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 リパロヴィナはアウレー大陸のほぼ中央に位置する、周囲を他国との国境線に囲まれた内陸国である。  その地理的特性から、リパロヴィナは歴史的に異民族や周辺国との軋轢の絶えない国であった。幸いにも魔物の出現率は他国に比べると高くはなかったため、対外戦に軍備を割くことができ、事無きを得てきた。  そして、現在より百年余り前、アウレー大陸の主要国家間で協約が結ばれる。人間の国家同士での戦争を行わないという協約である。リパロヴィナは以降、今までに無い平穏を手に入れることができる筈だった。  しかし、協約によって無くなった戦争の代わりとでも言うように、リパロヴィナでの魔物出現率は近年異常に上昇していた。  人間同士の戦争とは違い、魔物との戦闘は終わりが見えない。魔物は魔界と呼ばれる、人間の住まう物質界とは異質の時空から突如出現する。人間側から魔界へ行くことは現時点では不可能なため、根本を叩くこともできず、日々出現する魔物への対処に追われるのみである。  今や軍人達の任務は魔物討伐となっている。 「…軍に入れ?」  ウェスリーが聞き間違いかと父に問い返したのは、帝立魔法大学を卒業して数日後のことであった。  まだ肌寒い春先の夜である。平生の通り、日が暮れてからも暫く残業をしてきたのであろう、遅くに帰って来た父アリスターに、食事の後呼び止められて二人で客間兼居間に移動した。  天鵞絨(ビロード)張りの椅子に腰掛け、女中が淹れてくれた菩提樹の花の茶を口に含みながら、落ち着いて話をしようだなんて珍しい、とウェスリーが考えているところにアリスターは言ったのであった。  お前はリパロヴィナ国軍に入れ、と。  思わず先のように聞き直したウェスリーの顔を、普段と変わらない穏やかな表情で見つめてアリスターは続ける。 「お前は大学を出ているから訓練学校への入校時期は秋期で、まだ数カ月猶予期間がある。募集期間は刈草(かりくさ)の月、六月末日までだ、それまでに書類を整えておかなければいけない。志願書類は既に取り寄せてあるから」 「ちょ、ちょっと待ってくれ父さん」  ウェスリーは慌てて父の言葉を遮った。  震えそうになる手でそっと茶器を茶卓に置くと、座ったままで身を乗り出す。 「言っている意味が分からない、いや、意味は分かるんだけど、意図が分からないよ」 「ウェスリー」 「俺はまだ魔法術の勉強をしたい、って前から言ってあるじゃないか。今ゼマン教授にアーデルランドの王立魔法魔術大学に打診してもらっていて、先方に俺の卒論を読んでもらった上で大学院への入学試験を受けることができそうなんだ」  アーデルランドはリパロヴィナ西部と国境を接する大国である。リパロヴィナより魔法理論も技術も数年先を行っており、以前よりウェスリーは留学希望を抱いていた。帝立魔法大学の第六十五期生首席で卒業することができたウェスリーにとって、その希望は現実となりつつあった。 「私はそれを許可する返答をした覚えは無いよ」  上擦った声で言い募ってみせたウェスリーに対し、あくまで落ち着いた様子でアリスターは返した。ウェスリーは愕然とする。 「…何故?」  声を絞り出す。  ウェスリーには全く理解ができない。今言ったような留学希望は今迄にも幾度となく父の耳に入れてきた筈だ。その度アリスターは無言で軽く頷いていたように記憶している。反応が薄いとは感じなかった、何故なら父はいつだってそうして息子の希望を受け入れてきたからだ。  今もアリスターの表情からは何の感情も読み取れない。ウェスリーは彼の返答をじりじりしながら待つ。  アリスターは、彼の分だけはラム酒が少し加えられている菩提樹茶を一口飲むと、茶器を置いてウェスリーに向き直った。ウェスリーと同じ浅緑色の目が(ランプ)の光に透き通っている。 「お前の卒業論文は私も読んだ。良い出来だった、よく勉強したと思う。これからは国に尽くせ」 「は? 何を…」 「兎に角軍へ入ってお前の知識と技術を活かすんだ。留学はさせない」 「父さん!」  勢い余って椅子から立ち上がる。 「俺に軍に入れって正気かよ! こんな痩せっぽちの身体で軍人になんかなれるわけない! 自分で言うのもなんだけど!」  自分で言うのもなんだが、女子学生にすら呆れられるほどの痩せぎすだ。 「高等教育機関卒業者対象の特別訓練学校は一般訓練学校よりも体格規定が甘い」 「そういうことを言っているんじゃなくて…」  全身の力が抜けてくる。足の先が妙に冷えて震えが起こる。アリスターと言い争いをしたことは無い。ウェスリーは反抗なんかしたことの無い子供だったし、アリスターはウェスリーの行動を制限したことなど無かったからだ。  目が潤んでくるのを眉間に力を込めて堪えながら、ウェスリーはか細い声で言う。 「…死んでしまうよ」  アリスターは何も言わない。  ウェスリーは何故だか見捨てられたような気持ちになった。震える声で続ける。 「母さんが生きてたら何て言うか…」  がた、と音を立ててアリスターが立ち上がり、ウェスリーはびくりと身体を揺らした。アリスターの背丈はウェスリーより拳一つ分以上高い。結局父の背には追い付けなかった。ウェスリーは母親似なのだ。  アリスターはウェスリーの顔も見ずに、話を切り上げるようなことを言う。 「留学はさせない。何としても留学すると言うなら、学費や渡航費、生活費は自分で工面しろ。金銭的援助は一切しない。分かったら今日は寝ろ」 「父さん、何で」 「いずれ分かる。おやすみ」  その年の特別訓練学校生募集期間、最後の最後まで父と子は争ったが、結局はウェスリーが折れる形になった。父曰く、軍属になれば民間人より遥かに緩い制約の下で魔法を使用することが許可される、また、実践的魔術の最先端に触れることができると。そのことに魅力を感じなかったわけではないが、やはり父の指図を飲んだ最大の要因は金銭的援助無く留学はできないという事実であった。
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