていろいろ細工をしなければ悲しい結果になる。 まず、運ばれてきたカレーにスプーンを垂直に突きたて、カレーとご飯の量のバランスを探る。そして、カレーのルーに対するご飯の量を決めるのです。 そして、カレーの掛かっていない余分な白いご飯と判断した部分に福神漬けを乗せて、先に白いご飯を食べるのであります。 福神漬けがない場合は、ソースを白いご飯に掛けて「ソーライス」として食べます。 ソーライスっていうのは、昔に阪急百貨店で、白いご飯にウスターソースだけを掛けた料理があったんだね。 カレーよりも安い食べ物。 ソース味のご飯だ。 そんでもって、外食のカレーだよ。 ここで、厄介なのが、ご飯全体に満遍なくカレーが掛かっているときだ。 この時は、カレーの下のご飯をスプーンでほじくり出して、まずは白いご飯だけを福神漬けを乗っけて食べる。 そして、カレーの量を相対的に増やすのだ。 こんな苦労をしながら最後にカレーたっぷりのカレーライスを食べるのです。 見ている人がいたら「あのオッチャン大丈夫かな。ちょっと精神病んではるな。」なんて思われるだろう。 どちらにしても綺麗な食べ方じゃない。 恥ずかしい食べ方だ。 そして、悲しい食べ方だ。 大阪の難波の「自由軒」という洋食屋では、始めからルーとご飯を混ぜてあるカレーを食べさせる。 このお店は織田作之助の「夫婦善哉」にも登場していて大阪では有名です。 織田作も、僕と同じように最後に白いご飯が残るのが嫌いだったのではないだろうか。 そんな僕が「負けた。」と思った瞬間がある。 それは学生時代のことだ。 僕はお昼時間に、少し日差しの柔らかくなった初秋の学食のテーブルに座っていた。 そこに同じクラスの友人がカレーライスを持って来て座った。 ゆっくりと足を組んで、少し長めの髪をかき上げた彼は、別にカレーをじっくりと見るでもなく、皆と話をしながら、スプーンを手に取りました。 そして次の瞬間です。 スプーンを無造作にカレーに差し入れたかと思うと、混ぜることなく、すくい上げて口に運んだのです。 当然スプーンの中は、白いご飯の上にカレーが乗っかった状態です。 しかも、すくうたびに、そのカレーと白いご飯のバランスが違うのです。 でも、その時思いました。 「カッコイイ。」 何気なく食べるその姿がカッコイイのです。 僕は友人に聞きました。 「カレー混ぜへんの。」 「だって、どうせ口に入ったら混ざるやん。それに、面倒くさいし。」 そうなんだよね、どうせ混ざるし、何といっても、たかが昼食なんだ。 そんな気合を入れて食べなくてもいい。 「昼食だから、ちょっとお腹に治まればそれでいい。」なんて余裕があるのがカッコイイんだよね。 「完敗だ。」 それでも僕は、自分のカレーの食べ方のカッコ悪さを気にしながらも、今日も白いご飯をほじくり出しては、混ぜまくって食べずにはいられないのであります。 ああ、格好悪い。 そして恥ずかしい。 そして、悲しい。 気が付くと僕は口をへの字にして、泣きそうになりながら、おしぼりでカウンターをゴシゴシと拭いていた。 シマッタ!!! 「あ、マスター。僕今、泣いてました。」 マスターは、悲しそうな目で首を横に振った。 横の妄想癖の女もカウンターをおしぼりで拭いている。 何を妄想しているんだ。 彼女もまた泣きそうに「はっぱふみふみ」と呟いていた。 どうも、気がおかしくなりそうだ。 それにしてても、みゆきさんはカレーライスを食べるのかなあ。 辛口なの甘口なの。 あっさりなのこってりなの。 いつだったかな、みゆきさんのラジオで、みゆきさんは食べるのが遅いって言っていた。 きっと可愛い食べ方するんだろうなあ。 でも、これは意外だった。 ラジオのお喋りの感じだと、もっと活発に食事もガーッって食べるのかなと思っていた。 でも遅いんだね。 もしくは、お喋りをしながら食べるから、遅くなるのかな。 なるほど、これは覚えておかなくちゃね。 将来、近いか遠いかは考えると悲しくなるからやめておくけれど、将来、将来だよ、みゆきさんと晩御飯なんか食べに行くことがあったらね、食べるスピードを合わせなきゃいけないものね。 僕は、どちらかというと、早いほうではないけれど、兎に角、目の前に料理があったなら、無心に食べるので、早く食べるほうである。 僕の奥さんは、そんな僕より2倍は食べるのが早い。 僕が定食のおかずを半分ぐらい食べて、前に座っている奥さんを見ると、もう食べ終わっていることがある。 あれは、どうやって食べているのだろうね。 噛んではいるようだけれど、異常に食べるのが早い。 それに比べて、みゆきさんは乙女なんだなあ。 かわいいなあ。 箸で定食のご飯を摘むんだけど、ほんの1口分しか箸で取らない。 それを、口をおちょぼにして、そんでもって、箸もおちょぼ口だから縦にして、ちょこんと口に入れる。 モグモグ。 口をおちょぼのままに尖らせたまま、箸を持った手をまだ下さずに顔の横に置いたまま、「一緒にご飯できて楽しいね。」なんていう感じの笑顔になった。 小さな小さな1口を飲みこんだら、「あのさあ、今日見る映画ね。手を繋いで見たカップルは3か月後に別れるんだって。」なんて言う。 悪戯っぽいけれど、目を無防備に垂らして笑う仕草が愛しくて、愛しくて。 「ふーん。」と、ワザと、嬉しさをこらえて答える。 そんな会話の答えを考えるより、目の前のみゆきさんを見ていたい。 みゆきさんは、僕の反応を楽しむように、おかずを箸で小さく割っていた。 でも、やっぱりみゆきさんが目の前にいても、僕はみゆきさんよりずっと早く食べちゃうんだろうな。 目の前に料理があったら、食べちゃう僕。 これは仕方がない。 みゆきさんと食べるスピードを合わせるなんて僕にはできない。 なら、解決策。 みゆきさんが食べている間、僕も料理を注文し続けて食べてれば、いつも一緒に食べていることになる。 その作戦で行こう。 でも、みゆきさんと食事ができるのは、いつなんだろうね。 最近は、妄想でも会える気がしない。 というか、会う勇気が無い。 どうしたらいいんだ。 「バン、バ、バーン。バン、バ、バーン。」 シマッタ!!! ウッカリしていたよ。 またカウンターをバンバンしちゃったよ。 しかも、妄想癖の女のようにリズム刻んじゃったし。 「ねえ、マスター。ごめんね。カウンターバンバンしちゃってさ。あ、怒ってる?ねえ、怒ってるの?」 マスターは何も答えず、悲しそうな目で僕を見るだけだ。 それはどういう意味なのよ。 そういえばさあ、どうして僕はこんなにも、みゆきさんに心イカレチャッタんだろうね。 本当はさ、現実のみゆきさんに会えるなんて、どうにも無理だって思ってるのかもしれないんだ。 絶対に会うって毎日叫んでいてもね。 こころのどこかに、そんなの無理だっていう自分がいる。 それでもさ、たとえみゆきさんの幻だっていい。 僕のそばにいて欲しいと思うんだよね。 幻っていえばさあ。 幻っていうと、昔流行った映画「ゴースト・ニューヨークの幻」を思い出す。 主演のデミ・ムーアさんは、可愛かったよね。 それに、流れる音楽がライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ」が、何とも切ない。 それにしても、このアンチェインドという言葉を聞くと、その反対のチェインドという言葉の方に心が捕らわれてしまう。 重く辛い言葉だからだ。 鉄の重たいチェーンが体を縛り付ける。 何処へも行けず、どうにも動くことが出来ない。 そんな息苦しさと身体の苦痛をイメージしてしまう。 一体に人間が人間を鎖で繋ぎとめるなんてことをしても許されるものだろうか。 許される訳はない。 とはいうものの、見えない鎖で人間を繋ぎとめることは、通俗的にまかり通っている。 精神的な側面でいうと、相手を鎖で繋ぎとめようとすることは日常にあふれかえっているんだよね。 特に「恋」なんて、その典型だ。 人が好きだっていうことを表現する場合。 「愛」と「恋」がある。 でも、それは全く違うものだ。 「愛」は、相手のことを尊重して考えることが、そのベースとなっている。 無条件であり、いつでも純粋だ。 でも、「恋」は、自分が悲しくなるぐらい自己中心的で、欲望がむき出しになっているものだ。 相手のこころと肉体が欲しいという我儘な気持ち。 つまりは、相手を鎖で繋ぎとめたいという衝動なのである。 愛する人を、重い鎖につなごうとするのだけれど、そんなの実在しない鎖ではつなぎとめることなんて出来ないのが事実だ。 それは、相思相愛だって起こりうる。 岡本太郎さんの言うように、相思相愛だって、2人に必ず温度差があるから、詰まるところは片想いなんだと本に書いておられる。 それを読んだときに、成る程と思った。 だから、自分がこんなに相手を思っているのに、相手はそれほどまでに自分を思っていないのかもしれないという不安が、どこのカップルにも存在するわけで、自分を思っていないと思えば思えるほど、相手を縛り付けようとする。 好きだという気持ちから出た束縛。 そんなことをすればするほど、相手の気持ちが離れていくのにね。 当人は、解っていない。 それとも、解っているけれども、止められない。 悲しいね。 とはいうものの、僕はそんな束縛を否定はしない。 何故かというに、僕も多分にそんな傾向を、こころの内に秘めているからだ。 かなり前に、テレビで「自分の好きなアイドルが恋愛をするのを許せるか。」というような感じのアンケートを朝のテレビ番組でやっていたけれど、最近の若い人の感覚は、僕には信じられない。 あまり詳しくは覚えていないけれど、好きなアイドルが男性と食事をするぐらいのことだったら許せるという人がいたことである。 これは僕には理解不能だ。 本当に、あなたそのアイドルが好きなのって問いたいね。 僕は、みゆきさんに恋をしている。 だから、そんなアンケートがあったら、すべてが許せないと答えるだろう。 みゆきさんが、他の男性と食事へいくのなんて、嫌に決まっている。 喫茶店でコーヒーなんてのも、行ってほしくない。 携帯の住所録に男性の名前は入れて欲しくない。 仕事でも、男性とはなるべく接触してほしくないし、どうしても仕事で付き合わなければいけないのだったら、思いっきり嫌な女を演じてほしい。 勿論ね、結婚なんてのは最悪だよ。 実際には、しないけれども、こころの中では、みゆきさんを束縛したいと思っている。 それは、現在だけでなく、過去も未来もね。 だから、真偽は考えたくないけれど、昔みゆきさんと噂のあった芸能人の顔や名前を見かけたら、殴ってやろうかと思う。 「エッヘン。どうだい、このぐらいじゃないと恋してるって言えないんだよ。若者諸君。」 その人が好きだったら、束縛したいって思うぐらいじゃなきゃダメなんだよ。 とはいうものの、客観的に見たらね、これは最悪に気持ち悪いのであります。 それは僕自身でも解っている。 だから、自制することを覚えた。 そして、そんな見えない鎖は、見えないけれども相手には重く辛いものでありまして、それは誰でも、そんな鎖なんか切ってしまって、脱獄したくなるのが普通だ。 相手のこころを欲するがゆえに起こる「別れ」。 悲しいな。 好きになればなるほど、相手に疎まれる。 それじゃ、好きになんてならない方がいいのかも。 好きなんだけれど、好きじゃない素振り。 それも疲れるな。 何にしても、人を好きになるっていう事は、どうにも辛いものでございます。 そんな時はさ、冷たいビールでも飲んで、束縛したいという気持ちを解放しましょうか。 アルコールは、それには最適だ。 「もう、どうでもいいや。」って気持ちになるもんね。 とはいうものの、これがこころの束縛じゃなくて、身体の束縛となるとアルコールでも解決できない問題となる。 僕は、人を、人間の身体を拘束したことがあるんだ。 どういうことか。 「言うのよ。言うの。あなたの悩みをあたしに打ち明けてよ。あたし、ウ・ケ・ト・メ・ルッ。ウフフ。」 妄想癖の女が、僕の話を聞いていたようだ。 マスターより聞いてくれてるのかもしれないよね。 嬉しいような、怖いような。 それは父親が生きている時の話だ。 仕事をしていると、携帯が鳴った。 父親が入院している病院からだ。 5年ぐらい前の事だろうか。 病院から電話が掛かってくるなんてことは、いい話であるわけがない。 電話に出ると、看護婦さんからの電話で、父親が夜に治療のためのチューブや器具を抜いたりするので、困っているということだった。 なのだけれど、僕の父親はボケてはいなかった。 素人の僕の考えだけれど、父親と母親の経験から推測するに、内臓の調子が悪くなって、どうも血液の中の成分に毒というか、不純物が多くなると、ボケに似た症状と言うか、幻覚を見たりするようだ。 ある時、僕が父親の様子を見に病院に行くと、ずっと天井を見ていた。 そして、僕に言った。 「あの書類取ってくれ。」 「え?書類って。」 「あの書類やがな。ほら天井にぶら下がっている。」 「これか。これは点滴やで。」 「ちゃうがな、書類やがな。」 「これやろ。これは点滴や。」 しばらくそんな問答が続いて、最後に父親が言った。 「そうか。それなら、もういい。」 自分の言う事が解ってもらえない憤りを噛みしめて、それでも怒ることもなく、自分の置かれた状況に従った。 父親は、自分に繋がれている点滴が書類に見えていたのだ。 でも、こんなことは仕方がない。 誰でもね、年を取って病気になって調子が悪いときもあるさ。 そんでもって、ずっとベッドに寝かされていたら、訳の分からなくなることもあるさ。 病院の看護婦さんの電話の内容もね、たぶん父親は訳のわからないままやっていることなんだと思う。 そして、看護婦さんが話を続ける。 「なので、お父様の身体を、夜寝る時だけ拘束させてもらってもいいですか。」 僕は、息がつまった。 拘束ということは、手足を縛り付けるということだろう。 父親にしてみれば、苦痛この上ないに違いない。 一体、人間が人間の自由を、それも身体の自由を奪っていいものだろうか。 良いわけがない。 携帯を耳に付けたまま、立ち尽くしていた。 でも、その返事を出来るのは、身内である僕しかいない。 その2年前には、母親も既に亡くなっていたし、僕は長男だ。 こんなことに決断をできるのは、僕だけだった。 仕方なく「お願いします。」と看護婦さんに告げた。 その時は、それしか考えられなかった。 僕は弱かったんだ。 ある期間治療すれば治るということもない長期の入院の場合、先生や看護婦さんに嫌われたらどうしようかという考えが僕の考えにあったのです。 もし、今の病院を追い出されたら、行くところが無い。 その時の僕には、父親を拘束するという決断しかなかった。 その日の帰路の京阪電車の中で、今頃父親は病院のベッドで拘束されているんだなと思うと、涙が流れた。 そして、これで良かったんだろうかと、自分自身に何度も問い続けた。 拘束といっても身体をひもで縛るというところまではいかない。 