第十話 金の瞳に映る者

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第十話 金の瞳に映る者

   *** 「その上で、提案と――謝ることがある」  凍えそうな寒さと澄み切った夜空の下で。  そう言って現れた巨躯は、まるで薄闇の中に立ち上った一筋の白い河のようだった。  アイシャの身長の何倍もあるであろう体長に反して、その身の厚みは彼の種族と聞いて想像されるほどではない。けれどしかし、他にこんな姿をした生物は、砂海のどこにもいないだろう。  砂の蟲、サンドワーム。あるいは、「砂海を泳ぐ龍」。 「……砂漠の精、さん?」  かろうじて、少女の細い喉はそれだけを絞り出す。  今彼女が襲う感情が恐怖なのか困惑なのか、それさえも理解できないままに。 「そうだ。俺がアサドに雇われた傭兵だっていうのは、嘘だ。俺は首都で冒険者をやっていた、元戦士だ。名前はグレゴリオ・ロイズ。今はサンドワームの体に、おそらく魂を憑依させられてる。元の体に戻る方法を探している途中でお前たちに出会って、様子を見ていた」  甲殻に覆われた体で、被さるように鎌首をもたげて。  その怪物は理知的に喋る。  ともすれば、優しさや暖かささえ感じさせる口調で。 「もしかして……この前、(さそり)と戦っていたのも?」 「俺だ。少しの間に、随分大きくなっちまったけどな」  信じられないような話ばかりで、それでもこうして目の前に言葉を話すサンドワームがいるのでは、疑いようもない。  アイシャが唖然として見上げているうちに、その瞳と視線が絡んだ。  甲殻の隙間から覗く瞳は黄色く、人のそれとは異なる鋭さを備えている。まるで夜空に輝く、お星様のように。  その瞳を見た瞬間に、どうしてか。  体の震えが止まっていた。  一歩、二歩、歩み寄る。  そしてそっと白く美しい甲殻に指先で触れた。  震えるように、砂の竜が大きな体を捩らせる。  怯えているのだろうか、と思った。だが違う、そうじゃない、と思い直す。  これまで話した『砂漠の精』は、強く、逞しく、けれど誰よりも優しくて。  たった数日だけの繋がりなのに、どこかあの親友を思い出してしまうから。  硬く、重厚で、砂に滑るなめらかな流線形。  そのすべすべとした体を、思い切って抱き締めた。  彼はまた身じろぎをした。小さくてか弱いアイシャを、気遣うように。  それがわかったから。 「不思議、ですね。……ちっとも、怖くない」 「……強いな、お前は」  そう、彼は呆れたように苦笑を漏らして。  それから満天の夜の星々に染み透るような声で、言った。 「なぁ、アイシャ。お前が『魂の憑依』の術者なんだろう?」    *** 「さぁ、義務を果たせ。『大砂海の巫女』」  遺跡の奥まった場所にある小部屋の中。  老アサドに生贄の祭壇を前にして詰め寄られながら、アイシャはふと昨晩の出来事を思い返していた。  暢気なことだと、自分でも思う。率直に言って、今にも自分は殺されかけているはずなのに。  それでも、どうしてか。  あのサンドワームのことが、砂漠の精と名乗った男のことが、忘れられない。  アサドの約束は嘘だと言われたことが、ショックだった。  カルカジャの街に残してきた友人たちのことが、気懸かりだった。  今、こうして殺されてしまおうとしていることが、恐ろしかった。  けれど、それらよりも。  何故だか、たった数日話しただけのあの声が、心に焼きついて離れない。 「禁断魔法……『魂の憑依』に対して天性の才覚を持っていたお前を連れ出したのは、今この時のためだ。聞こえるだろう、遠くであの魔神の眷属に襲われている者達の恐怖の声が。私は数年前にこの遺跡とあの眷属を発見し、以来、あれを封印するための準備を長い時間をかけて進めてきた。お前が最後の儀式を行わなければ、犠牲は増えるばかりだ。さあ、早く」  アサドは感情を見せない無表情のまま、朗々と最初から決まり切っているように淀みなく、アイシャを説得するための言葉を並べ立てる。  嘘だ、と一度言われてしまえば、確かに老人の話は何もかもがしらじらしかった。  第一、ならば何故遺跡に来るまで、仲間であるはずの一団の面々にもあの骸骨の存在を伏せていたのか。  昨晩の対話とアサドへの疑念がない交ぜになって立ち尽くすアイシャに、アサドは懐から短刀を取り出した。歪曲した鞘には青や紫の宝石が散りばめられており、見るからに上等な祭祀用の品だ。  魔法的な儀式に用いようというのだから、何がしかの魔力も込められているのだろう。 「魂の憑依を利用し、眷属の魂をお前の内に取り込み、この魔剣で突き殺す。魔神の眷属ともなれば、魂自体も強力な魔力を有する。他の誰でもなく、お前自身の手によって体内に封じ込めながらでなければ、その呪われた魂を滅することはできない。わかるな」  一方的で強引な、相手の無理解をそのまま押し通すような話術。  もしも老人を信じきったままであれば、その偽りの正しさを押し付けられ、考えることもできないままに頷いてしまっていたことだろう。  老人はアイシャの手の中に、祭祀用の短刀を握り込ませる。   「魂の扱い方は、出発前に何度も教えたはずだ。あの街の孤児たちを救って欲しいのだろう。さぁ……」 「あ、なたは……」  約束を果たすつもりが本当にあるのか。あの眷属を封じて、本当にそれでお終いなのか。  口にするべき問いはいくらでもあるはずで、けれど実際に口を突いたのは、この場にはそぐわないはずの場違いな詰問だった。 「あのサンドワームを、知っていますか?」 「……何?」  アイシャの金の瞳を覗き返すアサドに、初めて困惑の表情が浮かぶ。  老人の理解があの『砂漠の精』には及ばなかったのだとわかった瞬間、まるで呪縛が解けたかのように、アイシャの体は自由を取り戻していた。 「っぐ! ……貴様ッ!」  両手で渾身の力を込めてアサドの身体を突き飛ばし、手放し損ねた短刀だけを持って小部屋から走り出る。背後から追いかけてくるアサドの気配から必死に遠ざかり、白亜の髪を振り乱して、アイシャはがむしゃらに揺れる遺跡の中を逃げた。  やがていつの間にか、轟音がとどろく遺跡の中の、中心のような場所に辿り着いてしまっていた。  本当なら、アサドからもこの轟音からも逃げなければいけなかったのかもしれない。  けれどきっと、この音の中心に、彼がいるはずだと思ったから。  何度目かの通路を曲がった瞬間に、ふっと視界が開ける。  壁の代わりに柱が立ち並んだそこは、中庭に面した渡り廊下のようだった。  砂煙が立ち込めるそこには、濃密な禍々しい殺気が喉元にまで迫っている気がして。  いるはずの誰かを探して上げた視線に、それが映った。  傷だらけで、甲殻が割れて。血のような何かさえ流す、息も絶え絶えのサンドワームが。  何かを考えるよりも先に、声が漏れる。 「……砂漠の精、さん?」 「……よぉ、アイシャ。また会ったな」  決して大丈夫なんかじゃないはずのその声は、けれど今度も、いつものように。  自らの苦しみなどおくびにも出さず、アイシャのことだけを気遣っていた。  彼女のたった一人の、大切な親友のように。
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