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第三話 黒死の蠍と戦士の矜持
時折潜って隠れながらサラサラと砂を泳いでついていくと、少女の行く先は岩の中の袋小路になった場所だった。
どうやらこの岩窟は天井と壁の役割を果たす岩陰を、それぞれ部屋として割り振って使われているらしい。
天然の岩窟にしては少し便利すぎるような気もするので、かつてこの一団や他の隊商が拠点として掘削したものだろうか。あるいは、昔から一団が使い続けてきた旅のキャンプ地なのか。
さすがに全員に部屋があるわけではなく、ほとんどの人員は最初に見た大広間のような空間で寝起きするようだが、中心的な立ち位置にいた少女には仮の自室も与えられているらしい。
そして曲線的な岩肌の露出する小部屋で、少女は周囲に誰もいないのを確認してから。
舞踊の際の神秘的な姿からは意外なほど人間的に、深く大きなため息をこぼした。
驚いて俺は頭を砂の上に出してしまったが、どうやら背中側だったために気付かれなかったらしい。
器具を使って潜水をする際に水面から空気管を出しておくことがあるが、今の俺はあんな感じだ。
「……今日は、どうにかなった。あと……三日。それで全部、終わる」
茶褐色の層が波打つ岩肌に、煙の少ない燈火が据えられている。
地面の砂の上に布が敷かれ、その上に置かれた丸椅子に少女が座る。
呟かれるのは、どうにも不穏な印象の独り言だ。
揺らぐ燈火に照らされる少女は、しかし儀式の異様な雰囲気から解き放たれてなお。変わらず人間離れした美貌を保っていた。
歳の頃は十六、七歳といったところだろうか。
大砂海の最も美しい砂を纏ったかのように滑らかな肌が、頼りない燈火に艶めかしく浮かび上がる。
背中まで垂れる白い髪は、頭の左側で金の髪留めに束ねられ、水晶の滝を想わせた。
薄布は最低限の範囲だけを覆い、淑やかな臍、脚、豊かな胸元までもが惜しげもなく晒されていた。
薄布の端には雫状に加工された赤玉の宝石が釣り提げられている。
潤んだ瞳は黄金色に輝いていて。
まるで彼女そのものが砂と宝石の精であるかのように、蠱惑的な容姿を象っていた。
しかし。
「大丈夫。わたしは、最期までやり遂げられる。そうすれば、皆……助かるんだから」
精霊を想起させるほどに美しい少女は、陰鬱な表情で何かを呟いている。
それが明るい話題でないことだけは、何も知らない俺にも察することができた。
思わず冒険者だった頃の癖で、不安げな新人を激励する時のように声を掛けたくなってしまう。
(でも、この体でそんなことしたってなぁ)
モンスターの体になった事を、ほとんど初めて悔やむ気分になりかけていた、その時。
砂が擦れるような音が聞こえた。
(……なんだ、この音?)
それはごく小さな音で、砂に体を埋めていた俺だからこそ聴き取れるモノのようだった。
複数の棒で砂を掻く、今日狩ってきた獲物のどれとも違う砂上の気配。
その出所を探ろうと首を三度振って、「それ」を視界に捉えた瞬間、俺は思わず硬直した。
(黒死の蠍――ナイト・スコーピオン!?)
