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あの子が姿を消してから、かれこれ30分ちかくが経つ。
私は拳を握りしめた。
彼は私に黙って出ていくような子ではない。
大人しくて、どちらかといえば私がどこに行くときも付いてくるような寂しがり屋だ。
「いったいどうしたことなんだ……?」
まさか家出か――と思ったが、すぐにその考えを否定する。
居心地が悪かったハズはない。
あの子には何不自由ない暮らしをしてほしかったから、できることは何でもしてきたつもりだ。
夜は快適に休めるようにベッドとシーツを用意した。
それも専門店で見繕ってもらった、あの子にぴったり合うものだ。
繊細で華奢な体つきだから人一倍、気を遣ってきた。
怪我をしていないか、転んでどこかをぶつけたりしていないかとチェックを欠かしたことはない。
ほんの少しでも汚れれば執拗なくらいに拭いてあげた。
生まれつき体が弱いものだから市販の石鹸やシャンプーは使えない。
ケアのためには多少は金もかかるが、そんなことはどうでもいい。
あの子は今や、私の体の一部も同然だ。
だからできることは全部してきたつもりだったのに……。
「頼む! 戻って来てくれ!」
あの子がいない私は手足をもがれたようなものだ。
足元もおぼつかないし、おまけに眩暈もしてきた。
見慣れた風景がまるで別世界のように見える。
霞みがかったような――。
心なしか世界から色も薄れてきたように思える。
「私に悪いところがあるなら直す。だからお願いだ。帰って来てくれ」
だが返事はない。
そういえばあの子は無口だった。
気配もなく、気が付けば傍にいる――そんな子だった。
「………………」
椅子に深く腰掛け、あの子に依存していたことに気付く。
そう広くない部屋なのに、彼がいないだけでとてつもない孤独感にさいなまれる。
もはや部屋の隅から反対側の壁まで満足に歩けそうにもない。
私はそれほどまでに衰弱していたのだ。
「いったい、どうすれば……」
その時、玄関扉が開く音がした。
「ただいまー」
孫娘の声だ。
「ああ、サキ。助かった。こっちに来てくれ」
玄関に向かって言う。
正直なところ、今の私には部屋の全容も明らかではない。
ただ長年住んでいるから間取りや家具の配置を覚えていて、記憶を頼りに声をかけただけだ。
「ただいま……って、どうしたの? そんな顔して」
サキが私の顔を覗きこんで――ぼんやりした輪郭が大きくなったので分かった――心配そうに言う。
「ああ、実は――」
私はこうなった経緯を説明する。
するとサキは大笑いした。
不安がる私を安心させるためだろうか。
と思ったが、そうではないようだった。
「やだなあ、おじいちゃん! まだそんな歳じゃないでしょ!」
そう言って彼女は私を指差す。
「ほら! おでこ!」
「ん…………?」
額に手をやる。
「あっ!」
固い感触があった。
つるの部分をつまみ、それをかけなおす。
途端、視界が鮮明になった。
「こんなところにあったのか……!」
恥ずかしさに顔が赤くなる。
「やめてよね、そんなマンガみたいなこと」
「返す言葉もないな……」
思わず苦笑する。
大切に扱っておきながら額にかけていたことも忘れてしまうとは。
(……すまなかったな)
私は十年来の友に心の中で謝った。
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