両手にミトンという指が自由に使えないようにする手袋のようなものを付けるのだけれど、それでも僕の頭の中では、父親がそのミトンを嫌がって一所懸命取ろうとしている映像が、くるくると回っていた。 「ごめん、お父さん。」 今思うと、そんなことをやらなければ良かったと思う。 父親が亡くなる4カ月前ぐらいから、誤嚥をするので食事は出来なかった。 ずっと点滴で栄養を取っていた。 そんなある日、僕が病院に行くと、父親が言った。 「冷たいビールが飲みたい。」 勿論、その時は先生に怒られるからアカンと言った。 でも、今はハッキリと断言できる。 もし、今あの時と同じ状況にあったなら、父親を無理にでも連れ出して、冷たいビールと美味しい料理を食べさせただろう。 誤嚥したって構わない。 それで、肺炎になって、万一死んでしまっても、今はその選択の方が正しいと思う。 だって、ビールを飲まさなくても、先生の言うとおりにしていても、やっぱり父親は死んでしまったんだもん。 それだったら、ひと時でも楽しい思いをさせて上げたかった。 実際に看護している病院の先生や看護婦さんにしてみれば、私たちの苦労をしらないで、よくそんな暴言をはけるものだと叱られるかもしれない。 それはそうだよね。 でも、やっぱり、そうしたかったな。 今でも、いろんな病院で、患者を拘束している状況がある。 何とかテクノロジーの発達で、拘束しなくてもいい薬や器具ができないものだろうかね。 冷たいビールを飲みながら、そんな未来を想像した。 ふと見ると、妄想癖の女が僕の手を握りしめて泣いていた。 怖い。 怖いよー。 話を聞いてくれるのは、有難いのかもしれないけれど、何故か背中がゾクゾクとする。 「ありがとう。」 何故だか、そう言ってしまった。 そして、静かに彼女の手を解いて、僕の手を抜いた。 すると彼女は唇を前に尖らせて言った。 「どうぞ。どうぞ。自由にチューしてください。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」 どういうことだ。 もしかして、宇宙人の神様にチューをしてもらえと命令されたのか。 もちろん、見た目は可愛いし、儚げな雰囲気は僕の好みに近い。 とはいうものの、誰が「だじゃーれ、だじゃーれ。」なんて呟いている、その口にチューができるだろうか。 しかも、目をパッチリと見開いて僕を見つめている。 びっくりしたような大きな目でもって、「だじゃーれ、だじゃーれ」の口にチューできるのは、同じ宇宙人の神様から命令された男しか無理だろう。 僕には無理である。 「ありがとう。あなたは綺麗だしチューしたいけれど、僕には奥さんがいるから止めときます。」 そう答えると、急に表情が険しくなって言った。 「奥さん?奥さんがいるの?この裏切り者ーっ。」 そう叫びながら、カウンターを、「バンバンバンバンバンバン、、、、。」と指が折れるんじゃないかというぐらいの勢いで叩いた。 「いや、始めから独身だなんて言ってないし。」 「この卑怯者ーーーっ。」 バンバンバンバンバン、、、、。 「いや、卑怯者っていわれても。」 「嫌だ、嫌だ、騙されたーーーっ。」 バンバ、バンバ、バババババーン。 あれ、ちょっと余裕が出てきたのか、またリズム刻んだよ。 「警察読んでーーーッ。救急車呼んでーーー。助けてーーー宇宙人の神様ーーーっ。」 バンバンバン、、、、、。 「ちょっと落ち着いて。でも、僕の話の中に奥さんの話でてきたでしょ。何度もさ。」 「あ?そうやった?そうやったわね。そうやったわ。あ、ゴメンね。あたしの勘違いやったわ。何か、最近疲れてたし、あたしも、そろそろお嫁さんなんて妄想してたから、、、。ゴメンね。」 急にアッケラカンと真顔になって、そう答えると、「あ、あたし向こうのテーブルに移動してもいい?」とマスターに言ったと思ったら、グラスを持って部屋の真ん中にあるテーブルに移っていった。 見るとテーブルには若い大学生ぐらいの真面目そうな男の子が1人で座っていた。 ズックの鞄にボタンダウンのブルーのシャツとチノパンを着た男の子は、吃驚したように彼女を見ていたが、やがて彼女の話に何やら合しているようである。 可哀想な男の子。 そして彼が笑った。 「ねえ、マスター。見た?見たよね。今、彼が笑ったよね。」 可哀想なのか。 良かったねなのか。 どちらにしても、怖い。 「それにしてもさ。助かったね。マスター、僕どうなることかと思ったよ。怖かったよ。」 「そうですか。少し残念そうですけれど。」 「まあ、ちょっと可愛かったからね。でも、最後のバンバンバンは、尋常じゃないほどカウンター叩いてたよね。」 彼女を見ると、男の子相手に嬉しそうに話をしている。 男の子は、それを無言で見ていた。 ふと彼女の指を見ると、人差し指が違った方向を向いている。 折れてるの? 指、折れてるの? 指、折れてるのに、気が付かないの? 指、折れてるのに、気が付かなくて、そんな嬉しそうな顔をしているの? 満面の笑みでさ。 まあ、あなたがそれで嬉しいなら、それはそれで良かったわけだけどさ。 頑張って自分を守るんだよ、男の子。 そうエールを送った。 可愛いけれど、少しばかり変わった妄想癖の女から逃れられたことの安堵感を感じながらカウンターに座っていた。 さて、帰るとしますか。 バーのドアを開けると、ひんやりとした風が僕の首筋を通り過ぎていった。 それにしても、妄想癖の女は困ったものだ。 とはいうものの、彼女だってやっぱり寂しいのだろうね。 彼女だけじゃない、僕も寂しいし、皆寂しいんだ。 最近は、携帯電話やスマートホンというのは誰でも持っているよね。 でも、その携帯電話を使う頻度というのは個人によって違う。 1日に何度も通話をする人もいるだろう。 でも、何日も携帯を持ってはいるけれども、使わないという人も結構多い筈だ。 ひょっとしたら彼女もまた、そんな1人なのかもしれない。 世界中の携帯電話の中で、いつも誰かにつながっている携帯電話って、どのくらいの割合であるのだろうか。 いつも、恋人や友人につながっている携帯電話。 まさしく、素敵な宝物のような携帯電話。 案外と少ないんじゃないだろうか。 僕の携帯電話だって、ほとんどが仕事の電話だ。 あとは、奥さんに帰るコールをするぐらいか。 友人に連絡をしようかと思う事もあるのだけれど、相手も忙しそうだし、時間も時間だしなどと、掛けるのを遠慮してしまう。 とはいうものの、、まだ僕は使っているほうかもしれない。 世の中には、持ってはいるけれども、鳴らない携帯電話があふれているのではないかと思う。 いつか掛かってくる、誰か分らない誰かを、じっと静かに待っている携帯電話。 それでも確実に減る電池を、充電器につなぐ時、その日1日何も起こらなかった安心感と、何も起こらなかった寂しさを、ひとりで噛みしめる。 それよりも更に悲惨な人もいるだろう。 「助けてくれー。」っていうこころの叫びを、誰かに聞いてもらいたくて、でも、誰に掛けていいかも分らずに、身もだえしながら、携帯電話を握りしめている人もいるに違いない。 誰に発していいか分らない「SOS」。 これが無線なら、不特定多数の人に向けて、「SOS」って発信できるのだけれど、携帯電話は、特定の相手の番号を打ち込まなきゃいけない。 そんなの誰も打ち込めないよ。 打ち込めるんだったら、苦悶しない。 そんな人には、携帯電話は、素晴らしい宝物じゃなくて、苦しい道具である。 今の携帯電話は、驚くほど多機能だ。 なら、どうだろう。 携帯電話の電話番号は関係なくて、誰でもが、誰かにつながるオープンチャンネルがあっても、いいのではないかと思う。 アマチュア無線や市民バンドのように、不特定多数に発信するボタン。 押せば誰かとつながるボタン。 それなら、どうしようもなく辛い時に、「助けてくれー。」ってSOSを発信できる。 今の時代は、そんな機能が必要なのではないかと思うね。 僕のアイフォンの待ち受けは「ちびなみちゃん」だ。 ちびなみちゃんとは、みゆきさんのイラストのキャラクターだ。 「中島みゆきアプリ」も入れてある。 まあ、このみゆきさんのアプリは、今は運用が終了してしまって使えないんだけれど、消せないで入ったままなんだけれどね。 そんでもって、勿論、勿論、みゆきさんの歌も思いっきりいれてある。 あとは、みゆきさんの持っている携帯電話と、僕の持っているアイフォンが、赤い糸でつながるだけであります。 とはいうものの、電話番号を知らない。 つながらない苦しい道具。 今のところはね。 いずれ「今、何してるの?」なんてみゆきさんの声がアイフォンから聞こえてくることが夢なのね。 ウヒヒヒー、ウヒヒヒヒー、ウッヒー。 シマッタ!!! 街中で、変な笑いをしてしまった。 カッコ悪いじゃない。 両手で顔を隠して、目の所だけを人差し指と中指で隙間を開けて、人に見られない様に駅まで小走りに走った。 ====================================================== 次の週の水曜日である。 バーのドアを開けると、テーブル席に妄想癖の女と男の子が座っていた。 僕はカウンターに座る。 「彼女、男の子と2日に1回は来るんですよ。」と教えてくれた。 僕は彼女を振り返ってみたが、彼女には、もう僕の姿は見えてはいなかった。 「マスター今日の日替わりは何?」 「すき焼きの小鍋仕立てみたいなものです。」 それはいいね。 何度も言うけれど、このバーは、バーと言っても喫茶店と居酒屋とバーの掛け合わせたようなお店である。 こんなアテが楽しいんだね。 出てきたすき焼きは、小さな1人用のというか、半人前ぐらいだろうか、小さな鍋で既に煮て完成されたものだ。 「そういえばさあ。前にね、ラジオでね、みゆきさんがすき焼きの事を話していて、みゆきさんはすき焼きを食べる時に溶き卵をつけないんだってさ。だから、今日は、玉子はいいや。みゆきさんみたいに食べるよ。」 それにしてもさあ。みゆきさんと、すき焼きを食べたいな。 そんでもって、みゆきさんが僕にすき焼きを食べさせてくれるんだ。 普通の食べ方だとね、溶き卵に肉をくぐらせるから、肉の温度も下がってそれ程熱くない。 でも、みゆきさんの食べ方だと、溶き卵をつけないんですよね。 じゃ、肉が熱いままじゃない。 「はい、ボンゾウちゃん。あーんして。」 「それじゃ、熱すぎるよ。フーフーして。」僕は猫舌なんです。 「フーフー。」みゆきさんが可愛い口をとんがらせて、箸でつまみあげた肉をフーフーしてくれる。 人生に至福との時と言うものがあるのなら、まさしく今が至福の時だろう。 みゆきさんのフーフーを嬉しそうに見つめる僕。 ずっと眺めていたい。 そして、みゆきさんのフーフーの肉を口に入れてもらう。 最高の牛肉だ。 僕は、ビールが好きなのでありまして、これが松坂牛の有名店の和田金さんに行ったとしても、まずビールを飲むだろう。 行ったことはないけれどね。 でも、ゆきさんのフーフーした牛肉には、もっと高級なお酒が似合うに違いない。 そうだ、シャンパンだ。 みゆきさんのフーフーに乾杯!なんてね。 「ねえ、こんどは豆腐を食べたいな。」 「はい、フーフー。」 「こんどは、ネギ。」 「はい、フーフー。」 「今度は、、、。」 「もう、いい加減にしてよ。すき焼き食べ始めてから3時間経ってるよ。」 1つひとつフーフーしながら食べさせてもらったら、そうなるか。 それじゃ、みゆきさんが怒り出すのも無理はない。 それなら、始めから全部のすき焼きをフーフーしてもらうとか。 あ、そうだ。 みゆきさんのフーフーした料理を販売するっていうのは、どうだろう。 「みゆきさんのフーフーしたすき焼き。」 「みゆきさんのフーフーしたカレー。」 「みゆきさんのフーフーした麺を使用したインスタントラーメン。」 なんてね。 みゆきさんのファンだったら絶対に買うね。 それをヤマハさんのホームページでネット販売。 みゆきさんの「フーフーシリーズ」で、僕は大儲け。 「キャー。」 「バンバンバン。僕みゆきさんのフーフーで大儲けだよ。ウッヒヒヒー。」 シマッタ!!! また、バンバンをしてしまったじゃない。 「マスター、ゴメン。バンバンしちゃった。」 という僕の口元は、フーフーの口をとんがらせたままの口だった。 それにしても、やっぱり溶き卵を付けないと、味が濃いね。 まあ、僕は濃い味付けが好きだから美味しいけどさ。 普通の人は、玉子を付けた方が美味しいと感じるかもしれないね。 「ねえ、マスター。みゆきさんも濃い味付けが好きなのかなあ。これ玉子付けないと味濃いもんね。」 「みゆきさんは割下ですき焼きを作ってるんじゃないですか。多分。関西は、割り下じゃなく、肉に直接砂糖と醤油を振りかけて作るから、全体的に味が濃くなるんじゃないですか。だから玉子を付けると美味しい。」 「なるほどね。マスターの言うととおりだね。」 「それにしても、お客さんはフーフーとか、アーンがお好きですね。」 「えっ?何で解るの?」 「何故でしょうか。」 呆れたような顔で後ろを向いた。 どういうことなのだろうか。 もしかして、僕は知らない間に妄想でフーフーとかアーンとかやっていたのだろうか。 それは恥ずかしいぞ。 カウンターを見ると、ん? 何と女性が1人で座っているではありませんか。 お店に入る時に気が付いていれば、その隣にも座れたものを、気が付かなかった。 しっくりと落ち着いた黄色のセーターを着ていて、髪は肩ぐらいの長さである。 これは、どうしても御尊顔を拝さなければいけません。 こんなお店に1人で来るレディは、どんな人なんだろう。 背伸びをするふりをして、体を反らせてみたりするけれど、間の中年男性に阻まれて、見ることができない。 30代か40代か。 時々生まれる隙間から、観察すると、レバーの串を頬張っていた。 仕事帰りに、バーのカウンターで、焼酎を飲みながら、レバーの串を頬張る。 きっと仕事も、頑張る人なんだろうな。 だから、疲れた時は、こんなお店で元気のでるものを食べたくなる。 それに、きっと独身だ。 恋をすることがあっても、どこか「この人でいいの。」って問いかける自分がある。 そこで立ち止まってしまう。 或いは、男性っぽいところがあって、みんなから女性としてみてもらえない。 だから、好きな人がいても、自分なんて女として見られないしと告白するのを躊躇ってしまう。 自分だけ、ひとり。 自分だけ、取り残されている感覚。 ホントは泣き出しそうなぐらい寂しいんだけれど、泣く場所が無い。 家で泣くなんて悲し過ぎる。 1LDKの真っ暗な部屋に帰って、サークラインのスイッチを入れる。 1人掛けのソファに置かれたキティちゃんのぬいぐるみが「おかえりなさい。」と笑った気がした。 昼間の仕事ぶりから想像できないが、意外にもキティちゃんグッズが、唯一自分を希望いっぱいだったころの少女に自分を戻してくれる。 ぬいぐるみを膝において、にらめっこ。 「笑うとだめよ、あっぷっぷー。」 いつも先にキティちゃんが笑ってくれる。 笑えない、自分。 多分、地方から働きに出てきた女性だ。 