漆黒の殻を纏い、一対の鋏と鋭い尾針を持った猛毒のモンスターがそこにいた。
小さな体と夜に紛れる黒い甲殻によって、夜間に忍び寄ったナイト・スコーピオンは熟練の冒険者をも脅かす。ある意味では、成体のサンドワームと対を成す砂漠の恐怖の象徴とも言えた。
この小部屋は岩窟全体の奥深くに位置しているが、どこかに隙間でもあるのか、それとも最初から潜んでいたのか。どちらにせよ、一刺しで猛獣をも即死させるという尾毒を食らえば少女の死は免れない。
いいや、あの鋭い尾針が甲殻を貫けるとしたら、今の俺も命の保証はないだろう。
専門の鑑定師によれば、ナイト・スコーピオンの平均存在位階は5。
存在位階が必ずしも身体能力に比例するわけではないが、正面から戦っても押し負けてしまう可能性は低くない。
勝算は薄く、相手はまだこちらに気付いてはいない。
俺がただの野生のサンドワームならとっとと逃げてしまうのが正解なのだろう、だが。
(あり得ないよな、それは)
本当に絶対に勝ち目のない敵、例えば魔神やその眷属が相手なら、顔見知りですらない少女のために命を捨てたかどうかはわからない。命を預け合う仲間のために殿となった事はあっても、確実に死ぬ状況で無関係の他人を助けるというのは、まだ未経験だ。
その時にならなければ答えは出ないだろう。
けれど、今は違う。
あれはただの、倒すことのできる強敵だ。
存在位階差はたかだか2。猛毒の脅威もタネは割れている。
こちらには三十年来培ってきた戦闘経験があり、この体も既にそれなりに扱い慣れてきた。
そして少女の素性は未だわからないが、少なくとも死なせていいほどの悪人ではなさそうだ。
これで逃げるのは賢者ではなく臆病者の腰抜けで、どう間違っても戦士ではない。
そしてグレゴリオ・ロイズは例えどんな体になったとしても、魂は戦士のままだ。
どちらの選択肢を選ぶかなど、迷うまでもなかった。
「キシャアアアアアアアアッ!!」
少女の存在があったからか、無意識に口から迸ったのは獣の咆哮だった。
アロー・バッシュ。折れ曲がる胴体に溜めた力を一気に解放して跳躍する、今扱える唯一の固有技能を使い、ナイト・スコーピオンへと突進する。
漆黒の蠍はようやくこちらに気付いて振り向くが、もう遅い。
俺の牙が黒い甲殻に突き立ち……しかし、傷を負わせることはできなかった。
存在位階の恩恵が甲殻の強度を上げ、今の俺の牙では突き破れなかったのだ。
牙を除けば、俺には何の武器もない。
ではただ黙って尾針に刺し殺されるのを待つしかないのか?
それは、否だ。
(ああ、そんなことだろうと思ったよ!)
傷を負わせられないにも関わらず、俺は噛みついたまま顎を開かなかった。
さらにそのまま長い体を翻し、鞭のようにナイト・スコーピオンの体を絡め取る。
「えっ……きゃあっ!?」
少女が俺と絡みつかれる蠍に気付いて、今更のように悲鳴を上げた。
それを背景として聞き流し、俺は絡みつかせた自分の体を全力で引き絞っていく。
硬い甲殻を持つモンスターには、共通するある弱点がある。
それは関節、甲殻の継ぎ目の強度だ。
サンドワームのように甲殻の内側に柔軟性のある体を持つものは例外だが、そうでなければ甲殻系のモンスターは体を曲げられることに極端に弱い。
平たく言えば、関節技が効くのである。
ただしこんな風に悠長に関節を極めていれば、普通は猛毒の尾針で刺されておしまいだ。
だから俺は最初に飛びついた時から、尾針を強く噛んで放さなかった。
胴体を狙っても甲殻を牙で破れなければおしまいだ。
だったら、最初から敵の一番の強みを潰すことを優先する。
あとは互いの力と気合い、そして俺の関節技の技量がすべてだ。
力では負けているのだろうが、だからといって気合いと技量でまで譲ってやるつもりはない。
苦し紛れに向けられた右の鋏に腹の甲殻を切り裂かれるが、痛みを無視して締め続けた。
やがてベキリ、と惨い音を立ててナイト・スコーピオンの胴体が関節から折れ曲がり、動きが止まる。
勝負が決まるまでには数十秒といったところだろうか。
蠍ながら、なかなかに根性のある敵だった。
「モンスター同士で……? 食べるの、かな」
上から降ってきた疑問符の混じる声に、俺はハッと我に返った。
まずい、このままだと人を呼ばれて俺も退治される!
根性のある敵だ、とか余韻に浸ってる場合じゃなかった。
そさくさと砂に潜って逃げ出す直前に、少女のぽかんと呆けた顔が目に入った気がした。
そうそう、その方がいい。
いくら美人でも憂い顔なんて、似合ってもちっとも嬉しくはないんだからな。
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