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先輩夫婦が残した息子を引き取ったのはもう20年近く前になるか。先輩、と言っても同時期に制服を着ていた事はなく高校のOBであるその人と俺は10以上も歳が離れていた。密かに憧れていたが、当然のように異性愛趣向の先輩には何も言えなかった。
息子を引き取ったのは、頼れる親族は居なくそのままだと施設に入れるしかないという状況だったからと、先輩への心残りというほんの少しの下心があったからだった。けれども、まだ真新しいランドセルを背負っている子供を保護者として守り、導き、俺も駆け出しのバームクーヘン職人としての忙しい日々の中で、いつの間にか卑しい気持ちなど消え失せていた。すっかり親の気持ちになっていた。
そんな慎ましやかだか平穏な生活の中で気持ちが変わっていったのは俺だけではなく、息子もだった。親代わりとして慕ってくれているのとは違う感情を向けられていることには、薄々気づいていた。でも、それを口に出させる隙は与えない。もし彼の性傾向の問題だったとして、そうでなかったとしても、俺が相手では彼の未来に光の当たる道はない。大事に育ててきた息子だから、当然かわいい、愛しく思う、その感情を俺は間違えてはいけない。一時の気の迷いだったと気づいてくれる事を願う。先輩にそっくりな目元は今では記憶の中の彼のものよりも、目の前にいる彼のものがオリジナルだと思えるほどになっている。先輩達の心残りだろう息子、それよりも長く一緒に暮らしている俺の大事な息子。
結婚したいと思っている、と彼女を紹介された時は嬉しさと安堵と共に、物寂しさが胸に小さな穴をあけていった。巣立っていってしまう雛鳥を見守る役目を終えた、長年の目的が終わってしまった寂しさと、親子揃って俺とは何も似ていない女性を選んだんだな、という都合のいい恨めしさと。
「引き出物には父さんの作ったバームクーヘンを入れたい」と息子は言った。父さん、とは都合のいい時にだけ呼んでくる。もうこの頃には責任者にまで上り詰めていたので、店に相談すると快諾された。息子は料理の類いは不得意で、当然仕事は俺と違う道に進んでいた。
「俺、父さんのバームクーヘン、好きだったから」
「過去形かよ」
「違う、ずっと……好きだよ」
都合のいい解釈はいくらでもできるが、後が辛いだけだ。
式の後で一人の我が家に帰ると、自分の作ったバームクーヘンがやけに大きく、重く感じた。男1人でこんなの食べきれるか、そもそも俺はいらないと言ったが息子に、「俺の好きなものだから食べて」と押し付けられた。いつも俺よりも息子の方が多く食べていたぽっかり穴の空いたケーキの、その穴は先輩夫婦が俺達に残していった穴で、それは決して埋められることのできないものだったが、俺たち二人で輪を繋いでいた。かりそめのものでも、確かに家族だったのだ。誰よりも大事な、愛しいその人は。
やはり一人で食べきるのには無理があり、長い日数冷蔵庫の中に放置したままで食べられない状態になったそれを、捨てた。
「ごめん、2年ももたなかった」そう笑いながら帰ってきた息子の笑顔はやけに晴れやかで、やっとのことで決心がついたのだろう、二人とも。これでまた、ひとつのバームクーヘンを駄目にしないで済む、と自然と口元が綻んだ。
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