大阪に出てきた時に、家から持って来たCDプレーヤーのスイッチを入れる。 みゆきさんの「背広の下のロックンロール」 さて、明日も仕事に行きますか。 ちょっとだけ元気が出た気がした。 そんな彼女の顔を見たいのだけれど、中年男性がじゃまだなあ。 でも、そんな人に違いない。 もう、どうしても彼女を抱きしめてあげたくなった。 ギューっと抱きしめて、そのココロを温めてあげたい。 とはいうものの、急に抱きしめると痴漢になってしまう。 「本町の居酒屋で、泣きながら抱き着く痴漢を逮捕。」 そんな新聞記事が載ったら奥さんが可哀想だ。 「うちの主人、みゆきさんが好きで好きでたまらないようなんです。 でも、会えないから、その人がみゆきさんだっていう幻覚をみたんじゃないでしょうか。普段は、そんなことをする人じゃないんです。善良な一小市民なんです。」 なんて、奥さんのコメントが載ったりしてね。 更に隣で飲んでいた男性のコメントが続く。 「急に、わーんって泣き出したと思ったら、みゆきさーんって叫びながら女性に抱き着いたんですよ。あの時の目を思い出すと、今でも怖くなりますよ。」 人の作り話ほど、怖いものはない。 「違う、違う、違う。僕はやっていない。」 シマッタ!!! 気が付いたら席を立って、両手を振りながらお店の中を1周してしまった。 僕の妄想もだんだんひどくなっていくようだ。 ただ、僕がテーブルを回ったときに、背中から「ぴじゃーれ、ぴじゃーれ、はっぱふみふみ」という声と、楽しそうに笑う男の子の声が聞こえた気がする。 意外にもあの2人、上手くいっているようだ。 何事もなかった振りをして席に座る。 「ねえ、マスター。ビールください。あ、マスター、もしお願い事が1つだけ叶うとしたら何をお願いする?ねえ。」 「マスターは、少し首を横に振っただけで、黙っている。」 「ねえ、マスター。聞いてるの?」 無言だよ。 なんでこんなことを聞くかっていったらね、今日さ天王寺の近くの神社に行ったのよ。 そしたらね、そこの神社さ、一生に一度のお願いをきいてくれるんだってさ。 神様に、1つだけ望みを叶えてもらえるとしたら、あなたなら何をお願いしますか。 子供の頃に、こんな質問をされた時に、「じゃあ、叶えてくれるお願いを100個に増やして。」なんていう答えが誰にでも頭に浮んだんじゃないだろうか。 子供への質問だったら、これは楽しい遊びだ。 でも、大人になって、よくよく考えてみるに、この答えには矛盾がないようにも思える。 100個に増やしてというのも、1個のお願いなのであるから。 でも、神様にしてみれば、1個のお願いを叶えるはずが、このお願い自体を含めて101個のお願いを叶えてしまうことになって、矛盾が生じてしまう。 この辺の理屈は考え出すと、訳が分からなくなってしまう。 「エーッ、どっちなの。どっちなの。理屈が通ってる、通ってない。通ってる、通ってない。」 僕は両手を向い合せて親指とその他の指で口を作って、パクパクと動かして人形のように交互に喋らせていた。 シマッタ!!! また恥ずかしいことをしてしまった。 仕方がないから両手の口でチューをさせてみた。 うん、さっきより更に恥ずかしい。 それよりも、誰かこのお願いが理屈に合うものなのか、どうなのか教えてくれないだろうか。 子供の頃だったら、大人から「そんな欲の皮つっぱったこと言ってたら、神様も1個のお願いも聞いてくれへんで。」と言われるだろう。 偽善的な教訓による理論の強制的遮断。 子供心に、何とも腑に落ちない話となる。 それでもって今日の僕の行った神社の話だ。 天王寺にある神社の前に立つとある看板が目に入った。 「当神社は一生に一度のお願いを聞いてくださる神さん」 これは素通りするわけにはいかないでしょう。 とはいうものの、神社の階段の下で考え込んでしまった。 「一生に一度のお願い」 何とも重たいお願いではないですか。 そんなお願いを、今ちょっと通り掛かっただけなのに、決めてしまっていいものか。 いつかは病気にかかることもあるだろう、どうしようもない困難に出会う時もあるだろう。その時の為に取っておくというのも一案だ。 それに、今日、今、一生に一度のお願いをするとしてもだ、何をお願いするかが大問題である。 僕は、お参りをするべきか、次回に持ち越して今日は帰るべきか、階段の下で思い悩んでいた。 でも、これもまた縁と言うものである。 由緒のある神社の、さて正面にある本殿の前に立ちます。 一生に一度のお願いと言うのは、やっぱり1つでなくてはならないのだろうか。 またもや「一生に何度もお願いを聞いて」という子供じみたお願いが浮かんだけれど、それじゃ神様も困るだろうし、他の神社と同じになっちゃうだろう。 一生に一度のお願いを聞いて下さるというここの神社の神さんの存在意義が薄くなると言うものだ。 1つだけお願いするとしたら、奥さんの健康だろうか。 何年か前に、脳内出血をしてから、まだその患部は切らずに温存している。 またいつ出血するかもしれないというのは、可哀想だ。 でも、お金持ちにもなりたい。 しかも、何の努力もしないでさ。 とはいうものの、今は奥さんも健康で暮らしている訳だし。 ここはお願い1つということなら、僕の我儘をお願いしてもいいんじゃないだろうか。 自分の力では限界があること。 そんなお願いだからこそ、神さんにお願いする意味があると言うものだ。 「みゆきさんと、デートしたい。」 これだろう。 いや、もっと具体的にお願いするべきか。 「みゆきさんと、恋人つなぎで手をつないで、公園を散歩。その時に勿論ケータイの番号なんかを交換して、そんでもって雰囲気が盛り上がってきちゃって、チューなんていう展開になりますように。」とね。 とはいうものの、それも家庭円満じゃなきゃ実現できないだろう。 どうも、1つに絞れないね。 だったら、つなげちゃうとか。 「えーっ。奥さんが健康であるがゆえに、家内安全となるがゆえに、僕の我儘を聞いてくれるようになるがゆえに、東京へも行けるようになるがゆえに、みゆきさんとも偶然会える機会ができるようになるがゆえに、知り合ってしまうがゆえに、みゆきさんと打ち解けてしまうという流れの中で、みゆきさんと相思相愛になりますように。」 なんてね。 これって、1つのお願いになるのだろうか。 いろいろ悩んだ挙句に、全部のお願いを申し上げた。 、、、、、どうせ、お願いなんて叶わないんだからさ。 恋も、お金も、健康も、平和も、、、そんなに、うまくはいかないものだよ。 もし、この神社で、「一生に一度のお願いを、何度も聞いて。」って子供がお願いしていたら、こう大人は教えるべきかもしれないな。 「それは理論的に正しいよ。でも、神さんは1個のお願いだって叶えてくれないよ。」ってね。 人生と言うのはね、うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。 うまくいかなくったって、アガキ、モガキ、苦しみながら、覚悟を決めてやっていくしかないものだよ。 それでもね、人間は生きていること自体に意味があるんだよ。 神さんが、お願いを聞いてくれないなんてことは、クソクラエだ。 、、、ってね。 でも、大阪の子どもだったら、こう言い返すだろうな。 「どうせ、お願いが叶わへんのやったら、神さんに、いっぱいお願いしといてもいいやん。万が一ということもあるんやし。どうせ、お願いするのってタダやねんで。タダ。お母ちゃんも、タダ大好きやって言うてたわ。おっちゃんかて、タダ好きやろ。」 「うん、そうだね。それが1番に論理的かもね。」 大阪じゃ、気楽に行くのが1番のようであります。 「ねえ、ねえ、マスター。そうだよね。神社にお願い事なんてさ、気楽に頼むのが1番だよね。ねえ、聞いてる?マスター。」 「聞いてますよ。」 珍しく、返事が返ってきた。 カウンターの女性をみると、まだレバーの串を食べている。 何ぼほどレバーが好きやねん。 僕はレバーが苦手だ。 特に焼いたり煮たりすると、レバー独特の臭みが出て、僕はあれを嗅いだだけで吐きそうになる。 好きとか嫌いというのじゃなくて、体質的に合わない。 それにしても、これだけレバーを食べる女性は珍しい。 そんなに元気になりたいのか。 或いは、「あたし貧血なの。」なんてね、それで食べているとか。 でも見た目はしっかりとした体格だ。 女性なら女性らしい食べ物もあるだろうに。 レバーの次がレバーで、その次もレバーなんて、オッサンか。 とはいうものの、こんな女性が増えている。 今までの枠にとらわれないでいる女性。 女性は女性らしくなんてね、それは余計なお世話だ。 「ガッツ!」 ビックリしたよ。 レバーばかり食べていると思ったら、ガッツと気合をいれたじゃない。 何に対する気合なの。 やっぱり無視をしよう。 何となく危険な香りのする女性である。 「ところでさ、マスター。血管ってどう思う?」 あれ、また無視だよ。 どうして聞いてくれないの。 いや、聞いてくれてるのかな。 でも、急に血管はどうなんて聞かれても困るよね実際。 ごめんね、マスター。 僕は、人間の肉体が苦手だ。 つまりは、僕自身の肉体も、どうも苦手であり、怖い。 細胞だってね、顕微鏡で覗いたなら、エゲツナイ形をしてるものね。 僕は、自分自身の身体を想像してみることがある。 1つ1つの臓器なんか、取り出したなら、気持ち悪いよ。 ゴミ箱へ捨ててしまいたくなる。 そんでもって、血管だ。 心臓を中心に血管が身体のいたるところに張り巡らされている。 想像したら、気持ち悪くて貧血になりそうだ。 と言ったけれど、それは大袈裟な話じゃない。 中学生の時に、十二指腸潰瘍になった僕は、治療の為に大きな注射をすることになった。 その時の看護婦さんが、慎重だったのだろうか、あまりにもゆっくりと薬液を注入するものだから、腕に刺さった注射針を見ていた僕は貧血状態になってしまった。 慌てた先生は、「カンフル!」と大声で叫んだこともあったのです。 実に、アカンタレである。 今でも、テレビで手術の映像などが流れると、僕はじっとうつむいている。 そして、奥さんに聞くのである。 「もう、終わった?」 この「もう、終わった?」を2、3回やって、終わったのを確認してから、またテレビを見るのである。 そんな僕なので、今でも注射というものが怖い。 なのだけれど、尿酸値や、コレステロール、中性脂肪などが多い僕は2か月に1回は検査の為に注射をしなきゃいけない。 大きい病院だから、採血専門の人が注射をしてくれるので、幾分かは大丈夫なのだけれど、やっぱり注射をするときは横を向いてしまう。 これがね、女子大生とかがね、サラサラロングヘアーをかき上げながら悪戯っぽい上目遣いで 「はい、大丈夫でちゅかー。痛い痛いしませんからねー。」 なんて、何故か赤ちゃん言葉で言いながら注射してくれたら随分と気が楽になるのになあと念願する。 アルコール消毒する時もね。 「あ、先生。冷たーい。」なんて僕も言っちゃうわけ。 「これはね、アルコールなんでちゅよ。ばい菌さん、いなくなれー。」 なんて付き合ってくれる。 「先生、注射怖いから、手握っててー。」 「困ったちゃんでしゅねー。手を握ってたら注射できまちぇんよー。」 なんてね。 「きゃー。」 バンバンバン。あ、またカウンターをバンバンしちゃったよ。ごめんねマスター。 「えっ、何?それよりバブバブ言いながら親指をチューチュー吸ってたって。それにおしぼりを、よだれ掛けのように首にぶら下げて、赤ちゃんの演技をしてたって。えーっ、恥ずかしいなあ。何?結構演技上手かったの。それは余計に恥ずかしいよ。」 でも、そんな採血がいいなあ。 そしたら先生が言うかもね。 「あー。良かった。私初めての注射やったから、怖かってん。」 「えー。初めての注射?」 、、、、、ヘナヘナヘナ。 そんな僕は、注射も、自分の身体も、そして血管も怖い。 怖いのだけれど、世界中で唯一「美しい血管だなあ。」と思う血管がある。 そう、みゆきさんの血管だ。 ただ、みゆきさんの血管も、熱唱している時の首の血管は、恐ろしく怖い。 みゆきさんはね、実は、首の骨が一本多いんだよね。 それだから、細く長いんだよ、首がさ。 美しいよね。 その白く長く美しい首に、熱唱すると、血管が浮き上がるんだ。 もし、あの血管に少しでも傷がついたなら、みゆきさんは一体どうなっちゃうんだろう。 もしも何かの拍子で先の尖ったものが倒れてきて、そう舞台の横に立てかけてあった板とかにね、何故か子犬が走ってきて板にぶつかって倒しちゃうわけ、そして、たまたまその板に釘が1本何故か抜き忘れていてさ、その釘の先がみゆきさんの首の血管に当たったら、どうなるんだろう。 多分、血がピューっと出ちゃうよ。 そんなことをDVDの映像を見ながら想像すると、気が変になってしまう。 というより、そんなことを考えると貧血になりそうだ。 「ちょっと、大丈夫?」 女性の声が聞こえる。 シマッタ。 血がピューを想像して貧血を起こして椅子から落ちて失神していたよ。 それにしても、レバーの女性が声を掛けてくれている。 これは困った。 どうしたらいいのか。 仕方なく「ばぶー。」なんて、レバーの女性に甘えてみた。 するとレバーの女は、僕をお姫様抱っこしてカウンターの椅子に戻してくれた。 なんという怪力。 やっぱりレバーの力なのか。 そして、僕に言った。 「ガッツ!頑張って。」 ありがとう。 でも、何を頑張るの? そうだ、みゆきさんの血管の話だった。 「みゆきさん、お願いです。どうぞ、首筋の血管を大切にしてください。首に鎖帷子とか巻いたり、鉄板で出来たトックリとか着て、舞台に立ってください。」 もしも、僕のメッセージが届くのであれば、そうお願いしよう。 そして、「みゆきさんの美しい血管」である。 僕は偶然DVDを見ていて、ときめいた。 「花の色はうつりにけりな」の1シーンである。 お祭りの恰好をしたみゆきさんが、ほんとは可愛い性格なんだけれど、下町のちょっとイキのいい女性を演じている。 あれは何ていうのかなお祭りに着る衣装の腕の部分をまくり上げている、その腕の関節の内側の血管が見える。 腕の真ん中に、プクリンと膨らんだ血管。 美しいと同時に可愛い。 こんな美しい血管は見たことが無い。 これは、ただ単にそこにプクリンと存在していても、意味がないのである。 この血管はね、細く長く、白く柔らかな腕じゃないと、こんなにも美しくそこに存在できるものじゃないんだ。 血管が、その腕を、そして持ち主を選ぶのである。 もし、太く黒い腕の真ん中に、プクリンとしたものがあったら、どうですか。 「巨大な蚊に刺されたん?」と聞いてしまうだろう。 或いは、イボと間違えるか。 僕は、このDVDを見る時は、いつもみゆきさんのこの血管のプクリンを見てしまう。 そしてウットリとする。 そんでもって、思うのです。 あのプクリンを、人差し指でもって、チョンチョンと押してみたい。 さすがにギューッとは無理だ。 やっぱり怖いもの。 そこで、チョンチョンである。 