ジェマ

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ジェマ

 春期の一般募集とは別に、大学など高等教育機関を卒業した者を対象とした特別訓練学校は、在籍期間も一般枠の一年間とは異なり秋期から半年間である。  半年の訓練期間を終えて、無事と言うべきか否かウェスリーは訓練学校を卒業した。  間を置かずにすぐに入隊となる。訓練生という肩書を手放した新兵にとって、故郷に挨拶や報告をしに帰ることのできる猶予は精々三日間である。  その貴重な猶予期間中の或る一日、ウェスリーは生家近くにある広場の芝生の上に座り込んでいる。周辺には教会堂や庁舎が建ち並ぶ物静かな場所である。広場には他に散歩中の老夫婦や親子連れ、休憩中の役人らしき姿が見られる。  芝生の周りを囲うように植わるマグノリアの花の、馥郁(ふくいく)たる芳香が鼻をくすぐる。  随分暖かく感じる、とウェスリーは眩しそうな顔をした。リパロヴィナ中央部は西部に比べると春が来るのが早い。  彼の横には敷布の上に楚々と座す少し年長の女性の姿がある。彼女は携えてきた籐製の手提げ籠から小振りのティーポットを取り出すと、敷布の上に並べたカップに琥珀色の茶を注ぎ入れた。  ウェスリーはそれを見るともなく見ている。  女性は片方のカップを手に取ると、微笑んでウェスリーに差し出してくる。陽の光を通す彼女の瞳は淡い茶色である。 「坊ちゃん、どうぞ」 「その呼び方はもうやめてくれ。あと二日もすれば俺は軍人とやらになるんだから」  カップを受け取りながら言うウェスリーをその茶色い目で見つめて、彼女は可笑しそうに目を細めた。 「随分大きくなられましたね、何だか姿勢も良くなって」 「…正直に、偉そうになったと言えばいい」 「坊ちゃんは偉そうではなくお偉いですわ。私は坊ちゃんが小さな頃からお傍にいさせていただいて、こんなに立派になられたのを見ることができて、本当に誇らしい」 「ジェマ…」  女性の名はジェマという。ウェスリーが幼い頃から女中見習としてポーター家に勤め、今では女中頭となっている働き者だ。  ジェマが言っていることは何だか涙を誘うような背中が痒くなるような内容だが、同時にウェスリーは自分の苦情が聞き入れられていないことに軽く絶望した。  絶望しながら紅茶を含む。  訓練学校在籍期間も軍隊準拠の生活故、生家を離れていたのだが、入隊すれば愈々本格的に軍隊生活が始まり、そう頻繁に帰ってくることはできないだろう。そのことを告げると、ジェマは広場でお茶をしましょうと言ってさっさと準備をし、ここまでウェスリーを引っ張って来たのだ。  記憶が残っている最も幼い頃からずっと訪れていた広場である。ジェマに連れられて来るようになる以前は、母に伴われて来ていた。  自然と、近くにいた親子連れに目が行く。少したどたどしい足取りで芝生の上を歩いて行く幼子を後ろから母親が追っている。昔は自分もああだったのか。  ウェスリーの内心の感傷がどうやってか伝わったのであろうか、ジェマが呟く。 「…オチ州だと、少し遠くなってしまいますね」 「そうだな」 「お手紙を差し上げることはできるのでしたね」 「うん」  オチ州はリパロヴィナの最西部に位置する行政区である。帝都ストロムのある中央スルツェ特別州から汽車でたっぷり三時間分は離れている。  父の指示により、オチ第七師団の訓練学校に入校したウェスリーだが、卒業した今もなお彼はそのことを奇妙に感じている。  ウェスリーは父の提案を渋々受け入れた当初、当然生家のある中央スルツェ第一師団管轄の訓練学校に入校するものだと思っていた。  だが父はそうではなく、西部オチ第七師団の訓練学校に応募せよというのである。西部オチ州といえば、中央部に比べれば格段に魔物出現率が高く、出現する魔物の討伐難易度も高い。言わば激戦区である。  カップの茶を飲み干し敷布の上に無造作に置くと、腰の後ろの地面に手をついて上体を反らし、空を仰ぎ見る。春の穏やかな空にはぽかりぽかりと幾つか雲が浮いている。  ウェスリーは嘆息するように言った。 「…俺は死にたくない」 「坊ちゃん」  ジェマの非難めいた声が呼ぶ。彼女に向き直るでもなくウェスリーは続ける。 「父さんは俺に死んでほしいのかと思うよ」  返事は無い。 「父さんの考えていることはよく分からない。一人息子を激戦地に追いやる理由は何だ? 母親が死んで以来甘やかした息子を今になって戒めたくなったのか? 何か俺の知らない事情で俺が邪魔になったのか? 死なせるためにここまで育てて」 「坊ちゃん」  上空を見上げたままでいたウェスリーの右腕に手が添えられる。知らず語気が激しくなっていたウェスリーを宥めるようにも、安心させるために支えるようにも感じられた。 「ジェマはここにおりますよ」  その言葉に振り向いたウェスリーは彼女の穏やかな顔を見て赤面する。  初等学校生の頃までは何か嫌なことがあって泣いては、同じ言葉を掛けられてジェマに抱き締めてもらっていたものである。とは言え、この年齢になってそういう扱いを受けるのはあまりに気恥ずかしい。  顔を赤くして俯いてしまったウェスリーを見つめながら、ジェマは続けた。 「私はここにいて、いつも坊ちゃんのお帰りを待っています。坊ちゃんのお気に入りの紅茶を用意してね」  マグノリアの香りが一層強くなる。  ウェスリーは頬の火照りを感じながらまた空を見上げた。
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