チョンチョンで、みゆきさんの美しい血管と、柔らかな肌を感じてみたい。 、、、みゆきさんの肌。 「きゃー。」 人差し指の先だけでいいから、みゆきさんの肌を感じてみたいなあ。 なんて、完全に変態である。 僕が自然な思考を展開すると、どうも世間で言う変態的思考になってしまう。 ということは、僕は根っからの変態? 「変態ー。止まれ。」なんてね、ダジャレ。 とまあ、そんなことは置いときまして、みゆきさんの場合はね、血管も、そして身体全体も、何かすごく透明感があって、さらさらしていて、キラキラしていて、すごく素敵だと思う。 「きゃー。」という声が聞こえたかと思うと。 バシーン! ものすごい衝撃と痛みを頬に感じた。 レバーの女が僕を思いっきりぶっ叩いたのである。 「なに人の腕の血管をチョンチョンしているのよ。」 えっ、レバーの女の血管をチョンチョンしてた? シマッタ!!! 妄想と現実が解らなくなっていたよ。 それにしても、わざわざ席を立って、レバーの女の所まで行って、腕を取ってチョンチョンしたのを気が付かないなんて、僕の妄想もそうとうなレベルなのだろうか。 「ごめんなさい。ちょっと妄想がヒドクて、、、。本当にごめんなさい。」 「こちらこそ、ごめんね。暴力をふるって。あたし言葉より先に手がでちゃうんです。あ、これハンカチ。鼻から血が出ちゃってる。」 そういえば、鼻から血が流れて僕の口に入って鉄臭い味がする。 それに何となく顎がカクカクする。 座った状態でこんなに叩けるなんて、何という怪力。 僕は静かにハンカチで血を拭った。 「あの、あなた、、、中島みゆきさんのファンなんですか?」 レバーの女が聞いた。 「いや、ファンじゃないんです。ただ好きなんです。」 そう、僕はファンじゃない。 1人の男として、みゆきさんに恋をしている。 「ふーん。みゆきさんが好きな人には、やっぱり変わった人が多いですね。」 「変わった人、、、。そうなのかなあ。みゆきさんが好きな人は、変わってる?」 「そうそう、思い入れのヒドイひとが多いですよ。」 「まあ、B型の僕には、変わった人というのは褒め言葉なので、嬉しいですけど。」 「はは。やっぱり変わってる。」 この変わってると言う言葉は、僕は結婚するまでは良い意味で使っていた。 奥さんから、服や料理の感想を求められた時に、「変わってる。」と言っていたのですが、最近になって、この変わってるがB型以外の人には褒め言葉じゃないことだと知った。 「変わっているってどういうことなん?」 といつも奥さんは疑問に思っていたそうです。 でも、奥さんの友人にB型の人がいて、その話になったときに、友人のB型も「そうそう、変わってるは、褒め言葉よ。」と言われて、奥さんも納得がいったそうです。 僕が何かを褒めようと思ったら、まあ、ちょっと良いなと思った時は、「いいね。」というだろう。 「いいね。」よりも良い場合は、「めっちゃ、いいやん。」というだろう。 そして、「めっちゃ、いいやん。」より上の場合は、「スゴイやん。」というだろう。 そしてそして、もっと良い場合は、「最高やん。」というだろう。 そんでもって、それよりももっと上の場合に「変わってるね。」というのである。 つまりは、僕にとって「変わってるね。」は、最上級の褒め言葉である。 だから、レバーの女に「変わってる。」と言われても、それはうれしいのであります。 「みゆきさんの曲は、何が好き?」 レバーが聞いた。 「いや、僕は、音楽は解らない。だからどの曲って言われても、、、。みゆきさんが作って歌ってるっていうだけで、どれも全部好きだなあ。」 「みゆきさんが好きなのに、曲は解らないなんて人、初めて見た。普通のみゆきさんファンだったら、みゆきさんの歌について熱く語りたい人ばっかりだよ。はは。やっぱり変わってるね。」 「ありがとう。」 「じゃ、みゆきさんの何が好きなの?」 「それも解らないけど、、、しいて言うなら、見た目かな。それか声とか、喋り方とか。なんだろう、理由はないけど好きなんだ。」 「ふーん。そうなんだ。」 「あ、見た目っていうとね、コンサートなんかで歌った後とかね、間奏の時とかにね、ポーズを決めてくれるんだ。あれが好きだなあ。」 「ポーズを決めるの?」 「そうなんだ。僕が好きなのは、歌ったあとや、歌の途中で、キメ顔や、キメポーズをしてくれるところなんだ。これが、どうにも可愛いんだよね。」 しかし、しかしなのです。 僕は、今まで、これはキメのポーズだと思っていたのです。 静止しているキメのポーズ。 でも、実際のコンサートのみゆきさんを見て、キメの動きだと、気が付いたのです。 これは大発見だよ。 ポーズを決めているのじゃなくて、ゆっくりとした動きのある動作の、そのすべての瞬間が決まっているのです。 無数の静止したキメのポーズの連続。 詰まり、動きの一瞬の切り取り。 動かないダンス。 動かないバレエ。 動かない歌舞伎。 そんな感じ。 形や動きには、誰が見ても、美しいと本能的に感じる形や動きがある。 体の形や、重心の位置、腕の角度や、そんな誰がみても美しいと思う黄金比のフォルム。 激しい動きの中にも、一瞬止まるキメの形。 長い伝統の中で、練りに練り上げられた、究極の形。 スターと呼ばれる人は、そんな黄金比の形を、常に意識しているはずだ。 みゆきさんのキメポーズは、そんな見えていない動きの中の一瞬を切り取って舞台で見せてくれているのだと思う。 それがみゆきさんのキメポーズなのです。 それは動きだから、いろんな場所や角度にむけて、そのキメた形を見せることが出来る。 だから、みゆきさんには、客席の1階席でも2階席でも、右端の席でも左端の席でも、どの位置で見ても、その美しさに魅了されるのである。 こんなすごい人、ダンス界にも、バレエ界にも、歌舞伎界にも、いない。 とはいうものの、僕は、そんな美しいみゆきさんも素敵だけれど、向かい合って、見つめ合って、そんなうつくしい形なんてどうでもいい、人の目を無視したみゆきさんが見たいのであります。 ご飯を食べている時に、おかずをこぼしたりね。 テレビを見て、無邪気に笑ってるところとかね。 或いは、怒っているときでもいいや。 そんな、完璧じゃない、不完全な、みゆきさんをね、それも独り占めして見たいのであります。 それが夢だ。 「あの。大丈夫ですか。」 レバーが聞いた。 「何かすごく熱弁を振るってたけど、1人で笑ったり、泣いたり、それに歌舞伎のマネしたりバレリーナになったり、怖いぐらい動き回ってましたけど。」 シマッタ!!! また妄想が始まったのか。 「あ、そんなに動いてた?ゴメン、また妄想してたみたい。」 「いや、いいですよ。それで、もう終わりました?みゆきさんのキメのポーズの話。」 「いや、まだ終わってないんだ。」 僕の奥さんはね、フィギアスケートの高橋大輔さんが好きなんだ。ちょっと話ずれるけどね、まあ僕も好きだなあ。何故かって言うとさ、高橋選手には、「ダンス心」があるんだよね。持って生まれた天性のセンス。あのステップは、本当に最高だね。 それでさ、奥さんは高橋君だけれど、僕が1番好きなのは、カート・ブラウニングさんというカナダの選手なんだ。 オリンピックではメダルは取れなかったものの、世界選手権では4回優勝している実力のある選手で、今は振付をしたりアイスショーに出たりしてるんだ。 それで、何が好きかって、カッコいいんです。 自分の身体1つで、観客を魅せるという、その術を知っている。 つまり「ダンス心」があるんですよね。 スケートの会場と言うのは、真ん中に氷の張ったステージがあり、大概は体育館などでやるので、周りの四方が客席となる。 それでもって、その内1面にカメラなどが設置されて、他の3面にお客さんが座って見ることになる。 カートブラウニングさんのステージは、そのどこの面から見ても、カッコイイのです。 カートブラウニングさんが、そのスケート会場の空間、前後左右、そして上下、すべてを体の感覚で把握している。 そして、その空間でどういう動きをすれば、どういう風に見えるのか、それを感覚で解っているに違いないんだ。 それじゃなきゃ出来ない、パフォーマンスを見せてくれるのです。 だから、例えば演じているスケートの途中で、ストップしてもね、その1瞬の形は、たとえどこから見ても、完璧にキマッテいる。 みゆきさんのポーズもね、これと同じなんだ。 カートブラウニングさんは、スケート会場と言う広い舞台で演じる。 みゆきさんは、コンサートという狭い舞台であるけれども、それは同じなんですね。 コンサート会場の空間の全部の方向を体で把握して、そんでもって、そこでダンス心のある動きを見せてくれる。 そして、普通の人が見たら動いていない様に見えるところの、動きの1瞬のキメポーズを見せてくれるんだけれど。 だから、普通の人が見たら、静止したポーズなんだけれどさ。 でも、見る人がみたら、完璧な動きのダンスなんだ。 みゆきさんも、空間を前後左右や上下の全方向に把握している。 そして、その空間のすべてを感じながら表現している。 全方向から見られていることを意識しているんだ。 だからね、ステージの上のみゆきさんを見るのにさ、ただ前からだけ見てカッコイイんじゃなくて、ステージの右横から見てもカッコイイし、左横から見てもカッコイイし、たとえ後ろから見てもカッコイイ。 頭のてっぺんからね、みゆきさんを見ても完璧な形でキマッテいて、カッコイイに違いないんだよね。 そんでもって、下からね、足の下からみゆきさんを見上げてもカッコイイ。 スカートの裾の下からね、みゆきさんをチラリ。 「キャー、エッチ。」 でも、どこから見てもカッコイイことは間違いないのでございます。 こんな歌手はまずいない。 「きゃー。」という叫び声。 そして、バシーン、バシーン! 連続して頬に激痛が走る。 今度は連続ビンタだ。 「あ、ごめんなさい。また手が出ちゃった。でも、スカートの中を覗くんだもん。」 「あー。そんなことをしちゃった?本当にごめんなさい。また妄想に入ってたんだ。」 「はあ。妄想ね。まあ妄想もいいけど、そのみゆきさんのキメのポーズの話、もうその辺で止めといてもらってもいいかな。ずっと同じ事言ってるよ。」 「えっ?同じ話やった?そうかなあ、2回目はスケートの話も盛り込んだし、、、そうなの、大筋は同じこと話してたって?そうなんや。」 「そう同じ話。って、それより鼻血拭いた方がいいよ。白のカッターシャツ真っ赤やし。痛い?ごめんね。」 「いや、僕の方が悪いんやし。それに何や頭がフラフラして、気持ちええわ。」 「それちょっと危ないんちゃう。もう帰った方がいいよ。」 そうかもしれないと思って席を立った。 帰りの京阪電車までは酔っ払ってるのか、軽い脳震盪なのか、千鳥足で歩いて帰った。 奥さんに、血で真っ赤なカッターシャツの言い訳を考えなくてはならない。 =================================== 次の水曜日である。 またお店に立ち寄った。 最近は、週に1回行くことが癖のようになっている。 ドアを開けるとテーブルに妄想癖の女と男の子、そしてレバーの女が座っている。 何か異様な雰囲気だ。 僕はカウンターに座る。 座ったはいいけれども、どうも後ろのテーブルが気になる。 とはいうものの、僕はテーブルの人たちとは何の関係もない。 勿論、カウンターで話をしたことはあるけれども、このお店ですべて完結している関係だ。 なのだけれど、まったく知らない間柄ということでもない。 僕はマスターに聞いた。 「あの3人、どうなっているんですか。」 「いや、私もずっと見てたわけじゃないんでね。始めは男の子がテーブルに座ってたんですよ。たぶん彼女と待ち合わせだったんだと思うんです。そこへ、ほらレバーの好きなお客さんが来てね、男の子のテーブルに座ったんです。どうしてなんだか、男の子が気に入ったのかな。そしたらそこへ妄想をよくされている彼女が現れて、それから大変なことになってるみたいなのよ。」 怖い。 これは怖い。 もうテーブルの方は見ないようにしよう。 「マスター。怖いね。」 「ええ、私も見ないようにしていますよ。」 「マスター、少しお腹減ってるから、オムライス作ってくれる?」 マスターの作るオムライスは美味い。 たまにオムライスが食べたくなる時があるんだよね。 でも、急にオムライスが食べたいって思っても、そんなにオムライス屋さんって多くないんだ。 オムライスっていう料理は、日本中のどこの学生街の喫茶店にも、必ずそのお店の人気メニューとして存在する。 なのだけれど、僕が勤めている本町の近くには意外と少ないのであります。 とはいうものの、少ないのであって、あることはある。 しかも、オムライスの専門店というちょっとお洒落なお店の形態でね。 なのだけれど、そういうお店は若い女の子御用達のお店であることが多く、僕のような中年の男性が1人で入るのにはちょっと勇気がいるのだ。 「あのね、僕はオムライスが食べたくて、このお店に入ったんですよ。そんな、若い女の子が目当てで入ったんじゃなんですよ。一応ね、一応念のために断っておきますがね。」なんてことを口には出さないけれど、若い女の子なんて関心ないよなんて態度でワザと振る舞わなきゃいけない気がして、どうも疲れるのであります。 それに、この若い世代をターゲットにしてオムライスの専門店というのが、また要らないことをするのであります。 オムライスにハンバーグを乗っけたり、エビフライを乗っけたりと、何かを乗っけるのが大好きなお店が多い。 お世話なことにホワイトソースなんてものを掛けて出す店もある。 オムライスというものは、ハムや鶏肉を玉ねぎと炒めて、そこにご飯を加えてケチャップをたっぷり入れて更に炒めた物を、薄く焼いた玉子で巻いたものであります。 それでいい。 ただ、それだけでいいのであります。 余計なことはしなくていい。 白いお皿に形よく乗っけられたオムライスの真ん中あたりにトロッとケチャップを帯状に掛けた姿は、大人でも、子供でも嬉しくなるものです。 僕は、これを食するときは、まずケチャップをスプーンの腹を使ってオムライスの背中全体に伸ばす。 そして、ややはしたない食べ方ではあるが、スプーンを縦に持って、オムライスの背中を4カ所ほど縦に突き刺し、その平行した溝に直角にウスターソースを1往復させるのです。 そうすると、その溝からソースが中のケチャップライスに浸み込んで、ちょっと嬉しいアクセントになるという仕掛けである。 そして、先日、僕は急にオムライスが食べたくなった。 大阪の難波の近くにあるオムライスを提供するお店を考えてみたが、急には思い出せなかった。 ないとなると食べたくなるのがB型であります。 そしてどうにか思いついたのが、少し歩くけれど、老舗の洋食屋さんだ。 ランチのセットなどは昔から同じメニューで提供されていて、また内装を見てもテーブル席とカウンター席の、やや年代を感じる風合いが、いかにも老舗の洋食屋という感じである。 これは昔からのオムライスが食べれそうである。 料理が運ばれてくる間、カウンターから調理の様子を見ていると、お持ち帰り用のカツサンドを作っていて、これもまた美味しそうです。 これは期待できそうだ。 少し歩いて来た甲斐があったというものであります。 うきうきした気分で待っていると、恋しいオムライスが僕の目の前に給仕された。 シマッタ!!! その運ばれたオムライスを見て、心の中で叫んでしまった。 とはいうものの、食べて見たら納得がいくのかもしれないと思って、スプーンで中のケチャップライスと表面の玉子を掬って口に入れる。 「やっぱりや。やっぱり違う。」 確かに老舗のオムライスであって、美味しいといえるのかもしれない。 そのケチャップライスは、バターを利かせケチャップは控えめにして、やや薄い味のチキンライスに仕上げてあり、薄く焼いた玉子はいいのであるが、ご丁寧にその上にドミグラスソースを掛けてあるのだ。 「何やねん。こんな上品なオムライスは、オムライスちゃうねん。」 悲しさで上を向いて目を瞑ったときに気が付いた。 オムライスが無性に食べたくなる時がある。 そんな時は、ケチャップ味が食べたいということなのかもしれない。 だから、高級なオムライスでは欲求不満になるのである。 オムライスが食べたい。イコール、ケチャップ味が食べたい。 これは、僕以外の人もそうじゃないのだろうか。 「あ、それからビールね。」 マスターに注文をする。 そして、運ばれてきたオムライスは、僕好みのケチャップ味の濃いオムライスだ。 オムライスと言えばさ、最近は薄焼き玉子で包んでるんじゃなくて、わざわざオムレツを半熟で作ってケチャップライスの上に乗せてパカッと割ってふわふわとろとろの玉子のオムライスに仕上げるのも流行っているけれども、あれもダメだね。 まあ、1番最初に考えてやった人は尊敬するよ。 何でも1番というのはエライ。 1番というのは、それはお店のオリジナルということだからね。 でも、それ以外のふわふわとろとろのオムライスを出しているお店は、もうちょっと考えてほしな。 さっきも言ったようにオムライスを食べた時はケチャップ味のライスが食べたい訳だ。 でも、とろとろの玉子にするとだね、スプーンでオムライスを掬ったときに、食べたいケチャップ味のライスに玉子が混ざって、気の抜けたケチャップ味になってしまうではないですか。 マイルドなケチャップ味。 そんなのは、中途半端でオムライスとしての意味がない。 「ねえ、マスター。マスターのオムライスは最高だよ。うん。」 「ありがとう。」 そんなことを考えている間にも後ろのカウンターから3人の声が聞こえてくる。 「あたしの彼を取らないで。はっぱふみふみ。」 これは現実なのか妄想なのか。 でも、妄想癖の女は真剣である。 「あたしの彼って言うけど、彼ってあなたの所有物なの?」 レバーの女である。 「ねえ、あなた彼女の所有物なの?奴隷なの?」 男の子に攻め寄る。 見ると男の子の鼻から血が流れていた。 いつのまに、誰が。 妄想癖の女なのか、いや鼻血が出るくらいぶっ叩けるのはレバーしかいない。 「ねえ、あなた彼は人間じゃないの?それともあなたの所有物?人間が人間を所有してもいいの?彼には人格はないの?」 「あたしの彼氏、、、。はっぱふみふみ。」 泣きそうな妄想癖が少し可哀想に見えた。 「じゃ、彼はあなたの所有物じゃなくて、ただ単に食事をしたりするだけの、婚約とかしたわけじゃない、今、ちょっと仮にお付き合いしている人ってことよね。」 レバーが容赦なく続ける。 「お付き合いしているんだもん、、、、。はっぱふみふみ。」 「でも、彼は人間で、人格を持っていて、自由もあるよね。」 「自由、、、ある、、、。はっぱふみふみ。」 どうもレバーが優勢のようである。 男の子を見ると、鼻血を拭きもせず、背筋を伸ばして目を瞑っている。 一体君はどっちの味方なんだ。 それに妄想癖とは付き合ってるのかい。 目の前で繰り広げられる女の争いに、目を瞑ることでしかこの場をやり過ごせないのは、彼の若さでは仕方がないのかもしれない。 彼がここでどちらかを選べば話は終わるのだ。 或いは、彼はどちらをも選びたくはないのかもしれない。 自分の気持ちはどこかに置き去りにされて、ただ関係のない人たちが自分の事で争っている。 しかし、考えてみれば幸せじゃないか。 僕なら、両方を選んじゃうね。 いやいや、それは怖い。 両方を選ぶのは普通の女性の場合に限られる。 この2人は危なすぎる。 原爆級に怖い。 原爆と言ったら思い出すことがある。 「えっ?無理やりのフリだって?だって思い出したら、それ言わないとさ、ストレスになるものね。ねえ、マスター喋ってもいいでしょ。ねえ。」 無視だ。 でも、きっとマスターは聞いてくれるものね。 それはさ、僕がみゆきさんのコンサートツアーに広島に行った時のことなんだ。 広島平和記念資料館に行ったんだよね。 途中、バラの花が咲いていたね。 当時の町には恐ろしいほどの放射性物質があっただろうに、これほどの復旧を見せた広島。 あの時の死の灰はどこへ行ったんだろう。 まだ、この地面の下に眠っているのだろうか。 そんなことは知らないとバラの花は気持ちよさそうに日向ぼっこしていたよ。 資料館の受付に行くと、入場料が50円だという。 出来るだけ多くの人に知ってほしいという願いがここでも感じられる。 中に入ると、修学旅行だろうか小学生の団体でごった返していた。 外国の観光客も沢山いて、原爆について関心があるようで、興味深そうに見学をしていたね。 そこで、初めて知ったことがある。 広島の市長は、核実験をするという行為に対して、その国の首相に毎回抗議文を送っているそうなんだ。 その数は、その年は2012年だったかな、その年の1月で599通だって。 そんなに核実験をしているんですね。 記念館の中に作られたドームの壁面は抗議文でできていてさ、あれは圧巻だったよ。 これは素晴らしいことだと思う。 唯一の被爆国の日本であるから出来ることだ。 これからも続けていくべきことだと思う。 ただ、ここで僕は思うことがある。 唯一の被爆国だと言ったけれど、被爆国イコール被害国という意味に取ってる人が多いのではないだろうか。 僕は、それは少し違う気もする。 確かに、原爆によって多大な被害を受けた。 でも、今回は日本が被害を受けたけれども、もしアメリカと日本が逆だったら、日本は原爆を落とさなかっただろうかと考えるんだ。 ひょっとしたら、日本も原爆を持っていたら、その時に使用していたかもしれないと思う。 被害国も立場が変われば加害国になりうるということだ。 原爆、原爆というけれど、兵器そのものが問題なのである。 原爆は落とさなくなったかもしれなけれど、もっと怖い化学兵器や、システムを常に作り続けている。 人間がこの地球上で生きる上で、兵器を作るという事に対して、政府や政治家だけじゃなく、ぼくたちも考えて行動しなきゃいけないなと思うんだ。 そんな偉そうなこと言える僕じゃないけどさ、広島へ行ったら、そんな事を考えさせられる何かがあるんだよね。 最近は、尖閣諸島や竹島などの領有権問題で、中国や台湾、韓国などと、揉めているけれど、日本も時代遅れの政治家の口車に乗って動かされちゃダメだ。 今は、そんな政治家やテレビ評論家の意見に洗脳されて、尖閣諸島は日本のものだからチカラを行使しても守らなきゃいけないなんて思っている人が大半じゃないだろうか。 僕は弱っちい。 喧嘩は嫌いだし、人と争うなんて怖くて出来ない。 だから、そんな僕はこう思う。 日本や中国や台湾や韓国の間には、海があるよね。 そもそも一体、その海に線を引かなきゃダメですか? ここからここまでが、自分のものだって線を引くことが正解なんですか。 確かに、今までは必要だったかもしれない。 人は自分の欲を満たすために、努力をしてきたし、それによって経済発展をし、テクノロジーの発達も、想像以上にしてきた。 そして、それには線を引くことが必要だったと思う。 でも、これからの時代は、それではいけない。 相手の幸せを願うことによって、経済を発展させ、テクノロジーを発達させていかなきゃいけないのじゃないかと思う。 海だってそうだよ。 各国の漁師が仲良く同じ場所で魚を取ればいいじゃないですか。 多分、太古の昔はそうやっていたと思う。 お互いにお互いの大漁を願って魚を取っていた。 今は、石油なのか、レアアースなのかに変わっているだけの話だ。 そんなに線を引くことにこだわっていると、その内に空間にまで線を引かなきゃいけなくなるよ。 「あ、今ね、あなたがため息をついた空間ね。それ私の空間なんだけど。私の空間とらないでくれる。」なんてね。 更に進むと、空間だけじゃなくて、時間にまで線をひいちゃったりして。 「あ、今から10分後ね、2時半から30分は私の時間だから、あなたその間、消えてくれないかな。」なんてね。 そんな世界が来たら窮屈だろうね。 そんな理屈で、僕は尖閣諸島も、誰でもがパスポートもビザも必要ない、世界初めての島にすればいいと思う。 世界中のみんなが自由に集まって、友情を深め合う。 そんな世界って多分、楽しいよ。 これからのぼくたちに必要なことは、線を引くことではなくて、線を消していく努力じゃないかと思う。 日本や中国、台湾、韓国の若者が、みんな協力して友情の消しゴムでもって、線を消していきましょうよ。 そんな民意が集まって、高まってくると、必ず政治も動くと思う。 これはアジアだけじゃなくてね、世界中でそんな活動が広まればいいと思う。 線なんて消えてしまえ。 なんてね、もう最近は、妄想ばかりしてるからね、しかもさ、お口アーンとかさ、そんなフシダラな妄想ばかりだしさ、ここで真面目な話もしとかなきゃ、周りのお客さんに、お口アーんのお兄さんとか、赤ちゃんのマネするバブバブのお兄さんって思われちゃうからね。 「ねえ、どう今の話、ちょっとは真面目な話でしょ。」 マスターは、コクリと頷いた。 だけど、僕とみゆきさんとの間には線を引きたいよ。 隔てる線じゃなくて、僕とみゆきさんを繋げる線をね。 たとえ、糸電話のような弱っちい線でもいいからさ。 弱い細い糸でも、僕はめげないもんね。 だって、細い糸でも、負けないで大声で叫べばいいんだからさ。 「みゆきさーん。好きでーす。」ってね。 「えっ?大声ださないでって。あ、ごめんごめん。つい調子に乗ってみゆきさんって叫んじゃったよ。でも、今回はいい話でしょ。」 「大きな声を出すと、3人に気が付かれますよ。」 後ろのテーブルを振り返ると、3人が全員目を瞑って無言で座っていた。 怖い。 それにしても、大声を出して3人に気が付かれなくて良かったよ。 「それでさ、マスター。線といえばね、、、、えっ?また無理やりな繋がりかって?いいよね、喋って。さっきの話はいい話だっていったもん。いいよね。」 また無視だよ。 「それはさ、僕がみゆきさんのコンサートで東京へ行った時の話なんだ。」 上野の西洋美術館の前を通りかかったんだ。 どうも人間という生き物は、線を引きたがるもののようでありまして。 線を引いて、二つに分けたがる。 善と悪。 天国と地獄。 男と女。 あっちとこっち、、、、などなど。 両極端なものに、二つを区別するために、線を引いてしまう。 そんな線について考えさせられるものがあったんだ。 その西洋美術館の入り口の前の庭に、数点のロダンの彫刻が置かれている。 タダで見れるんだ、入口の前だからね。 そうタダなので、見てみることにしたんだ。 そこに「地獄の門」があった。 ダンテの神曲をモチーフに製作されたブロンズの扉だ。 ただ、制作しているうちに、神曲色は薄れていったようで、詳しいことは、僕は分らないので、ここではちょっとおいておくね。 とはいうものの、その浮彫は扉全体に地獄の様子を表現していて、美術を知らない僕でさえ、生々しいロダンの想像の地獄の世界を見るものにダイレクトに感じさせるんだ。 そして、そんな地獄の門の上に、有名な考える人が置かれている。 扉全体に描かれている地獄の模様を見ている扉の上部に置かれた「考える人」は、何を考えているのだろうね。 ただ単に地獄に堕ちる人を、悲しみでもって見ているのか、その救済方法を考えているのか。 でも、考えているだけじゃ何も始まらない。 止まったままだ。 それじゃ、僕と変わらない。 考えるだけの、見ているだけの、僕。 しかも、僕の場合は、考えているフリ。 それにしても、地獄の門なんて、名前だけで怖そうだよね。 モチーフになった神曲では、地獄の入り口として、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という銘文で有名だそうなんだね。 この門をくぐると地獄。 怖い。 そんな、怖い門を、どうして作ったんだろう。 そんなの作っちゃいやだ。 やだ、やだ。 バンバンバン。 「あ、マスターごめん。またカウンターバンバンしちゃったね。それよりさ、あの3人さ、今のカウンターバンバンに気が付いた?付いてない。良かったよ。だって怖いもん、あの3人。」 それで門だけどさ、門があれば開けてみたいというのは、どうだろう、誰でもが思うのではないだろうか。 僕は絶対に開けてみたい。 全開は、怖いけれど、ちょっとだけ隙間を開けて覗きたい。 覗き趣味、、、、ピーピング僕。 とはいうものの僕は、線を引くという事をしない。 線を引くという事はね、これは、どこまで行ったって終わらない、虚しい行為なんだ。 何かを分け隔てるつもりで引いているのかもしれないけれど、引いた瞬間に、また分け隔てなきゃいけない空間が出来上がる。 1枚の画用紙の右と左を分けるつもりでさ、真ん中で切り裂いてもね、切り裂いたその半分の画用紙にも右と左が出来上がる。 なんど切り裂いても、わけられるもんじゃない。 この門をくぐると地獄だといっても、それじゃ、この扉のこっち側は、天国かっていうと、そうでもない訳で。 門のこっち側だって、どこかで、誰かが、どこでも、誰でも、苦しんで生きている。 地獄じゃないこの世だって、戦争もある。 戦争なんて、地獄そのものじゃないか。 門でもって、線を引いたと安心しても無駄な話だ。 それにね、門の向こう側だってね、線を引いた瞬間に、地獄の中に、天国と地獄が生じるんだ。 地獄の住人にしてみれば、地獄の中に更に天国のようなところと、地獄のようなところが生まれる。 だから、線を引く行為なんて無駄な話なのである。 すべては、連続体なのであると、僕は思う。 とはいうものの、この線という行為は、人間のこころを安定させるものであるようで、色んな人が、線を引こうと無駄な苦労をしているのであります。 その線の象徴が、門であり扉である。 そして、引かれた線の向こう側が見えなければ、そこに希望や解決策があるのだと、勝手に思ってしまうのである。 こっちの世界を棚上げにしてね。 門の向こうには、素晴らしいものがあるのだと、信じたいのであります。 夏目漱石さんの「門」という題名も、友人を裏切った罪悪感に対する解決策や、本来自分が生まれてきたことの目的を得るために禅の門をたたくのだけれど、結局答えを見つけられない、そんな象徴として名づけられたと思う。 そして、その文章の中に、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」という1節があって、これはまさに僕の事ではないかと、むかしに読んだ時に思った記憶がある。 この門をくぐったところに答えがある。 そう主人公は考えたのだ。 でも、そこに答えは無い。 だって、そこに答えがある筈だと、門というもので見えない線を引いたのは、自分自身であるから。 画家の佐伯祐三さんは、日本人なんだけれど、日本人だとは感じない作風で、好きな画家だ。 その佐伯祐三さんが、「絶対売ったりしないように巌に君に頼むよ、あの二枚だけが僕の最高に自信のある作品なんだよ」と友人に頼んだ絵がある。 「扉」と「黄色いレストラン」だ。 どちらも閉ざされた扉が描かれている。 佐伯祐三さんは、その扉の向こうに何を見ていたのだろうか。 でも、彼にとって、この扉は開けっ放しではダメだったんだろうね。 開けてしまうと、希望がなくなってしまう。 やだ、やだ。 希望がなくちゃ、やだ。 そんでもって、ダンテの神曲の地獄の門だ。 この地獄の門をくぐると、すぐにでも壮絶な地獄が待ているのかと思ったら、ダンテの神曲によると、そうでもなくて。 地獄の門をくぐると、地獄の前庭とでも言うべきところがあって、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれているそうである。 ウィキペディアで知ったんだけどね。 そうそう、ウィキペディアに書かれていることを鵜呑みにしちゃだめだって、僕もそう思うけどね、結構便利だからね。 それで、地獄の前庭と言えるようなところの事を知ったとたん、笑ってしまった。 何とも、曖昧な門である。 地獄の門を入ると、何となく地獄的な、地獄じゃないような的なところにでる。 この曖昧な場所なら、少しぐらい居られそうだ。 というか、今まさに僕が暮らしている世界そのものじゃないか。 僕は、もう既にその門をくぐっているのだろうか。 「南無阿弥陀仏。チーン。」 上野恩寵公園の、大空の下の開けっぴろげな空間に置かれた地獄の門は、その向こうに地獄の世界が広がっているという風には、東京にいるという浮かれた気分の僕には、思えなかったが、タダで、こんなに想像で遊ばせてもらって、得をした気分になって、上野駅に歩いて行ったのを今でも思い出すよ。 そして、歩きながら思った。 「みゆきさんの門」があるのなら、絶対に開けてみたい。 開けて何をするというのでもない。 ただ、みゆきさんが、そこにいてさ。 ただ、それだけでいい。 そんな、門があるのなら、たとえ爆弾で門を破壊しても入りたいよー。 「ドカーン。」ってね。 爆死。 でも、みゆきさんは、きっと門を開けていてくれると思うんだな。 全開に開け放たれた門にはみゆきさんが目じりを思いっきり下げた笑顔で待っていてくれる。 中に入るとまた門があるよ。 「みゆきさんのココロの門」だ。 これはいつも閉じられている。 でも、僕は開けて入っていくんだな。 するとそこには、みゆきさんが普段考えていることが、クルクルと空中を回っている。 その1つを捕まえて僕は中を見る。 「えーーーっ。そんなことを考えているの?みゆきさんってエッチ!それで、そうして、、、それをああやって、うん、こうしちゃう訳。みゆきさん、それって世間で言う変態ってことだよ。えっ?そんでもって、それを垂らしちゃう訳。うん、解った。僕にもしてもらうよ。でも、痛くしないでね。」なんてことを普段は考えているのかもしれない。 それか、「へえ、あの芸能人が嫌いなの。」とかさ、「それ言っちゃダメだよ。」なんてね。 そんなみゆきさんのココロの中が見れるんだ。 「みゆきさんの好きな人」なんてのがクルクル回ってたら、それを捕まえて思いっきり足で踏んづけちゃうよ。だって、そんなの知りたくないもんね。 だけどね、だけど。 みゆきさんのココロの中はね、そんな下世話なものは回っていないんだよ。 みゆきさんのココロの中には清らかな天使が回っていてね。 みゆきさんはその中で、とろけるような笑顔で座っているんだ。 そんでもって、ときどき「天かす抜きのたぬきうどん」を食べるんだね。 いやだあ。 もう僕のココロまでトロンと溶けちゃうよ。 「ねえ、マスター。今の話どうだった?聞いてなかったって?まあ、それはそれでいいけどね。」 やけに静かな後ろのテーブルを振り返ってみると、無言で3人とも僕を見ていた。 背筋に走る震え。 怖い。 怖いよお。 何を見ているんだろう。 いや、それは僕を見ている。 じゃ、何故。 3人とも無表情なのが気になる。 男の子だけでも何かの情報を発信して欲しかったよ。 ただ、もう怖いから後ろを見ないでおこう。 「ねえ、マスター。もう1杯ビールください。」 ビールと言えばね、ビールを飲むとオシッコに行きたくなるよね。 でも、僕はオシッコが苦手なんだ。 特に、男性トイレのオシッコがダメなんだ。 男性はさ、ほら立ってオシッコするでしょ。 でさ、混んでると後ろに並ぶわけ。 そうなったら、もうダメなんだ。 後ろに人が並んだらさ、早くしなきゃいけないと思うじゃない。 でも、思えば思うほど、出ないんだ。 それでなくても、普通でも出ないんだよね。 それが後ろに人が立たれると、緊張して更にでなくなる。 こっちは出そうと必死なんだよね。 でも、あんまり出ないで立っていると、後ろの人が怒るんじゃないかって思ってさ。 いかにもオシッコしましたよって感じの演技をしてね、本当は出てないんだけど出た振りをして一旦、トイレを出るんだ。 そんでもって、またトイレに入る。 なんでだろうね。 なんでオシッコでないんだろうね。 「ねえ、マスター。どう思う。」 それはそうだよね、人のオシッコは知らないよね。 でもさ、オシッコって言えばね、僕は、みゆきさんはオシッコしないと思うんだ。 オシッコだけじゃない、ウンコさんもオナラもしないよ、きっと。 だって、あんなに可愛いんだもの。 しないに決まってる。 もうね、オシッコもウンコさんもしないでも、ずっと清らかなんだ、みゆきさんはね。 そんな風に神様が作ったんだよ。 あ、マスターは知らないかもしれないけど、僕はウンコって呼び捨てにしないんだ。 だって、汚い感じするでしょ。 でも、ウンコさんって「さん」を付けると、何となく僕と対等な感じになるもんね。 あ、でも、みゆきさんのウンコさんだったら、もっと敬意を表して、ウンコ様か。 いや、みゆきさんは可愛いからウンコちゃん。 それもどうかなあ、何かのキャラクターみたいだ。 そんなことは、置いといて、みゆきさんはウンコさんをしないよね。 「そう思わない。ねえ、マスター。」 そらそうだよね、それはそうだ。 みゆきさんも人間だからね、オシッコもウンコさんもする。 それは僕も理屈は解るんだ。 だからさ、前に僕は想像したことがある。 僕はみゆきさんが大好きだ。 だから、僕はみゆきさんの為だったら何でも出来る。 そう思うんだ。 そんでもってね、この前もさ、みゆきさんのウンコさんに頬ずりが出来るかって想像したんだ。 みゆきさんのウンコさんだよ。 きっと、ピンク色でさ、バラの香りなんかするんだね。 そう、それは解っているよ。 みゆきさんも人間だ。 バラの香りのウンコさんなんかしない。 細かいことが気になるんだねマスターは。 それでさ、実際のみゆきさんのウンコさんを想像してさ。 手の上に乗せる訳。 ほんのり温かいよ。 みゆきさんは、実際は人間だから、少しはクサイかもしれないな。 それでそのウンコさんの乗った手をほっぺたのあたりまでもってくるよ。 クサイかもしれない。 で、そのみゆきさんの実際のウンコさんに頬ずりするんだ。 あくまでも想像だよ。 僕の頬とみゆきさんのウンコさんの距離3センチ。 クサイ。 確かにクサイ。 でも、愛があれば、これぐらい何ともないはずだ。 僕の頬とみゆきさんのウンコさんの距離1センチ。 「はははは、、、、。みゆきさんが好きだ。ウンコさんが近くに、あはははは、、、。」 しっとりと、そして温かいウンコさん。 本当に好きなんです。 本当に。 で、結果はどうだったと思う。 そうなんだ。 無理だったんだ。 僕はみゆきさんのウンコさんに頬ずりをすることは出来なかった。 想像ですら出来なかったんだ。 なんて情けない男なんだって泣いたよ。 大声でね。 僕はみゆきさんが大好きだって言っているのに、みゆきさんのウンコさんに頬ずりもすることのできないダメな男なんだ。 今思い出しても悔しいよ。 「うえーん。うえっ、うえっ、うえっ。」 シマッタ!!! 感極まって大声で泣いてしまったよ。 僕の後ろのテーブルから、「泣いてるよ。」というレバーの声が聞こえた。 「うえーん。はっぱふみふみ。」 泣いているというのは、 僕の事を言っているのか、妄想の女のことなのか。 バシーン!誰かをぶっ叩く音。 どうなっているんだ、後ろのテーブルは。 でも、見ないのが賢明だ。 「それより、マスター。ごめんね。どうも大声を出して泣いちゃったみたいだね。えっ、泣くことより、ウンコさんの連呼はお店ではやめて欲しいって。それはそうだね。ごめんねマスター。でも、僕って情けない男だよね。頬ずりできなかったのは愛が足らなかったのかな。ねえ、マスター。」 「ウンコさんに頬ずりするような男は、みゆきさんも好きじゃないと思いますよ。」 「そうだよね。そうだ。頬ずりしなくて正解だったんだ。良かったよ、マスターに気づかせてもらって。ありがとうマスター。」 「いえ、どういたしまして。」 無表情だが、ウンコさんの話は嫌いじゃないようだ。 「でもさあ。負け惜しみじゃないけどさ、オナラだったら嗅げると思うよ。みゆきさんのオナラだったら吸えるね。100パー吸える。ビニール袋かなにかに、みゆきさんにプーってやってもらってさ、それをいつも持ち歩く訳だ。そして公園かどこかの空気の良いところでベンチに腰かけてね、ビニール袋に鼻をつけてさ、一気に吸うんだね。少し気が遠くなるかもしれないよ。でも、それは想像だけれど、出来る気がする。どうマスター。それぐらい僕はみゆきさんが好きなんだ。ちょっとは見直した?」 マスターは、ただ首を振るだけだ。 そうだよね、オナラを吸うっていうのも、考えれば変態だよね。 勿論、想像だけの話なんだけれどね。 そうだ、今日はこれ以上この店にいるのは、どうも危険だ。 後ろの3人に声を掛けられる前に店をでよう。 そろそろ帰るとするかな。 ドアを開けると、空に星は見えなかった。 ただ雨が降り出す前の湿った空気が僕の首にまとわりついてきたが、それでも少し気温が下がってきたのか、それも嫌なものではなかった。 あの3人は、これからどうなるんだろうね。 まあ、考えるのはやめよう。 京阪電車の長椅子で、みゆきさんの「もっぷでやんす」(小学館文庫)の絵本を1枚1枚めくりながら「はろー」なんてその文章の1つ1つを僕だけが聞こえるぐらいの小さな声で読み上げていった。 みゆきさんの「もっぷでやんす」は、どうしようもなく疲れた時やツライ時に読むと何故かその疲れやツライ気持ちが、みゆきさんの優しさが解いてくれて開放してくれる。 知らない間に涙があふれて、鼻水もあふれて、口からも何かの液体があふれていた。 「あのオッチャン、口と鼻と目から、変なもん出してるよ。」という子供の声。 「しっ。声出したらアカン。もうオッチャン見たらアカンで。変なオッチャンやから何されるか判らへんで。」と子供をたしなめる母親の声。 そんな声が聞こえてきたが、僕は気にしない。 今、僕は猛烈に癒されているのだ。 ダラダラダラ、、、。 やや、流れた液体で首回りが気持ち悪いが気分は最高だ。 みゆきさん、大好きでーす。 モーレツにシアワセだ。 ============================================ 次の週も、3人の事が気になったこともあり、バーの扉を開けた。 するとテーブルに、妄想癖の女とレバーの女が楽しそうに話をしながら座っていた。 あれほど揉めていたのに、今日は顔を近くに寄せ合って恋人のように話をしている。 女性の気持ちとは難しいものである。 カウンターに座ると、ややあって、鼻血を出していた男の子が僕の隣に座った。 「この前は大変だったね。」 「ええ、どうなるかと思いました。それに、あの時、僕の周りで何が起きているのか解らなかったし。2人とも相手の言う事はまったく聞かずに、自分のことだけ喋り続けてたんで。」 「そうなんだ。僕はてっきり君を取り合ってるのかと思ったよ。だって、君はあなたの所有物なの?なんて大声で攻め寄ってたもの。」 「いえ、あれは彼女の一般論を僕に当てはめて喋ってただけのようです。」 「でも、妄想癖のある彼女も『あたしの彼を取らないで。』なんて叫んでたじゃない。」 「ああ、あれは彼女の妄想というか宇宙人との交信らしいです。」 「じゃ、あなたの鼻血はどうなったの。」 「それが不明なんですよ。気が付いたら2人に殴られてました。」 「えっ。2人?」 「ええ、1発目は体格のいい女の人で、もう1発は妄想の人です。」 「そりゃ、災難だったね。意味もなく2人に殴られるなんて。」 「ほんとですよ。」 「でも、今あのテーブルで2人とも楽しそうに話をしてるじゃない。」 「そうなんです。あれから取っ組み合いの喧嘩をしたんですが、その時にお互いに求めているものが同じだってことに気が付いたらしいんです。」 「求めているものって?」 「女の幸せらしいです。」 「女の幸せねえ。女の幸せって何なの。」 「それは僕も聞きたいんですけれど、あの2人からは聞きたくないんで、僕への興味がなくなったのを見計らって、逃げてきたんです。」 「で、ここにいる。」 「ええ、あれから2人どうなるのかなって、気になって。でもそれは傍観者としてなんですけれど。」 「はは。その傍観者としてっというのは、よく解るよ。」 「マスター。2人から逃れられた記念に乾杯するからビール2杯ね。」 彼は京都市内にある仏教系の大学の3回生だそうだ。 たまたま友人と飲みに来たのがこの店で、その後気に入って数回来ている間に妄想癖の女につかまったというのである。 「でも、遠くから見てると、君と妄想癖の女と仲良さそうに笑ってたよ。」 「ええ、彼女が急に宇宙人と交信し始めるので、それを見ると笑いが止まらなくなっちゃったんですよ。それに彼女、見た目は可愛いですもんね。」 「うん、見た目は可愛いのにね。」 僕と彼は共通の話題で、大いにビールの杯を空けた。 「へえ、そうなんですか。みゆきさんが好きなんですか。」 「そうなんだよ。ステージの歌手のみゆきさんも好きだけど、本当は素顔のみゆきさんが好きなんだと思うんだ。みゆきさんの寝顔なんて、死ぬまでで1回でいいから見たいんだよね。きっとすっごく美しいと思うんだ。髪も梳ってさ。サラサラと少し開いた窓からの風にそよぐんだね。寝る時も寝返りなんてしないよ。真っ直ぐ上をむいてさ、手は胸の上で指を組んでるんだ。寝顔も柔らかな笑顔をたたえてさ。それが月の明かりで青白く光ってるんだ。」 「あの。それって死人じゃないですか。青白くて真っ直ぐ上を向いて手を胸で組むんでしょ。」 「そんでもってさ。僕はそのあまりの神々しさに、みゆきさんの顔に向けて合掌をするんだ。」 「だから、それって死人ですって。」 「死人じゃないよ。観音様だ。そうみゆきさんは観音様なんだ。」 「観音様ですか。」 「するとお経をあげようと思っても不自然じゃない。僕は躊躇なく唱えるね。南無阿弥陀仏ってね。」 「あの、それって観音様じゃなくって阿弥陀さんになってますけど。」 「なるほど、君は仏教系の大学に行ってるから詳しいね。すると、どこからともなく白檀のいい香りが漂ってくるんだ。」 「だから、それは線香の香りですって。やっぱり死人になってますよ。」 「そんなみゆきさんの寝顔って、それは美の極限だと思うんだな。でも、僕は不安になる。どうしてだか解るか。」 「いえ、死人だからですか。」 「うん、正解だ。」 「えっ、正解なんですか。」 「あまりに静かに寝ているからね。僕は心配になってみゆきさんを観察するね。すると気が付いてしまうんだ、みゆきさんは死んでいる。それを生き返らせることができるのは、僕のキッスだけだ。」 「やっぱり死人にしましたか。」 「そんでもって、僕はみゆきさんにキッスをするんだね。みゆきさんがこう、あれ、こうかな、寝てるでしょ。そんでもって僕は横からチューをするんだね、いや、横からだったら唇と唇が十文字になって、これはダメだ。もっとちゃんとチューするにはみゆきさんと平行になってさ、こうかな、いやこうだ。チューってね。」 「もう、止めてくださいよ。僕ですよ、僕ですから。みゆきさんじゃありませんよ。」 シマッタ!!! また妄想で学生君をみゆきさんと間違えてチューしそうになっていたよ。 「ごめんね、妄想してしまっていたようだよ。それにしても、僕はいったいみゆきさんとチューできるのかね。」 「さあ、それは知りませんよ。」 そうだよね。 でも、僕はいつかみゆきさんとチューできるって信じてるんだよ。 チューってね。 「だから、僕ですって。みゆきさんじゃありませんって。」 また、妄想か。 だんだんヒドクなっているのかな。 でも、これぐらいが正常の範囲だろうな。 「それで、君は大学では何を専攻しているの。」 「社会学をやっているんです。それで日本人らしさっていうことについて、今は研究しているんです。」 「日本人らしいか。」 「でも、最近行き詰ってて、本当に日本人らしいって言葉で括れるものが日本人にあるのかなって思うようになってきているんです。ただ日本人らしくっていう言葉を使うことが世間で生活するのに便利だから、人それぞれの曖昧な感覚で日本人らしくって言葉を使ってるんじゃないかと思うんです。」 「そうか、それは良いところまで来ているね。僕は先日テレビを見てたんだけれどね、その日本人らしくって言う言葉を考えさせられる番組があったんだ。」 それは、休みの朝に、何気なくテレビを見ていると、街をぶらぶらと歩くという関西で放送している番組の中で、居合を教えているという方が紹介されていた時の話だ。 何でも、日本人らしさということを聞かれて答えに窮したことから居合道を始めたそうだ。 素晴らしい。 日本人らしいということは、どういうことなのかという自分自身への問いの答えが居合道に至ったという、こういう思考の経路をたどれる人は素晴らしいと思う。 その素晴らしいには、少しばかりの皮肉も入っているんだけれど、実際にそういう考え方が出来たら楽だろうなとは、これは本当に思う。 生まれながらになのか、環境のせいなのか、子供のころから天邪鬼の僕には、そんなことは考えつかない。 だってさ、居合道だよ。 そもそも居合道には刀が必要な訳で、刀というものが出来る前の日本人は、始めから無視されてる。 それに、刀を携帯できる人というのは、武士という、これまた1部の人であるわけで、農民や商人という大多数の人を、これまた無視をしているのである。 それにそれに、居合道という抜刀術から発したものは、意外にも武道の中でも少数派なんじゃないだろうかと、これは素人考えだけれど思うのであります。 ただ、この場合の居合道はこの際横に置いといて、日本人らしさということは、何なんだろうという問いは、僕もこの時に自分自身に問われたようで、考えてしまう。 日本人らしいということは、まず日本人という人種の概ね皆が持っている考え方や性質を、象徴的に多数決的に表した言葉なりイメージなり、行動の元になる考え方であるということになるだろうと思うのですが。 じゃ、日本人って何かというと、さあ困ってしまう。 北海道から沖縄までの地理的な物差しで考えると、これはイメージだけれど、今は東京も北海道も沖縄も同じような文化になってしまったけれど、もともとは、北海道や沖縄は少し文化が違うように思う。 それに昔むかしは、それぞれの土地でそれぞれの人々が暮らしていたわけで、それを権力の欲しい人たちが、どんどん自分の領地だと言って縄張りを広げていったわけで、その広げられることの出来た範囲が日本ということになる、ということも言えるのじゃないだろうか。 その点、日本は島国で分かりやすい。 日本が大陸にあったら、その境界線で、あと100メートルは日本だよとか、いやいや日本はそこより50メーター後ろだなんてさ、いつも境界線を決めなきゃいけない。 窮屈だし、もめ事が多くなりそうだ。 だから境界線なんて引くことは止めた方が良い。 線を引くことで利益を得る時代は終わりにして、線を消すことでお互いに利益を得ることのできる新しい世界が出来て欲しいなと思う。 新しい価値観の世界。 そんでもって、そんな話もこの前マスターにしゃべったから、少し横に置いといて、日本人らしさだ。 日本人らしさと言うと、勤勉実直、真面目、細やかなことが得意、控えめなんていう言葉が思い浮かぶ。 そんなイメージを皆が持っていると思う。 そして、僕もそういえばそうだなあと思う。 それが日本人らしさなんだろう。 とはいうものの、「らしさ」という言葉が嫌いなんだよね。 ちょっと脱線するけどね。 そこには、こうでなくちゃいけない、こうあらねばいけない、という無言の圧力を含んでいるから。 男らしさ、女らしさ、学生らしさ、子供らしさ、そして日本人らしさ。 何かの型にはめようとする誰とは分らないコミュニティーの表にはあらわれない複数の視線。 窮屈だ。 それにさ、日本人らしさって時代とともに変わるものね。 縄文時代の日本人らしさ。 平安時代の日本人らしさ。 江戸時代の日本人らしさ。 明治時代の日本人らしさ。 そして、令和の日本人らしさ。 「らしさ」というからには、どちらかというと日常では、良い性質のものを指すと思う。 日本人の他の外国に比べて誇れるもの。 昔は、勤勉で真面目だったかもしれないけれど、今の日本はそうでもない気がする。 だったら、誇れるものも変わっているかもしれない。 誇れるもの。 オタク文化。 これは世界の先端を行っている。 アニメ、アイドル、漫画。 もう10年もしたら、こんなことが日本人らしいということになるのかもしれないね。 お母さんから、「あんた、日本人やったらアニメ見やなアカンやろ。」なんて、叱られたりね。 外国人から「どうして日本人やのにAKBのメンバーの名前言えないの。シンジラレナーイ。」なんて言われる時代がくるのかもしれない。 それはそれで、また「らしい」を意識しなくちゃいけない窮屈な時代でもあるのかもしれないね。 「らしい」は、つらいよね。 だからね、日本人らしいということを考えるんじゃなくて、「らしい」という言葉を、日本語から無くすことを考えなきゃ。 日本人だから、それだけでいい。 まあ、日本人である必要もないのだけれど。 ついでに言うと、僕が昔から嫌いなことば「自分らしく」。 これって、どういうことなの。 またまた横道に行っちゃうけどね。 自分自身が一体何なのかを解っている人っているのだろうか。 誰も自分の性格も、何をしたいのかも、これからどうやって生きて行くのかも分らないよね。 なのに、何も解らない自分らしくなんて、どうらしくなの。 僕らしくっていってもね、考えてみるとさ。 だらしなくて、 意気地が無くて、 卑怯で、 優柔不断で、 怠け者で、、、、。 そんな僕なのです。 だから「自分らしく生きればいいんだよ。」なんて言われても、 「もう、そんな風に生きてるちゅーねん。」と叫びたくなる。 泣きたくなるよ。 「自分らしく」でなくても、ただ「自分」であるだけでいい。 そういう風にしか生きられないものね。 ただ、生きていれば、それで自分らしくなのであります。 ということで、話がフラフラで夢遊病のようになっちゃったけれど、これが僕らしいんですよね。 かなり脱線しちゃったけれど、日本人らしくっていうのはね、縄文時代の昔にはそんなことは考えられなかったし、その後もどんどん、ふらふらと変わっていってるんだよ。だからそれぞれの時代の日本人らしさを検証したら、面白いかもしれないね。」 「そうですよね。僕の思ってた部分もそこなんです。日本人らしくって言っても一筋縄じゃいけないんですよね。それよりもひょっとしたら縄文時代にその日本人らしさの原型が隠れてるかもしれないですね。縄文土器のように力強くて奔放で、それが日本人らしさ。」 「うん、意外と今とは正反対なものかもしれないね。」 「あ、そうだ、マスター。テレビ番組っていったらね。えっ?また無理やりなこじ付けの話かって?いや、そうかもしれないけど、しゃべりたいんだ。ねえ、学生君、君も聞きたいだろう?」 「ええ、まあ聞きたいような、、、。」 「それはまたテレビを見てた時の話なんだ。」 朝、何気なくテレビを点けると「散骨」についての特集をやっていた。 死んだ後に、散骨をしてほしいと考えている人が増えているらしい。 君は、どう思うかな。 どうもね、僕は、やめてほしいと思うのよね。 そんな散骨なんて、焼いた後の骨をどこに撒くのですか。 番組では海に撒いていました。 いい迷惑だよね。 焼いた骨を砕いて粉にして東京湾に撒いていた。 でも、その骨の粉を撒いたところには、お魚さんだっているんだよね。 そのお魚さんが死んだ人の骨の混ざっている海の水で泳いでいる。 「ママ、今日の海水は、ちょっと粉っぽいね。」なんてさ、何も知らない子供の魚が泳いでいる。 そんな魚を漁師が取って来てさ、魚河岸に並ぶわけ。 「やっぱり、江戸前の魚は違うね。」なんて、高級な寿司屋で食べている魚の、何パーセントかは、人の骨の海で泳いでいた魚かもしれない。 そんな寿司は食べたくないね。 陸に撒いたってさ。 その粉が風で飛んでくる。 「ハックション。」 花粉症じゃなくて、骨粉症。 また新しいアレルギー性鼻炎が増えちゃう。 というよりもね。 まずは、人間死んだら、後のことは生きている人に任せちゃわなきゃいけない。 そういうものだ。 大勢の人を呼んで派手な葬式をするのも構わないし、小さな家族葬でも構わない。 あとは頼んだよって、現世の事は、生きている人に丸投げして、先へ進まなきゃ。 あとのことは、現世でまだ生きている人が、これからまだ生きていくのに都合のいいようにすればいい。 死んだ後まで、どうしてほしい、ああしてほしい。 なんてさ、どうも死んでまでも人間のエゴを他人に押し付けるべきでない。 そう思うのであります。 死んだら後の人に丸投げすればいいという理屈で言うなら、散骨でも構わないのだけれど、どうも撒く場所によっては嫌な人もいる訳で、その辺のところを考えてやってほしい。 だから散骨は、広大な私有地を持っている人がやる葬式。 その前に、散骨をしたいという人が増えているというのは、お墓の存在が昔ほど重要でなくなってきたということでもあるのかもしれない。 占いをする人や、宗教家に聞くと、お墓というものの重要性を説いてくれそうだ。 でも、実際にお墓を建てている人と、お墓の無い人を比べて、その後の幸せ度を統計をとって調べてみたいですね。 幸せ度というのも、これは意味のない度合いなんだけれどもさ。 それにね、お墓が必要なら、いずれこの地球上の土地はお墓だらけになってしまって、住む場所がなくなっちゃうよ。 僕の家の宗旨は浄土真宗なんですよね。 いつの時代からかは知らないけれども、親の親ぐらいからはそうだ。 その浄土真宗では、お墓というのは教義から言うと要らないものなんだ。 死んだら、すぐに阿弥陀様に掬い取られて救われるからね。 これは、ある意味素晴らしい教えだなあと思う。 とはいうものの、僕は別に浄土真宗をすすめている訳じゃない。 親鸞さんは、好きなんだけれどもね、人間として面白いから。 とはいうものの、京都の有名な浄土真宗のお寺なんかに行ったら、その裏に広い墓地が広がっていたりする。 そんな風景を見ると、僕は苦笑してしまう。 「坊さんも、生計をたてたり、お寺を維持して行くのは、大変なんだなあ。」ってね。 そんな影響もあるのか知らないけれど、僕もお墓は要らないと思う。 それじゃ、どうするか。 いいアイデアが浮かんだ。 ゴミの日だ。 僕が死んだら、ごみの日に捨ててくれればいい。 そう奥さんに言ったら、 「そんなん、ゴミの人が迷惑やん。」 そうだね。 それもそうだ。 それに、焼いた骨は、燃えるゴミなのか、どうなのか、焼いちゃってるから迷っちゃう。 だったら、こうすればいい。 「骨の日。」 この日は、骨をビニール袋に入れて玄関先に出しておくんですね。 そしたら、骨の人が回収に回ってくれる。 うん、これはいいな。 これですべて解決であります。 とはいうものの、死んだ後のことでありますからね、それも後に残った人に任せましょうか。 、、、、ん? 僕には子供がいなかったよ。 じゃ、誰が骨の日に出してくれるんだろう。 まあ、それも残った人に丸投げしちゃおうね。 「そんな風に思うんだね。お墓なんていらないよね。」 「そういう人増えていると思います。現実的な問題として、年金も出るかどうか解らないのにお墓の資金のことなんか考えるの若い人には無理ですよ。」 「そうだ、またこじ付けって言われるけどさ、みゆきさんの骨って、きっと可愛いんだろうな。ねえ、マスターそう思わない?学生君はどうだ?」 「はあ。みゆきさんの骨ですか。」 「そう、みゆきさんの骨だ。それはみゆきさんの『中島みゆき雛まつり』っていう映画を見に行った時に気が付いたことなんだ。」 それは夜会2/2とライブの1部の曲をセットにした特別編の映画版なのですが、そして両方ともDVDを持ってるんだけれども、やっぱり行ってしまうんですね。 だって、映画館の大画面でみゆきさんの顔が見れるのですものね。 イオンの映画館で、前の方の席で、みゆきさんを独り占めをして、見入った。 やっぱり可愛い。 そして、素敵だ。 そして、最上級の褒め言葉、「美しい」。 いや、僕の最上級の褒め言葉で言うと、「みゆきさん、変わっている。」 映画の中身は、他の人に任せるとして、このの公演で得たこと。 音楽評論家の田家秀樹さんによる解説がついているのだけれど、そして始めはそんなものいらないと思っていたのだけれど。 それは今もそう思っているのだけれど。 でも、この2/2を撮るのに22台のカメラを駆使して撮影をしたということを話しておられたことを知ったのは、大きな収穫だった。 22台のカメラってすごい数ですよね。 みゆきさんの上からも下からも、キャーエッチ。 また、下からのキャーエッチを言っちゃったね。 好きなもんでね、ごめんね。 いや、そういう意味ではありませんが、右からも左からも、前からも後ろからもカメラでみゆきさんを捉えているということだ。 今、書いただけでも6台のカメラがあったら、事足りる。 でも、22台だものね。 色んな角度からみゆきさんを撮影している。 ここまで力説してきてこんなことを言うのもなんだけど、カメラが22台ということで話を進めているのですが、多分22台だったと思う。 間違ってたら、ごめんなさい。 1回聞いただけだし、それにみゆきさんの映像じゃなかったから、気を抜いていた。 だから22台じゃなかったら話が変なことになるのですが、それでも沢山のカメラで撮っているということには間違いがない。 普通、22台のカメラで撮影されていると思うと、どう動けばいいか、この今の立っている角度は、これでいいのかとか、色んなことを考えなくちゃいけない。 僕だったら、精神がどうにかなってしまうだろう。 それをさ、みゆきさんは、易々とやってのけてしまう。 全身だけでなく、髪の先まで、そして体の周りの空間まで、自分のものにしているから出来る技なのかもしれない。 或いは、何の気も掛けずに自然体でいるのかもしれない。 その自然体が、美しさそのものということだ。 そういえば、僕はみゆきさんの頭蓋骨が可愛いということを言ったことがある。 頭蓋骨が美しいから、頭蓋骨の構造が完璧であるから、その上にどんな化粧をしても、美しいし、化粧の仕方の数だけ美しいみゆきさんが出来上がる。 でも、美しいのは頭蓋骨だけではなかったのだ。 体の骨の全部の構造が美しいのだ。 なので、その骨をどんな角度で組み合わせても、それは美しい姿が完成してしまうことは、これは正しく正解と言うものだ。 つまりは、「みゆきさんの骸骨は美しい」ということだ。 なので、どんなに自然体でステージに立っても、その瞬間瞬間が完璧な形に骨が組み合わされて、その上に筋肉と脂肪が覆って、完璧な肉体の形が出来上がる。 そう発見したら、鈴木清順さん監督の映画を思い出した。 僕が学生の当時にやっていて、印象に残っている作品。 「ツィゴイネルワイゼン」 これは大好きな内田百閒さんの「サラサーテの盤」を元にしている映画だ。 その中で、原田芳雄さん演じる中砂が、芸者の役の大谷直子を抱いた後に言う大谷直子のセリフ。 「あなた、あたしの骨が好きなんでしょ。あたしの骨を焼いたら透き通った桜の花びらみたいな骨が取れると思ってるんでしょ。解るわ、骨をしゃぶるみたいな抱き方だもの。」 「強い綺麗な骨してるよ、お前さんの」なんていうセリフも言っていたな。 内田百閒さんの随筆の中に、この言葉が存在するのかどうか確かめてはいない。 或いは、脚本の田中洋三さんの書いたものかもしれない。 ただ、内田百閒さんも、田中洋三さんも、骨の魅力に取りつかれていたのではないかと推測をしたくなる。 僕も、このセリフが今になって、僕にとって意味のあるセリフとなった気がする。 そして、みゆきさんの骨だ。 みゆきさんの骨も、さぞかし美しいだろう。 もし焼いたら、綺麗な透き通った桜の花びらみたいな骨が取れるんじゃないかな。 1本欲しいよ。 とはいうものの、みゆきさんの骨は美しいけれども、みゆきさんに骨になって欲しくはない。 その周りの筋肉も脂肪も、僕にとっては、まだまだ必要なのであります。 生きているみゆきさんが、いいものね。 「ねえ、マスター。みゆきさんの骨はピンク色かな、やっぱり。」 どうも、最近はマスターも無視が多い。 「みゆきさんの骨欲しいよね。学生君さ。」 「いえ、僕はみゆきさんのファンじゃないんで、骨貰っても困ります。」 「そうなんや。でも、小指の骨だったらさ、耳の後ろ痒い時にコチョコチョって掻いたりさ、歯におかずが挟まったときに爪楊枝みたいにシーハーシーハーなんて出来るんだよ。」 「いや、骨でシーハーは嫌です。」 そんなものかねえ。 僕には宝物のように思えるんだけどなあ。 「そうなんだなあ。みゆきさん、みゆきさんって熱病のように取りつかれてるけれどさ、どうも他の人と見ている部分が違うんだよね。みゆきさんのどこがいいのかって尋ねられても、どうにも返事に困るんだ。何故か意味もなく、好きで好きなんだものね。僕がみゆきさんが好きだって言うと、私も好きだって人がいるんだけれどさ、あの歌のどの歌詞がどうだとか、ああだとか、熱弁をふるってくれるんだけれど、僕にはそんなのどうでもいいんだ。 この前もさ、奥さんがね、みゆきさんの歌の歌詞を見て、あ、僕の奥さんはサザンオールスターズのファンなんだけどね、あの歌詞は、桑田さんは書かないとかね、どちらかというと批判的なことをいう訳、あ、あれってさ、ヤキモチなのかな、僕とみゆきさんに対するヤキモチなのかな、ねえ、学生君どう思う。」 「いや、僕は奥さんのこと知らないし、僕とみゆきさんっておっしゃってられるけど、まだ僕とみゆきさんは何の接点もないんでしょ。だから、『と』っていう使い方も変じゃないかなって思うんですけど、、、。」 「あ、学生君はキツイことをいうんだね。まあ、それはいいけど。やっぱり『と』はアカンかな、ねえ、『と』って言ったらアカンかな。『と』っていいたいねんけどなあ。ねえ、学生君、アカンかなあ。」 「いや、アカンかなあって言われても。そんなに使いたかったら使ったらいいんじゃないですか。」 「そうか、良かった。『と』っていう許可貰ったからな、これから使うで、『と』。ほんでな、うちの奥さんや、みゆきさんの歌詞の言葉の使い方について語るんやけど、僕は聞き流してるんや。僕はね、みゆきさんを尊敬してる訳じゃない。勿論、尊敬するに値する女性ではあるよ。歌が好きな訳でもない。ただ、みゆきさんが歌ってるから好きなだけだ。それに、歌詞だって完全じゃなくてもいい。だって、歌手のみゆきさんでもないし、作家のみゆきさんでもないし、スターのみゆきさんでもない、ただのみゆきさんが好きなんだもの。だから、たとえ、みゆきさんが間違ったことを言っても、下手な歌を歌っても、詰まんない曲を作っても、僕はどうでもいい。それについて考えることは僕にとって無意味なんだ。ただ、みゆきさんがそこにいてくれればいい。そして、その『そこ』が僕の近くであればあるほど、いいんだ。」 「はあ。そうなんですか。それは良かったですね。」 「それは良かったですねって、学生君、他人事みたいに、あ、もう話飽きてきた?」 「いえ、でも。私ももう帰る時間なので、、、。」 「そうか、残念やな。また、一緒に飲もうや。」 「はあ。お願いします。」 彼が出て行くドアを見る。 大丈夫かな、彼。 何か疲れてたみたいだけど。 でも、まあ僕との楽しい会話で少しは気が晴れたんじゃないかな。 次に会った時は、もっとみゆきさんの話をして疲れを癒してあげよう。 うん、それがいい。 「マスター、実はね、僕は、実際のみゆきさんを、そうだなあ、3メートルぐらいの距離で見たことがあるんだよ。」 「へえ、そうなんですか。3メートルって近いですね。」 「そうなんだ。あれは『夜会工場』を見に行った時の事なんだ。」 夜会工場の2時間の夢の時間もあっという間に終わってしまったと感慨に浸っていた時のことだ。 それでもやっぱり立ち去りがたく会場の周りをうろうろしていたのです。 その時に、ある言葉を思い出した。 それは入場を待っている時に後ろの人が話していた言葉。 「出待ち」 その部分だけが耳に残っていた。 そうだ、どうせ何処へ行くあてもない。 会場をぐるっと半周すると、通用口らしきところに若い人が10人ぐらいだろうか立っている。 僕も並んで待つことにした。 昨日は10時15分だったとか、そいう話が聞こえてくる。 そうか昨日も来れば良かった。 30分ぐらい待っていると、係りの人が、タクシーの後ろのトランクに小さなボストンバッグと何か不明なものを積んでいる。 荷物は意外と少ない。 すると通用口に小柄な女性が表れた。 遠くからでも分る、みゆきさんだ。 ハンチングを丸くしたような帽子、あれは何ていう帽子なんだろうか僕は名前を知らないけれど、そんな帽子を被ったみゆきさんが表れて、入り口で挨拶をしているようだ。 急に胸が高鳴る。 そしてタクシーに乗り込むと、ゆっくりと僕の待っている出口に近づいて右折すると、ちょうど僕の目の前にみゆきさんのタクシーが通る。 半分開いたタクシーの窓には、帽子を被って、分厚い眼鏡を掛けたみゆきさんが笑顔で座っていた。 そして白い指先が暗いタクシーの窓から振られているのが見えた。 たぶんあれはメイクを落とした素顔だったと思う。 そしてその距離3メーターぐらいだろうか。 こんなに近い距離で、しかも素顔のみゆきさんを見られるなんて、思ってもみなかったので、何も声を掛けることもできずに、呆然と立ち尽くしていた。 もう、これは言葉にもできない感動だ。 みゆきさんが行ってしまったあとも、しばらく胸が打ち震えていた。 近くで見る素顔のみゆきさんは、舞台のみゆきさんから想像も出来ないぐらい地味な感じで、小柄で、ずっとそばにいたいと思うような存在だ。 あんなに迫力のある歌を歌って、素敵な曲を作る人だなんて思えないぐらいか弱い感じである。 そうなんだよね。 僕がみゆきさんに惹かれるのは、そんな部分なのかもしれない。 化粧を落としたみゆきさん。 素顔のみゆきさんだ。 それは、優しくて、柔らかで、清楚で、ある時は、か弱い。 僕はどういうわけか、幸薄き女性に惹かれる部分を持っている。 美人なのだけれど、運が少しばかり悪いのか、何故かうまくいかない。 今まで生きてきて、そんなに上手くはいかなかったことで、より思慮深く、遠慮がちに生きてしまう。 誰かが助けてあげないと、今にも崩れてしまいそうだ。 抱きしめると力なく、安心したような表情になる。 でも、みゆきさんは幸が薄い訳でないし、運が悪いわけでもない。 でも、そんな控えめなところを持っていると思う。 でも、みゆきさんはの素顔は、それだけじゃない。 またある時は、利発であり、活発であり、明るく開放的だ。 素敵な曲を作って、自ら歌う。 夜会などの創作も積極的だし、力強い。 ラジオの声は明るくて、皆のココロを開かせる。 疲れた時に聞くみゆきさんの声は、どんなドリンク剤よりも効くんだよね。 そんなみゆきさんの笑顔は、人を幸せにして、元気にしてくれる。 すべての人を幸せに出来る人。 でも、みゆきさんの素顔は、それだけじゃない。 人を包み込むやさしさを持っているんだ。 サテンのように優しく、ベルベットのように柔らかい。 そんなみゆきさんに包まれたなら、どんな傷を負った人でも、1瞬にして癒されてしまう。 あたかもマリアさまのようである。 それは、体の傷だけでなく、人の心に浸み込んだ古い傷までもが氷解させてしまう。 僕がマリアさまに祈るのは、マリア様の愛に抱きしめられたいからだ。 そして、今はみゆきさんに抱きしめられたい。 みゆきさんの、柔らかい感触、うっとりとするような香り、眠ってしまいそうな温かさ。 僕がみゆきさんに抱きしめられたなら、今までに負った過去の古傷と、今現在の生活の苦しみと、そして、今までに得た過去の楽しみと、今現在の生活の希望と、そんなものすべて、良いことも悪いことも、全部ひっくるめてドブに捨ててしまって、あたらしい僕となって再び生まれ変わることができるだろう。 そして、みゆきさんに抱きしめられたなら、感じるみゆきさんのオッパイ。 ウシシシ、、、、。 オッパイだよ、オッパイ。 みゆきさんのオッパイって最高だよね。 「ねえ、マスター。そう思わない?」 カウンターの内側を見ると、サラサラロングヘアーの店員が僕の前に来た。 カウンターに顔を乗り出して僕を見つめる。 そして、周りの視線を気にしながら僕に囁いた。 「あのう。先日からお客様の事を見ていたんです。」 そうなんだ。 ひょっとして僕に興味があるのかな。 「そうですか、それで。あ、僕の事で何か伝えたいことでもあるのかな。」 まさか、手紙を貰ったりしてね。 手紙には携帯番号のナンバーが書かれてある。 なんてね。 「こんなこと突然言っていいのかな。」 そらそうだよね。 告白は、勇気がいるものだ。 僕は少し優しそうな表情を作って彼女に微笑んで見せた。 「あのう。これ私の友人の病院の住所と電話番号なんです。1度ご相談に行ってみたらと思って。本当に失礼だと思うんですけど。でも、私の弟も薬を貰ったら、すごく良くなって。それにすごく良い先生なんです。」 えっ、病院? メモを見ると、「中島精神クリニック」と書かれている。 精神クリニックとは、どういうことだ。 これじゃ、僕が精神病だと言っているようなものじゃないか。 失礼極まりない。 それは、僕は妄想する癖があるよ。 でも、妄想するというのは、人間として普通の行為だ。 それを精神病扱いするなんて、この女はどういう神経をしているんだろう。 「あのねえ。僕は精神病じゃないんです。そうだ。マスターを呼んでよ。マスターを。」 僕は少しばかり語気を荒げて彼女に言った。 彼女は、困ったように僕を見る。 そして言った。 「あの。この店にはマスターはいないんですけど。」 そんな馬鹿な。 マスターがいない。 じゃ、いつも僕は誰と話していたというんだ。 そういえば、今カウンターの後ろにマスターはいない。 さっきまでいたのに。 いや、あれは妄想だったのか、幻覚だったのか。 「マスターは、ずっといないの?」 僕は恐る恐る彼女に聞いた。 「はい、この店にマスターはいません。私がここの店長です。」 「マスターは、いない、、、。」 「はい、いません。」 「そうか、それは悪かったね。疑って。」 僕は、いったい誰と話していたのだろうか。 どうも腑に落ちないまま店を出た。 店を出る時に、テーブルの方を見ると、妄想癖の女もレバーの女もいない。 後ろ手にドアを閉めて表に出ると、日差しが眩しくて手で目を塞いだ。 10月だといっても、まだ日中は暑い日もある。 そんなことよりも、今は、夜じゃなかったのか。 いや、どうして、今は、昼間なんだ。 そして、僕は僕自身に呟いた。 「ボクハ、クルッテ、イルノデスカ。」 「あはは、狂っていても、いいじゃない。ほら、キャンディ食べさせてあげるから、お口アーんして。」 みゆきさんの優しい声が聞こえた気がした。
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